すでに二学期が始まり幾日かが過ぎていた。まだ残暑は厳しく朝晩は兎も角、日中は真夏を思わせる日が続いていた。
千秋は高校から帰るといつも通り夕食の支度をしていた。今日は弟の好きなカレーだ。今夜は父親が出張の為帰って来ないのだ。こんな日は弟の好きなカレーになる確率が高い。
キノコや茄子なんかも入れるのが、母親ゆずりのやり方で、弟はこれが好きなのだ。でも、千秋はこうして弟にカレー を作ってあげられるのも、そう多くは無いだろうと思っていた。
「ただいま~」
思ったより早く弟が帰って来た。
「早いわね。ご飯まだ出来ないわよ」
後ろで聞こえたいつもの声に振り向きもせずに返事をする。
「判ってるよ。今日は顧問の先生がいないんで部活が出来なかったんだ。それに俺はもう一応引退してるしね。ところで、今日は何? おかず」
「カレーよ。あんたの好きな」
「やったね! 出来るまで俺勉強してるわ」
それは、千秋にとって意外とも言える言葉だった。
『勉強って、あの子……』
口には出さずに言葉を飲み込んだ。
夕食の時間になり声をかけると、弟はすぐに降りて来た。
「父さん出張だから、今夜は二人だけよ」
「うん、判ってる」
短いやり取りで父親が今日は帰宅しない事を理解する。
カレーをよそい、黙って食べ始める。千秋は何だかいつもより弟の態度が違う感じなのに気がついた。
「どうしたの? なんかあったの」
千秋の言葉に弟はうなずきながら
「食べたら話をする」
そう言ってスプーンを口に入れ続けた。
食べ終わりかたずけると弟は千秋の正面に座り、意を決したように話出した。
「俺、姉ちゃんの高校に行こうと思うんだ」
千秋は弟が一瞬何を言っているのかが理解出来なかった。弟は部活の競技で中学の全国大会に出場した実績を持つ。その為あちこちの高校から入学の誘いがあったのだ。弟も誘いのあった東京の私立高校に進みたがっていたので、その高校に進学するものだと思っていた。
「あんた、東京の高校は?」
そこに進めば学校の寮に入り、その競技一色の生活になる。それも納得しての事だと思ったし、まさかそこを変えるとは思わなかった。
「今日、先生に断りの返事をした」
あっけなく言うその態度に千秋は少し腹が立った。
「あんた、あれだけあそこの高校に行きたがっていたじゃない。どうして……」
弟も千秋の言い方が強かったので、察したようだ。
「姉ちゃん、急に決めたことじゃあ無いんだ。よく考えて決めたことなんだ」
弟の目は真っ直ぐ前を見つめていた。千秋もその目を見据えて
「ちゃんと、お姉ちゃんに話してご覧」
「判った」
そう言って弟は語り出した。
「全国大会に出たって言っても俺ぐらいの実力のある連中が全国から入学するそうなんだ。目が出なければ学校には残り難くなるそうだし、実際見込みが無いと言われた者は一年もしないうちに辞めているそうだ。俺がそうならないという確証は無いし……それに、姉ちゃん、本当は親父の事心配なんだろう? 何だかんだって言っても本当は心配なんだろう。だから俺がこの家から高校に通って親父と一緒に暮らすよ……そりゃあ姉ちゃんみたくは行かないけれど、俺と親父で仲良く暮らすよ。親父に何かあってもすぐに知らせられるし。姉ちゃんもその方が安心だろう?」
照れもせず、真正面を向いて弟はそう言いきった。
「あんた……じゃあもう部活は辞めるの? 高校じゃやらないの?」
その言葉を聴いた弟は照れるような笑い顔をして
「調べたんだ。姉ちゃんの高校……結構強いじゃないか。県大会でベスト四になったこともあるじゃん。だから俺が入って必ず全国に連れてってやるよ」
そんな強気なことも言う……
「そう……それで、あんた成績はどうなの? わたしの学校結構レベル高いよ」
「だから勉強してるんじゃん。県立に簡単に入れるとは思ってないよ」
何時の間にそんな事を考えていたのだろう。帰って来ても夕食の事しか話さないと思っていたのに……
千秋の心に少しの灯りが灯った気がした。
「それに……姉ちゃん。姉ちゃんの好きにすれば良いと思うんだ俺。姉ちゃんは母さんが亡くなってから、おしゃれもせずに、彼氏も作らずに、高校と家の往復だけで過ごして来たじゃないか。俺は自由にさせて貰った。ありがたかった」
千秋は二人分のお茶を入れると弟の前に差し出す。それを手に取り一口飲むと
「俺だって、姉ちゃんだって同じ母さんの子じゃないか、それなのに何時も俺だけ良い想いをして、姉ちゃんは貧乏くじばかり……俺、ずっと姉ちゃんに悪いと思っていたんだ。だから、今回は姉ちゃんの希望通りにしなよ。俺、ちゃんと勉強して、姉ちゃんと同じ県立に入って、部活もやって、そして大学に行くよ」
千秋は弟がそんなことを考えていたのが嬉しかった。母親の代わりをしたのだって、自然とそうなっただけだ。特別にやりたい事を我慢していた訳ではない。そう……自然となっただけだ……
黙っている千秋に弟は恐る恐る
「怒ったか? 生意気なこと言って気に触ったなら謝るよ。俺、姉ちゃんには本当に感謝しているんだぜ」
申し訳なっそうな表情をしている弟を見ると千秋は口元が緩むのを覚えた。
「ありがとう……あんたが、そこまで考えてくれたなんて、今まで考えもしなかった。これからは色々な事を少しは相談するからね」
「少しかよ……」
「そうよ、わたしが居なくなるまでの間にもっとしっかりして貰うから」
笑いながら冗談とも本気ともつかない千秋の言葉に弟も思わず笑うのだった。
「ねえ、それまでにカレーの作りかた教えてくれな」
「いいわよ! しっかりと教えてあげる」
千秋は、それまで何回カレーを作ってあげられるだろうかと思うのだった。
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