「夜の海とアルペジオ」
「夜の海とアルペジオ」
今日の彼方は早起きだった。
早起きと言っても、午後五時くらいだ。
優樹はまだ眠たい瞳で、リビングのソファーに座り、夕方のニュースを見ていた。
彼方も、テーブルを挟んで優樹の向かいに座っていた。
京子はキッチンで何やら料理を作っている。いい匂いがしてきた。今日の夕食は何だろう。
我ながら、料理上手で世話焼きないい妹だと思う。
コーヒーの入ったグラスに口を付けると、遠慮がちに彼方が話しかけてきた。
「あの…優樹さん。」
「ん?なんだ?」
優樹は彼方に視線を向ける。
彼方は言い辛そうに、横目で京子を窺っていた。
「ちょっと…話があるんですけど…。」
京子は料理に集中している。
こちらを振り向く素振りはない。
「どうした?なんの話?」
優樹はテレビの音量を少しだけ上げる。
下げるのではなく、京子に話の内容が聞こえないように、上げたのだ。
「実は…お願いがあって…。」
彼方は声を潜める。
髪の隙間でピアスが光った。
自分が開けたピアスじゃない、銀のピアス。
「今月いっぱいじゃなくて、来月も…いや、もうしばらく働かせてもらえませんか?」
彼方が言った言葉に、優樹は驚いた。
「…え?お前、彼女は大丈夫なのか?」
彼方は、田舎に彼女を置いてきているのではないか。
来月からは田舎に戻って、彼女と過ごすのではないのか。
何か事情があって、出稼ぎに来ていたのではないのか。
「彼女なんて、最初から…いないですよ。」
そう言って、彼方は物悲しそうに笑った。
「まだここに、…置いてもらえませんか?」
嘘を吐いている笑顔じゃない。
あの夜仕事を休んで泣いていたのは、彼女と別れてしまったからなのだろうか。
だから、彼方はここに残ると言い出したのだろうか。
『余計な詮索はしてはいけない』
それは、自分が作った店のルールだ。
気になる。けれど、聞いてはいけない。
これは彼方のプライバシーだ。自分が踏み込んではいけない。
「…わかったよ。これからもよろしくな。」
そう言って、優樹は笑顔を作って、右手を差し出す。
「ありがとうございます。」
彼方はその手を取り、握手をした。
その手は、細く、骨っぽく角張っていた。
彼方が痩せてしまったのは、病気のせいだろうか。
「でも、あんまり無理するなよ?
休みたかったら、いつでも言ってくれればいいから。」
あの日見つけた薬の名前を調べた時に、なんとなく、彼方の抱えている病気に気付いた。
夜の仕事をしている人間は、精神が病んでいる者が多い。
自分がちゃんと責任をもって、彼方を支えてやらなければ。
「平気ですよ。ちゃんとバリバリ働くんで、安心してください。」
そう言って、彼方はまた笑った。
今日も天気が良かった。
雲一つない広い空に、沈みかけた夕日が水面を赤く照らす。
八月もあと数日で終わる。夏の終わりの海岸に将悟はいた。
もうこの時期には海に入っている人はいない。
お盆を過ぎれば、クラゲが湧くからだろう。
海岸にも、誰一人いなかった。
静かに揺らめく波を見ながら、浜辺に座って将悟はギターを弾く。
去年の夏休みに短期のバイトをして買った、赤いアコースティックギター。
こんな田舎の海でギターを弾くことを咎める人なんていない。
周りを気にせずに、思い切りギターを弾けるこの場所が好きだった。
潮風を受けて、波音とギターのデュエットが静かな海岸を満たすのが、気持ちよかった。
次はどんな曲を作ろうか。どんな歌を歌おうか。
そう考えながら、将悟の指は弦の上を踊る。
鼻歌交じりに弦を掻き鳴らせば、彼女への想いばかりが募る。
自分の作る曲は、彼女への曲ばかりだ。
会いたい。けれど、もう会えない。
あの頃に戻りたい。戻れるわけなんてないのに。
彼女の強さと、自分の弱さ。
ごめんとか、好きだとか、愛しているだとか。
自分の作る歌は、ありきたりだ。
自分の想いも、ありきたりなのだろうか。
ありきたりでもいい。彼女への想いは、本物だ。
夏の終わりが、なんだか切なく感じるのは、何故だろう。
ああ、そういえば、彼女がいなくなった時も夏の終わりだった。
夏の終わりと共に、彼女は消えてしまったんだ。
一人で死んでしまったんだ。
ふと顔を上げると、誰もいなかった海岸の隅に人影を見つけた。
こんな整備もされていない田舎の海岸に、誰か来るなんて珍しい。
海岸の隅にいた人物は、こちらに向かって歩いてきた。
季節に見合わない長袖のシャツ、少し猫背気味の姿勢。
その人物は、日向だった。
「お、日向。珍しいな。」
将悟はギターを弾く手を止める。
日向はゆっくりとこちらに近付いてきた。
「何か音楽聞こえたから…気になって。こんなところで、何やってるんだ?」
日向は首を傾げて、浜辺に座り込んでギターを抱える将悟の隣にしゃがみ込む。
しゃがむと余計に猫背が目立つ。歪な曲線を描く真ん丸な背中だ。
「気分転換。お前は?散歩?」
将悟は右手でアルペジオを弾きながら問う。
海辺の夕陽に、ギターの優しいアルペジオなんて、映画の中の一コマみたいだ。
「駅まで百合を送ってきた帰り。」
日向は駅の方角を指さす。
今日も百合と過ごしていたのか。
自分の携帯番号もメールアドレスも知っているはずなのに、夏休み中に日向からの連絡はなかった。
あんなことがあった後だから、たまに自分から『大丈夫か?』とメールを送っても、
『大丈夫。ありがとう。』と、二言だけの素っ気ないメールしか返ってこないし。
まあ、でも、素っ気ないメールは日向らしいか。
日向には彼女がいるし、邪魔したら悪いと思って、
自分から遊びに誘うことは控えていたが、日向から遊びに誘うということもなかった。
ちょっとだけ、水臭いと思う。友達なのに。
「相変わらず、ラブラブだな。」
「おかげさまで。」
そう言って、日向は小さく笑う。
以前に比べて、ずっと自然な笑顔だった。
久しぶりに見た日向は、髪が短くなっていた。
日向に会うのは、日向が自分の家に泊まっていたころ以来だから、二週間ぶりくらいだ。
元気そうに見えるけれど、相変わらず痩せ細ったままで、長袖で肌を隠している。
まだ傷は癒えていないのだろうか。
「そういえば、…傷、治ったか?」
日向は一瞬言い辛そうに俯いて、すぐに顔を上げた。
「まあ…薄くはなってきてるけど。火傷の痕は残りそうかな。」
日向は袖越しに自分の腕を擦る。
切り傷や、火傷や、痣があった場所だ。
襟から覗く首筋には、もう痣は見えなかった。綺麗に消えてよかったと思う。
百合が残したというキスマークも、目を凝らして見ないとわからないくらい薄くなっていた。
ただ一つだけ、色濃い印があった。おそらく昨日今日付けたモノだろう。
そういうのは隠せと言ったのに。
「そっか。またそんなことがあったら、すぐ俺に言えよ。いつでも泊めてやるから。」
「…ありがとう。でも、今は母親も帰って来ないし、平気だよ。」
あの日のことを知るのは、将悟と、誠と、将悟の祖母だけだ。
いや、日向は百合にも話しただろう。
日向の家の事情を知るのは、たった四人だけ。
母親から虐待を受けているなんて、言いふらすようなことでもないし、日向は隠したがっている。
今も長袖で肌を隠して、他人に虐待なんて悟られないようにしている。
だからこそ、日向が頼れる人間が少ない。
誠には『おせっかい』だなんて言われるが、もしもの時は、自分が力になってあげないと。
「…俺さ、美容師になろうかと思って。」
遠くの海を見て、ポツリと日向が呟く。
「進路の話?なんで美容師にしたわけ?」
確かに日向は手先が器用だし、彼方は髪を染めた時も綺麗だった。
短くなった日向の髪も、自分で切ったのだろう。
『美容院で切った』と言われても、信じられるくらい上手いと思う。
けれど、美容師は接客業だ。日向には苦手な分野なのではないか。
「百合が、『美容師がいい』って。『男の美容師はカッコいい』って言ってくれたんだ。」
日向は嬉しそうに微笑む。
百合の話になると、日向はよく笑う。それはもう、幸せそうに。
すっかり日向は、百合にデレデレなようだ。
「お前なあ…。自分で決めたんじゃねーのかよ。」
将悟は少し呆れて、ギターを弾く指を止める。
自分の人生を、他人任せになんてするべきじゃないと思う。
「確かに、百合に言われたから美容師になろうと思ったけど、最終的には自分で決めたよ。」
「最終的には、って…。」
恋は盲目だなんて、よく言ったもんだ。
無口で思慮深いイメージだったのに、今の日向はよく笑うし、よく喋る。
日向は、見違えるほど明るくなった。
それにしても、浮かれすぎにも見えるが。
「まあ、卒業したら、しばらくバイトして学費溜めないといけないけどな。
スマホで専門学校調べてたら、学生寮があるとこ見つけてさ。…家、出ようかと思ってるんだ。」
浮かれているように見えて、しっかり考えているのか。
携帯電話を持ったのは最近の癖に、もう器用に使いこなしているらしい。
自分でバイトをして専門学校に行くなんて、今時珍しくないのかもしれないが、偉いと思う。
それに、家を出るなら、もう虐待の心配もない。
けれど、将悟の頭の中に疑問が浮かんだ。
「家出るって…彼方は?彼方は、どうすんだよ?」
そうだ。最近、彼方の話を全く聞かない。
日向が虐待を受けて将悟の家に保護した時でさえ、日向は彼方のことを何も言わなかった。
いつもなら、真っ先に彼方の名前を口にするはずなのに。
彼方も日向と一緒に、虐待を受けていたのではないのか?
日向は彼方を置いて、逃げ出していたのか?
いや、そんなはずはない。日向はそんなことしない。
「お前さ、俺んち泊まった時、彼方のこと何も喋らなかったよな?
アイツ…どうしてるんだ?大丈夫なのか?」
その言葉に、日向の微笑みは消えた。
「彼方は…バイトで…ずっと家にいないんだ。」
日向は膝を抱えて、小さな声で呟く。
長い睫毛を揺らして、丸い背中は更に丸くなる。
「家にいないって、住み込み?何のバイトしてるんだ?」
「…知らない。彼方は、何も言わないし…。」
日向は静かに首を振る。
「知らないって…。」
夏休み前から、彼方の様子はおかしかった。
学校では日向と話そうとしないし、近付こうともしない。
まるで、日向を避けているようだった。
今も彼方は、日向のことを避けているのだろうか。
「やっぱり…俺と彼方は、一緒にいない方がいいと思う。」
日向は水面を見つめて、ポツリと小さな声を零す。
その瞳は、切なそうに目を細めていた。
「一緒にいない方がいいって…なんで?」
将悟の問いに、日向は一層強く膝を抱えた。
猫のような背中が、更に丸みを帯びる。
「その方が、彼方のためだ。…俺のためでもあるけど。」
表情は切なそうだが、日向の声はしっかりしていた。
はっきりとした、強い声。
「多分…俺たちは、今まで一緒にいる時間が長すぎたんだ。
将悟の言う通り、『ずっと二人で』なんて、無理なんだ。」
罪悪感が胸に押し寄せる。
そう仕向けたのは、自分のせいかもしれないと、将悟はずっと思っていた。
自分が余計なことを言わなければ、余計なことしなければ、二人は仲のいい双子のままだったのに。
二人の仲を引き裂いたのは、自分じゃないか。
「俺のせいだ…。」
将悟は消え入りそうな声を洩らす。
いつだって自分は、後になって後悔してばかりだ。
もう間違えないって、決めたはずなのに。
「俺のせいだろ?俺が余計なこと言ったから…。」
そうだ、自分のせいだ。自分のお節介癖が悪いんだ。
自分があんなことを言ったから。だから二人は違えてしまった。
二人をめちゃくちゃにしてしまったのは、自分だ。
けれど、日向はゆっくりと首を振った。
「違う。将悟のせいなんかじゃない。…彼方が間違えたんだ。」
真っ直ぐに将悟を見つめて、日向は力強く言う。
強い瞳が、百合に似てきた気がする。
間違えたとはどういう意味だろう。
彼方が百合に乱暴したことか。日向への異常な執着のことか。
何を誤ったというのだろう。
「それに、俺には百合がいるし。…百合がいれば、俺は平気。」
そう言って、日向は小さく笑って見せる。
そのぎこちない微笑みに、将悟は何も言えなくなってしまった。
波が押しては返す。何度も何度も、飽きることなく、ただそれだけを繰り返す。
いつの間にか、静かな海辺の夕日はもうすっかり沈んで、星空が広がっていた。
都会では見られない、田舎ならではの明るい星空。
彼女が好きだった、夜の海と星空。
彼女はよく、夜の海で泣いていたっけ。
生きるのが辛い、って。
生きていても意味がない、って。
いっそ死んでしまいたい、って。
彼女は苦しそうな呼吸を交えて、泣いていたんだ。
物悲しいアルペジオが、夜の海を満たす。
日向は黙って、静かな波を見つめていた。