「魔法の手」
「魔法の手」
「高橋さん!どっちっすか!?」
「何が?」
キッチンに戻ると、虎丸は興奮したように日向に声を掛けてきた。
梨本店長も、川口シェフも、含み笑いをしながら日向を見つめている。
「彼女っすよ!巨乳の子の方ですよね!?」
「あの巨乳に靡かない男はいないよなあ!?」
虎丸と梨本店長は、椿のことを彼女だと思っているみたいだ。
それにしても、人の彼女の姉に向かって巨乳だなんて、少し失礼じゃないか。
自分の周りの男は、どうしてこんな人間ばかりなんだ。
「…小っちゃい子の方だろ。」
寡黙な川口シェフがボソッと呟く。
川口シェフはクールで男らしくて、日向は少し憧れていたのに。
こういうことも言うのか。意外だ。
小っちゃいとは、何のことを言ってるのだろう。
身長か、胸か。
「どっちすか!?三人で賭けしてるんすよ!」
虎丸はグイッと日向に詰め寄る。
梨本店長も川口シェフも、興味深そうに日向を見つめる。
三人の視線に、日向は溜息を吐く。
「…左側の小っちゃい子だよ。」
日向の言葉に、川口シェフは小さくガッツポーズをした。
「ええええマジっすか!?なんで巨乳じゃないんすか!?」
「お前ロリコンかよおおおお!」
外れたのが悔しいのか、虎丸は大げさに残念がって見せる。
梨本店長も同様に、わざとらしく頭を抱える。
それにしても、ロリコンなんて酷い言われようだ。
「ロリコンって…。彼女も高校生ですよ。」
日向は少し唇を尖らせる。
確かに百合は幼く見えるが、歳は日向と二つしか変わらない。
同じ高校生同士なんだから、ロリコンなんかではないと思う。
「…俺の勝ちだな。」
川口シェフは残念そうな二人を見て、小さく笑う。
二人はとても悔しそうだ。一体何を賭けていたのか。
彼氏としては、なんだか面白くない。
「人の彼女で賭けするのやめてくださいよ。」
日向は呆れながら、途中だった食材の仕込みに取り掛かる。
梨本店長も川口シェフも、賭けの結果を聞いて満足したのか、自分の定位置に戻り、仕事を再開する。
けれど、虎丸はカウンターに手を付いて、尚もキッチンの中の日向に話しかけてくる。
「えー、じゃあ、あの巨乳の子もうちの学校の子っすか?」
「大学生だって。彼女のお姉さんだよ。」
椿は百合の五つ年上で、二十一歳の大学三年生だと聞いた。
日向の三つ年上だが、たった三歳違うだけで、見た目はすっかり大人のお姉さんに見えた。
ふんわりと落ち着いた雰囲気を漂わせていて、自分たち高校生とは、全然違う。
自分も百合も、いつかはあんな風になれるのだろうか。
「ってことは…あの子も将来巨乳になるんじゃね?」
二人の話を聞いていたのか、キッチンの奥から梨本店長が声を出す。
それに乗っかるように、虎丸も囃したてる。
「それを見越してあの子を彼女にしたんすか!?高橋さんやるぅー!」
「ゆくゆくは自分好みの巨乳に…か。お前すげーな!計画犯!」
茶化す虎丸と梨本店長。
川口シェフは黙ったまま、小さく笑っていた。
男しかいないキッチンは、咎める者もなく、下品な話ばかりだ。
こんな話、百合や椿に聞かれたらどうするんだ。
「そういうのじゃないですって…。」
小さく呟いて、日向は肩を落とした。
最初は不安だったバイトも、なんだかんだ言って楽しくやれている。
面倒見がよくて気さくな店長と、寡黙だが優しいシェフ、自分を認めてくれるスタッフたち。
自分が知らなかった箱庭の外は、とても広くて明るくて、暖かい場所だった。
今までの、閉ざされた暗く狭い世界とは違う。
彼方と二人きりで閉じこもっていたら、知り得なかった世界。
その日、百合は、日向がバイトを終わるまで店で待っていてくれた。
夜シフトの人と交代して、いつもより少し遅い時間にバイトを終えて、
店の外で椿と別れ、日向は百合とスーパーに寄ってから家に帰った。
百合はずっと嬉しそうな顔をしていて、いつものように手を繋いでくれた。
「びっくりしたよ。急にお姉さん連れてくるから。」
日向の家へと向かう帰り道。
辺りはすっかり夕日で赤く染まっていた。
徐々に日も短くなり、夏の終わりが近付いているような気がした。
日向は右手に買い物袋を、左手に百合の手を握って、家までの短い距離を歩く。
柔らかくて小さな掌から伝わる体温が、優しくて温かい。
「ホントは友達を誘ったんですけど、なかなか捕まらなくて。」
百合は、はにかみながら笑う。
友人が捕まらないのは、当然だろう。
夏休みももう終わるし、今頃になって宿題に追われている生徒も多いだろう。
自分もその一人ではあるが、宿題が終わっていないなんて、カッコ悪くて百合には言えない。
今まで散々情けない姿ばかり見せてきたけれど、これからは、百合になるべくカッコ悪い姿は見せたくない。
百合が頼りにしてくれるような、強い男になりたい。
ちっぽけでも、男のプライドだ。
それから、いつものように二人で夕食を作って、テレビを見ながら食事をした。
今日はのメニューは、揚げ物だ。
エビフライにアジフライ、コロッケに唐揚げがたくさん食卓に並ぶ。
どうせ揚げ物をするのだから、油がもったいないし、いろんな種類を作ろうとした結果だ。
けれど、さすがに作りすぎたと思う。
食べ終えるころには、日向は少し胃もたれをおこしていた。
体弱いだなんて、学校生活を送っていく上での偽りの設定のはずだったが、あながち間違いでもないのかもしれない。
そういえば、百合といる時以外、まともに食事をしなくなった。
一人でいると、食事をすることを忘れる。
何故だかお腹がすくこともほとんどないし、一人分の食事を作るのが馬鹿らしく思えてしまう。
誰かのために料理をするのは好きなのに。
自分のためだけに料理をするだなんて、面倒だし、しんどい。
普段からあまり食べないのに、久しぶりにこんなに油っぽい揚げ物ばかり食べたから、胃が悲鳴を上げたのだろうか。
食事を終えた日向は、ソファーに寝転がっていた。
胃もたれで気持ち悪い。胃が重い。吐き気がする。
少し前に飲んだ胃薬は、まだ効きそうにない。
カッコ悪いところを見せたくない、と思ったばかりなのに。
「お水、飲みますか?」
百合は、水の入ったグラスを日向に差し出す。
同じものを食べたのに、百合は平気そうだ。
心配そうな眼差しで自分を見つめている。
「うん…。ありがとう。」
日向は体を起こしてグラスを受け取る。
少し動くだけでしんどい。
吐いてしまえたら楽なのだろうが、それも難しそうだ。
吐きたいのに、吐けない。胃薬が効いてくれるのを待つしかない。
日向は気休めに、受け取ったグラスの水を一口だけ口に含む。
駄目だ。水をですら、口に入れるだけで気持ち悪い。
中途半端な吐き気に、日向は口元を手で覆って、背中を丸める。
「ごめんなさい。私が揚げ物食べたいなんて言ったから…。」
「ううん…。大丈夫。しばらくしたら治るから…。」
自分でも、こんなにひどくなるだなんて思わなかった。
どうして自分は、こんなに精神的にも肉体的にも弱いのか。
自分の情けなさに恥ずかしくなる。
背中を丸めて、ソファーでうずくまる日向。
そんな日向を見て、百合はそっと、日向の背中に手を伸ばす。
そして、ゆっくりと、優しく、丸まった背中を撫でる。
背中から伝わる体温が、心地いい。
ゆったりとしたリズムに、癒される。
少しだけ、楽になったような気がする。
「ありがとう。…俺、百合に撫でられるの、好き。」
そう言って、日向はわずかに顔を上げる。
まだ少し吐き気はするが、百合の優しさが嬉しかった。
「ちょっとは楽になりましたか?」
百合は、心配そうに日向の顔を覗きこんでいた。
真っ直ぐに、自分だけを見つめてくれる百合の瞳が好きだ。
その優しさに、もっと甘えたくなる。
「うん。…もっと撫でて。」
日向は、百合の肩に凭れかかる。
百合は日向を抱きしめるようにして、背中と髪を撫でてくれた。
百合の長い髪から仄かにシャンプーの香りがする。
強くなりたいと言いながら、こうやって百合に甘えるのも好きだ。
百合はこんな自分を受け入れてくれる。優しく受け止めてくれる。
それが嬉しいのと同時に、今まで誰かに甘えたことなんてなかったから、ちょっとくすぐったい気持ちになる。
恥ずかしいような、照れくさいような、そんな気持ち。
百合の体温と甘い香りに包まれていると、幸せだ。
心なしか、胃もたれはゆっくりと治まってきた。
百合の手は、魔法の手みたいだ。
いつも自分を、救ってくれる。
「ありがとう。もう大丈夫。」
そう言って、日向は百合を抱きしめる。
「治まりました?」
「うん。」
「よかったぁ。」
ふんわりと、百合は柔らかく笑う。
自分から触れるのはまだ少し怖いが、やっぱり百合を求めずにはいられない。
百合を腕の中に閉じ込めて、何処へも行けないようにしたい。
離れてしまわないように、自分だけのものにしてしまいたい。
日向は、意外と自分は独占欲が強いと思った。
「あ、そう言えば、さっきお姉ちゃんに何言われたんですか?」
ふいに、百合は思い出したように口を開く。
「えっ…。な…なんでもない…。」
突然の言葉に、日向は目を泳がせる。
さっき、とは、椿に耳打ちされた時のことだろう。
―避妊はちゃんとしないとね。
あんな恥ずかしいことを言われて、動揺してしまった。
百合は、そんな日向の様子を気にしていたのか。
「『なんでもない』は駄目です!気になります!」
百合は日向をじーっと見つめる。
あんなこと、百合に言えるわけない。
思いだしただけでも、赤面してしまうのに。
「いや…だからその…なんていうか…」
「なんていうか?」
真っ直ぐな瞳が、痛い。
「…言わなきゃ駄目?」
「駄目です。」
百合はニッコリと微笑む。
有無を言わせぬ微笑みが、日向を逃がさない。
百合は、こう見えて少し頑固なところがある。自分の意思は絶対に曲げない。
きっと、日向が言うまで、何度も聞いてくるだろう。
誤魔化そうとしたって、自分は上手く嘘は吐けない。
「…そういうこと…してるのか…みたいな…。」
日向は消え入りそうな声で、小さく呟く。
百合の顔が見れない。
こんなことを言って、引かれたりしないだろうか。
嫌われたり、しないだろうか。
「そういうこと?」
意味が伝わらないらしく、百合は首を傾げる。
こんな言葉で伝わるわけがない。
けれど、ハッキリとは言い辛い。
それに、わからないのなら、これ以上は、言えない。
いや、こんなこと、もう言いたくない。
「…もう…自分でお姉さんに聞いて…。」
日向は、真っ赤になった顔を両手で覆って俯く。
恥ずかしくて、何処かへ隠れてしまいたい。
「日向先輩、顔赤いですよ?」
そんな日向を見て、百合はおかしそうに笑った。
夕方、京子は自分の部屋で、アパートに帰るための支度をしていた。
イヤホンで好きな邦楽を聞きながら、服や靴を次々にキャリーバックの中に詰め込む。
雑誌やアクセサリーは置いていったほうがいいか。重し、嵩張る。
誕生日に優樹に貰った簪だけは持っていこう。
使うことはなくても、部屋に飾っておきたい。
「京子ちゃん。」
振り返ると、部屋の入り口に彼方が立っていた。
音楽を聴いていたから、気付かなかった。
女性の部屋に入るのなら、ノックくらいしてほしい。
京子はイヤホンを片方外して、彼方に向き直る。
「ノックもしないで、いきなり何ですか?」
「ごめんごめん。」
京子が不機嫌に問うと、彼方はヘラヘラと笑いながら謝る。
ここ数日落ち込んでいるようだった彼方は、すっかり元に戻っているように見えた。
彼方の耳からは赤いピアスは消えて、代わりに銀のピアスが揺れている。決意のつもりだろうか。
「学校、明後日からでしょ?もう帰っちゃうの?」
遠慮もなしに、彼方は京子の部屋に入ってくる。
そして、床に座る京子の前にしゃがみ込んで、目線を合わせた。
「ええ。色々と準備もあるし、バイト先にも一度顔を出しておかないと。」
京子はキャリーバックに詰める服を畳みながら、淡々と答える。
彼方はその様子を見つめながら、言葉を続けた。
「そういえば、夏休み中一度もバイト行かなかったんだね。」
「何処かのお馬鹿な誰かさんのせいで、バイトなんかしている暇なんてなかったんですよ。」
たっぷりと嫌みを込めて、京子は棘のある言葉を吐く。
こんな言葉、彼方に効果がないことは知っているけれど。
「何?心配してくれてたの?」
言葉の意図と反して、彼方は意地悪そうにニヤニヤと笑う。
からかっているかのような笑みが、癪に障る。
「…そういうところは嫌いです。」
京子はプイと、素っ気なく顔を背ける。
彼方は少し、自信過剰だ。
わざわざわかっていることを、口に出して言わなくてもいいのに。
そういうところが気に入らない。なんだか悔しいし、面白くない。
そんな京子を気にする様子もなく、彼方は首を傾げて京子の顔を覗きこむ。。
いつもの張り付いたような笑みを浮かべたまま。
「ねえ、たまに学校のこと教えてよ。電話で。」
「それは…日向さんのことを、ですか?」
彼方が興味のあることなんて、日向のことしかない。
学校のこと、なんて遠まわしに言わなくても、京子にはわかる。
彼方は本当に、ここに残るつもりなのか。
「無理ですよ。私、日向さんと接点ないし。」
「学校で、すれ違うこともあるでしょ?」
「そんなこと滅多にありません。」
学年も違うし、教室の階も違う。
お互い部活にも入っていないし、委員会だって違う。
いちいち気にしていないだけかもしれないが、移動教室ですれ違ったこともない。
日向の様子なんて、わかるわけがない。
「…そっか。」
彼方は、目を伏せて肩を落とす。
その表情は、残念そうだけれど、薄く笑みを浮かべたままだ。
そんな不器用な笑顔の仮面で自分の本心を隠すなんて、どこまでも未練がましい人だ。
「諦めるんじゃなかったんですか?」
「諦めたよ。…でも、気になるじゃない。」
困ったように、彼方は笑う。
どうして、そんなに寂しそうに笑うのか。
諦めただなんて、嘘じゃないか。
ここに残って、彼方はどうするのだろう。
日向と離れて、ここでずっと生きていくのか。
それとも、あの夜小さく零した言葉通り、消えてしまうのか。
「…たまに、ですよ。」
ポツリと、京子は小さく呟く。
「え?」
「たまに連絡してあげる、って言ってるんです。」
自分でも、どうしてこんなことを言ったのかは、わからない。
なんとなく、ただなんとなく一緒に暮らしているうちに、彼方のことをほっておけなくなっていた。
馬鹿で、愚かで、不器用な人だ。ほっとくと何をしでかすかわからない。
それに、叶わない恋をしているところは、自分に似ていた。
自分は彼方のように愚かではないが、情が湧いても仕方がない。
「ありがとう。やっぱり京子ちゃんは、意外と優しいよね。」
「『意外と』は、余計です。」
彼方の顔が、少しほころぶ。
けれど、やっぱり寂しそうな微笑みだった。