「あまのじゃく」
「あまのじゃく」
学校を終えて、バイトへ行く前に一度自分のアパートに寄る。
夏休み中は賑やかな兄のマンションで暮らしていたから、一人の部屋は静かで、なんだか寂しい。
とりあえずテレビをつけて、鞄を置く。
夕方のニュース番組が、静寂を掻き消す。
そんな雑音を聞きながら、京子は制服を脱いで私服に着替える。
バイトまでは、まだ少し時間がある。
京子は携帯電話を操作して、電話帳を開く。
相手はこの時間に起きているかどうかはわからないが、取り敢えず通話ボタンを押す。
短いコール音の後、相手はすぐに電話に出た。
『もしもし?』
電話の向こうからは、眠たそうな低い声。
「寝てました?」
『いや、起きてたよ。ベッドでごろごろしてた。』
欠伸をするような声が聞こえる。
ほとんど寝起きと変わらないのだろう。
「どうでもいいニュースと、悪いニュース、どっちから聞きたいですか?」
京子は眠そうな彼方に構わず、言葉を続ける。
一応、連絡すると言った以上は、定期的に報告をしようと思っていた。
学校が始まり、色々な情報も増えたことだし、京子は彼方に電話をしたのだった。
『うーん…とりあえず、どうでもいいニュースかな。』
彼方は少し悩んだような声を出し、どうでもいい方を選んだ。
「今日学校で、面白い噂を聞いたんですけど。」
『え?なになに?』
面白い、という言葉に彼方は興味を示す。
京子にとっては面白い噂でも、噂の張本人にとってはどうだろう。
「百人切り。学校で噂になってますよ。」
『百人切り?』
「学校の女の子と、寝たんじゃないんですか?」
『…ああ。女の子って、ホント、口軽いよねー。』
彼方は不愉快な様子も見せず、ケロリと言い放つ。
電話の向こうでは、あの胡散臭い笑みを浮かべているのだろう。
「否定しないんですか。」
『んー、さすがに百人はナイよ。無理無理。体力持たない。僕を何だと思ってるの?』
おかしそうに、ケラケラと笑う彼方。
京子は大きく溜息を吐いた。
「百人、とまではいかなくても…本当にそういうことしてたんですか。」
『…まあ、もう学校行かないから、別にいいじゃない。
どうせ、噂なんてすぐなくなるよ。』
否定もしないで無邪気に笑う彼方に、京子は呆れる。
本当に、誰とでも寝ていたのか。
日向のことを好きだと言っておいて、何をしているんだ、この男は。
その中に自分も数えられていると思うと、京子は憂鬱になる。
いや、あの夜のことは、誰にも話していない。
自分と彼方しか、知らないことだ。
『で、悪いニュースって?何があったの?』
さっきとは打って変わって、彼方は真剣な声になる。
彼方でも不安に感じるのか。さっきよりも声が低くなっている。
急くような、焦るような彼方の声に、京子は悪戯心をくすぐられる。
「聞きたいですか?」
『教えてくれるんでしょ?』
「どうしよっかなー。悪いニュースだから、聞きたくないんじゃないですか?」
『もう…。』
意地悪にそう言うと、溜息が聞こえた。
『意地悪しないで教えてよ。そのために電話くれたんでしょ?』
カチッという、乾いたガスライターの着火音が聞こえる。
痺れを切らして煙草を吸い始めたのか。
ほんの一か月前までは咳き込んで吸えなかったくせに、今では彼方も立派なヘビースモーカーだ。
寝ながら煙草を吸うのは駄目だと、散々言ったのに。
「寝煙草は駄目ですよ。」
『え、なんでわかったの?京子ちゃんこわいー。』
彼方は驚いて、すぐに茶化して笑う。
喫煙者ほど、ライターの着火音が意外と大きいことを知らない。
そういう音は、非喫煙者の方が耳につくのだ。
『ほら、ちゃんと座ったから。教えて。』
ゴソゴソと布がこすれる音が聞こえる。
電話越しでは、本当にベッドから降りたかどうかまでは、わからないが。
「私のバイト先で、日向さんが働いていました。」
『へえ。偶然。』
ヒューと、下手な口笛を吹く音が聞こえる。
『…余計なこと、言ってないだろうね?』
一層低い、探るような声。
それも当然か。自分が日向に近付きすぎるのは、よくないことだ。
もし自分が口を滑らせたら、彼方が何処で何をしているのかが、バレてしまう。
けれど、京子だって、馬鹿な女じゃない。
「言ってないですよ。ほとんどシカトしてます。」
その言葉に、彼方の笑い声が聞こえる。
『あはは。京子ちゃんらしいや。』
「だって、どんな顔したらいいんですか。」
『別に、普通でいいんじゃない?
だって日向は、僕と京子ちゃんがこういう関係だってことは、知らないよ?』
「一度、飼育小屋の前で見られています。」
夏休み前に、彼方と話しているところを、彼方を迎えに来た日向に見られた。
ほんの少しだったけれど、確実に日向は京子の顔を見ている。
その時のことを日向に問いだたされたら、誤魔化しきれる自信がない。
『覚えてないでしょ、日向は。
あの時は少しだけだったし。それに、日向は人の顔を覚えるの苦手だし。』
本当にそうだろうか。
学校での噂や、彼方の話でしか、日向のことは知らないけれど、
日向は彼方と違って、なんだか利口そうな気がする。
鋭そうというか、頭が切れそうだ。
些細なことで、自分と彼方の関係がバレてしまいそうで、怖い。
『それで?それが悪いニュース?それ以上はないの?』
再び、退屈そうな欠伸が聞こえる。
彼方にとっては、退屈な情報だったのだろうか。
もう少し、危機感を抱いてもよさそうなのに。
「それで、って…心配にならないんですか?
私が日向さんに、あなたのことをバラすかもしれませんよ?」
『しないでしょ。京子ちゃんは、僕のことを裏切れない。』
彼方は、キッパリと言い切った。
「どこからそんな自信が出てくるんですか。」
『京子ちゃんは、優樹さんのことが好きだから。
優樹さんが困るようなことは、言えないでしょ?』
彼方の言っていることは、もっともだ。
優樹の迷惑になるようなことは、したくない。
けれど、自信満々な彼方が、少し癪に障る。
そんなに自分のことを信用しているのだろうか。
それとも、駆け引きか。
彼方に上手く踊らされているような気がして、気に入らない。
「ホント、嫌な人ですね。あなたは。」
京子は皮肉気味に吐き捨てる。
電話の向こうからは、鼻で笑うような声が聞こえた。
『僕、京子ちゃんのことだけは、信用してるんだから。』
「そんなこと言っても、私は靡かないですよ。」
『あれ?機嫌悪くしちゃった?ごめんごめん、そんなつもりじゃないんだ。』
甘い声で、彼方は囁く。
『僕、友達なんていないし、信用できる人もいないしさ。…京子ちゃんだけなんだよ。』
ご機嫌取りのつもりだろうか。
けれど、彼方の言葉は、薄っぺらい。
「君だけだよ」「君だけは」
そう言えば、自分が黙って従うと思っているのだろうか。
他の女はそれで落ちたとしても、自分は違う。
「よく言えますね。私だけ、なんて。」
『本当のことだよ。』
「どうせ、いろんな人に言ってるくせに。」
『やだなあ。本当に日向のことを頼めるのは、京子ちゃんだけなんだよ。』
信じて、と彼方は甘い囁きを繰り返す。
言葉は違っても、こうやって彼方は女を誑かしてきたのか。
「どうだか。」
『ね、お願い。今度お礼するからさ。』
甘い言葉に靡かないからって、今度はモノで釣る気か。
いいだろう。少し困らせてやろう。
「…駅前のマルシェのチーズケーキ。特大ホールで。」
『ケーキ?…わかったよ。今度持ってくね。』
彼方は可笑しそうに笑う。
少しは渋ると思ったのに、やけにあっさりしている。
要求が子供っぽすぎただろうか。
けれど、ただで情報を流すのは、割に合わない。
それに、地元で有名なマルシェのケーキは結構高い。
これくらい、貰っても当然だろう。
『それで、他にも何かある?』
「ベリータルトもあると嬉しいです。」
『そうじゃなくって…。っていうか、そんなに食べると太るよ?』
彼方は少し呆れたように言う。
「残念ながら、私は太らない体質なので。」
『今だけだよ。歳取ったら、大変なことになるよ?』
そう言って、溜息を一つ。
『で、僕は日向のこと、聞いてるんだけど。』
日向のこと、と言われても、京子はそれほど日向に詳しくはない。
「日向さんのこと、って言われても…。うーん。」
学校で噂に聞く程度と、バイト先で誰かと話してるのを聞くくらいだ。
そういえば、昨日はいつも以上に日向が虎丸と仲良く話していたのを思い出す。
「あ。なんか最近、モテるようになったらしいですよ。」
『へえ、あの日向が。』
「学校でも女の子に囲まれてるらしいですよ。本人が言ってました。」
『ふぅん。』
虎丸に羨ましがられながら、日向は溜息を吐いていた。
きっと、日向はそういうのは苦手なのだろう。
まあ、彼女がいるから当然か。
女たらしな彼方と違って、日向は誠実そうだ。
『…でもそれは、代わりでしょ?僕の。』
彼方は、電話の向こうでクスクスと笑う。
「よくそんなことが言えますね。」
どこからそんな自信が湧いてくるのか。
少し自意識過剰すぎやしないか。
『女の子ってわかりやすいよねー。
僕がいなくなったら、「次は日向」なんて。ホント、女の子って怖い怖い。』
そう言って、彼方は意地悪そうに笑う。
確かに、彼方がいないからって日向に乗り換える女子は、馬鹿だと思う。
顔が整っていれば、彼方でも、日向でも、どっちでもいいものなのか。
双子で顔が同じでも、二人の性格は根本的に違う。
『それで?日向は調子に乗ってるの?』
「いえ、本人は嫌がってましたけど。」
『あはは。日向らしい。どうせ、女の子に囲まれておどおどしてるんでしょ。』
なんだろう。彼方の言動が少しおかしい。
『日向がモテるなんて、バッカみたい。そんなの似合わないのにね。』
無邪気な子供のように、クスクスと笑う彼方。
けれど、まるで、日向のことを馬鹿にしているみたいだ。
彼方はこんなことを言う男だっただろうか。
「なんか、変です。」
『変?何が?』
「日向さんのこと、馬鹿にしてますよね?」
馬鹿にしている。見下している。嘲笑っている。
彼方は日向のことが、好きだったはずだ。
なのに、何故そんなことを言うのだ。
少しの沈黙の後、煙草の煙を吐き出すような息が聞こえた。
『…僕ね、日向のこと、嫌いだもん。』
それは、ハッキリとした低い声だった。
冷たくて、残酷な言葉だった。
嫌い、という言葉は強い。言葉の弾丸で打ち抜かれたようだ。
自分に向けられた言葉ではなくとも、京子は胸に棘が刺さったような気分になった。
言葉として口に出されただけで、息が詰まりそうになる。
けれど、そう言った彼方は、冷たいほど、淡々とした口調だった。
彼方に、どんな心の変化があったのだろう。
口を開けば「日向、日向」と、日向の名前を呼び、
日向を思って、心配して、悲しんで、泣いて、体を震わせていたのに。
嘘でも日向のことを「嫌い」だなんて、言えなかったくせに。
日向がいないと生きていけない、とさえ、言ったのに。
どうして彼方は、日向のことを嫌ってしまったのだろう。
好きだったくせに。大切に思っていたくせに。
「好きだったんじゃ…ないんですか。」
『好きだった。でも、もう諦めるって言ったでしょ?』
「自分のモノにならないからって、嫌いになるんですか。」
『それもあるけど…。』
吐き捨てるように、彼方は言う。
『日向だけが幸せそうにしてるのがさ、なんかムカつくんだよね。』
「…どうして。…好きな人の幸せを、願えないんですか?」
『だから、好きじゃないって。もう、好きじゃない。』
彼方の声から、苛立ちを感じる。
そう思い込もうとしているだけのようにも聞こえる。
もう好きじゃない、嫌いだと、まるで自分に言い聞かせるように。
他人の言葉で、惑わされることがないように。
日向が幸せそうでムカついているんじゃない。
羨ましがっているんだ。妬んでいるんだ。
そして、何故、日向の隣が自分じゃないのか、嘆いているんだ。
彼方はまた、迷っている。まだ、迷っているんだ。
強がっているだけだ。誤魔化しているだけだ。
本当にどうしようもないくらい、馬鹿で、愚かで、不器用な人だ。
過呼吸をおこすくらい悩んでいるのに、誰にも頼れない、打ち明けられない。
彼方が本音で話せるのは、自分しかいない。
きっと、電話の向こうでは、辛そうに顔を歪めているんだ。
やっぱり京子は、彼方のことを、ほっとけない。
「…明日、夕方に私の家に来てください。」
『え?…突然、何?』
彼方は驚いて、訝しげな声を洩らす。
「ケーキの催促ですよ。お礼、くれるんでしょう?」
自分もなかなか素直じゃない。
こんな口実がなければ、彼方を誘う理由が思いつかない。
素直に心配してるなんて、言えない。
『ああ、わかったよ。チーズケーキとベリータルトね。』
「他にも色々買ってきてくれてもいいんですよ?」
『はあ…。京子ちゃんは怖いなー。』
そう言って、彼方は呆れてから笑った。