千秋の住んでいる街は春の訪れは遅い。北風が山から吹き降ろして街の人々の襟を立たせる。
だが、千秋は喜びを胸に家路を急いでいた。電話で学校や先生、それに父と弟に連絡はしたが、一刻も早く父の喜ぶ顔が見たかった。
K市から新幹線に乗り、N市で乗り換えて在来線に乗る。暫く揺られると千秋達の住んでる街に着く。途中学校に寄り、担任と進路指導の先生に報告をする。
「電話でも伝えましたが、合格しました!」
「うん、良かったな! 天下のK大学だ。見事だよ!」
先生達は口々に喜んでくれた。「家族の方も待っているだろう!」
その言葉で「失礼します」と言って家路に着いた。
電話では父は「良かったな」と短く言ってくれただけだが、言い方が何時もとは少し違っていたのが判った……随分心配掛けたと思った。
逆に弟は喜び「やった! 姉ちゃんもこれで春からk大生だ!」とあからさまな態度をした。またそれも弟の照れ隠しだと思った。
学校からの帰り道、空から白いものが降って来た。
「春の雪だね。積もらないと思うよ」
八百屋の小父さんが声を掛けてくれた。その声で今日は鱈すきにしようと思った。鱈は一昨日バター焼きにしようとセール品を多めに買ったのだが、結局使わなかったので、その処理も兼ねていたし、白菜は未だ家にあった。足りない春菊としめじ、それにえのきを買う。作るものが判ったのか、小父さんは千秋に
「売れ残りのだから」
葱を二本入れてくれた。
「ありがとう小父さん!」
「いいよ、千秋ちゃんの顔を見られるのも、あと僅かなんだろう?」
小父さんも千秋がもうすぐこの街を出て行くのを知っているのだ。
「うん……今日ね、志望校に合格したの」
今日の事を正直に八百屋の小父さんに言うと、大層喜んでくれて
「これはお祝い代わりだよ」
そう言って棚にあった箱入りのマスクメロンを持たせてくれた。
「小父さん、こんなに高いもの貰えない……」
困惑する千秋に八百屋の小父さんは
「いいから、いいから、四人で食べてくれ。俺の気持ちだから」
四人……そうか、母も数に入っているんだ……小父さんありがとう……
千秋は何回も礼を言って八百屋を後にした。
コートの肩に雪を載せながら家についた。弟が迎えに出てくれた
「電話くれれば荷物取りに行ったのに」
「いいのよ。大したことないから……」
千秋は弟には「鱈すき」だけでは物足りないと思い、コンビニで鶏の唐揚げを買ったのだ。そのついでに豆腐も買ったので荷物が増えたのだ。弟はそれを見て言った言葉だった。
弟は既に千秋の高校に合格して、入学手続きも済ませている。来週には制服の採寸やら教科書や部品の購入する日がやって来る。それには千秋が付いて行こうと思っている。
その晩は千秋の予定通りに「鱈すき」になった。普通は「鱈鍋」とか「鱈の水炊き」とか言うのだが、千秋の家では「鱈すき」と言うのだ。これは千秋の母が導入した時に『「鱈すき」というのよ』と母が言ったからだ。それ以来この家では「鱈すき」と言うのだ。
三十センチほどの土鍋に出し昆布を敷き、そこに白菜を大きめに切って並べて行く。その上に豆腐、鱈、茸類、最後に春菊を載せる。水を張り、火に掛ける。最初からカセットコンロだと時間が掛かるので、一度沸くまではガス台で加熱する。
沸いて来たら、土鍋を食卓のカセットコンロに移す。「カチッ」と摘みを回して火を点け、土鍋を載せる。直ぐにぐつぐつ言い出す。
「ほら、煮えて来たよ。どんどん食べなね。後から入れて行くからね」
千秋は、父と弟に言う。しかし、弟は今のところ、唐揚げのほうが良いみたいだ。夢中で食べている。
父親は、一杯呑みながら、取り皿にした小鉢に豆腐をすくって入れている。そこにポン酢を入れて食べている。
「うん、旨いな。寒い時はこれだな」
喜ぶ父の顔を見て「鱈すき」にして良かったと思った。
勿論、食後のメロンは家族四人で美味しく戴いた。
弟の制服の採寸や持ち物や、教科書の購入する日がやって来た。千秋自身は昨日、大学の入学手続きを郵送で済ませたのだ。来週あたりには、向こうで住む場所も決めたい。これについては父親の知り合いが良い場所を案内してくれることになっている。弟の事もそうだが、自分の準備も進めなくてはならない。
実は、千秋達三年はもうこの学校を卒業していた。その為、校内は静かだった。時折進路が確定した生徒が報告にやって来るだけだった。先日、千秋がそうしたように……
今日の催しは体育館で行われていた。受付で、合格通知表を見せて、名簿で確認する。そうすると一枚の紙を渡される。そこには、制服から教科書や襟や胸に付ける校章等をきちんと買ったかチェック出来るようになっていた。
制服から始め、校章やら細かい物で終了する。体操着等はサイズにあったものを買った。弟と二人共両腕に一杯になった紙袋を下げて学校を出た。
「あんた、こういう体操着なんてのも洗濯出来る? 漂白剤とか入れないと落ちないよ」
横を歩く弟に問い掛けると弟は笑いながら
「そんなの知ってるよ。酷い汚れはもみ洗いしてから回すんだろう?」
そうか、この前教えたんだと思い出した。近頃は色々なことが頭を巡るので、つい思い出せないこともある。
「それより、早く住む場所決めないと駄目なんじゃないの。いい所は直ぐに塞がるんだろう」
「うん。だから来週あたり行こうかと思ってるんだけど……」
「来週!? 遅いんじゃないかな……親父の知り合いの人、ちゃんと押さえてくれているのかな?」
「そんなの判らないけど、大丈夫だと思う。来週行くって言った時も『大丈夫だよ』って言ってくれたから……」
「なんだよ、あてにならないな」
あれから弟は千秋の事を本当に良く口に出すようになった。千秋から見れば中学生がいっちょ前に口を利いてるのだが、それが妙におかしかった。
翌週予定通りに部屋を見に行った。決めて来るつもりだと弟に言った。
「大丈夫かな姉ちゃん……あれで、大事な事うっかり忘れるからなぁ~」
西の空を見ながら呟いている。それを見て父親が
「大丈夫だろう。しっかり頼んであるから、あいつがソソッカシくても俺の友達がきちんとしてるからな」
それを聴いて弟も安心したようだった。
翌日帰って来て父親に千秋は
「最初の場所で決めて来ました。大学にも近いし、商店街もすぐだし、交通の便も悪く無いし」
「そんな良い場所が良く残っていたな」
「うん、もう、仮予約していてくれたから、わたしが気に入れば即決まりだったの」
「そうか、改めてお礼を言っておこう……」
その晩父親は知人にお礼の電話をしたのだった。
千秋はアパートに引っ越す為の支度をしていた。今日は土曜。弟は千秋の卒業した高校の部活の練習を見学に行っている。千秋のクラスメイトが卒業した後でもOBとして練習の面倒を見ているのだ。その縁で千秋は弟に練習を見学させてくれるように頼んだのだ。
部としても、将来有望な選手の見学は大歓迎で、二つ返事で引き受けてくれたのだ。
そんな日だった……千秋は母とのことで父親にどうしても訊いておきたいことがあった。今日は良いチャンスだと思った。
千秋は、新聞を読んでいる父親に向かって
「ねえ、ちょっといい? どうしても訊きたいことがあるんだけど……」
父親は新聞から顔をあげて
「うん? 何かな……」
そう返して来たので、千秋は父親の傍に座り
「あのね。前からちゃんと訊いて置きたかったのだけれど、中々訊く機会が無くて……今日訊かないと訊けない気がして……」
「何でも答えてあげるよ」
その目は優しさに溢れていた。千秋はこの目ならきっと正直に答えてくれると思った。
「あのね、お母さんが入院していた時、お父さん、病院に見舞いに来る度に違う花束買って来ていたでしょう。ある日は薔薇だったり、ある日はカサブランカだったり、お見舞いに来る度に違う花を買って来ていたでしょう。それは、お母さんが喜ぶと思っていたから?」
千秋が自分が予想していなかった質問に父親は、暫く考えて
「勿論、そうだよ。いっぺんに色々な種類の花を持って行くより、毎回違う花を持って行けば、お母さん『次は何の花かしら?』と思って、それが楽しみになると思ってな……それで変えたんだ」
父親の答えは想像通りだった。事実母親は千秋が知る限り、父親の持ってくる花を楽しみにしていた。何を持って来てくれるかの予想を立てていた。そして、その予想が当たった時の母親の喜びようは本当に嬉しそうだった。
『やっぱりわたしの思った通りだった。よかった……』
千秋がそう思っていた時だった。父親がポツリと
「でもな、父さんひとつだけ心残りがあるんだ」
そう言って暗い目をした。
「心残りって……」
「実はな、母さんが、危篤になった時にな、父さんやはり花を買っていたんだよ。白いカトレアの花を買ってから病院に行ったんだ。だからその分遅くなった。だから僅かに母さんの意識のあるうちに間に合わなかった。それが父さんの心残りなんだ」
初めて聴いた話だった。そう言えばあの時、手にカトレアの花束を持っていたのを思い出した。あれがそうだったのか……あれのせいで間に合わなかったのか……
千秋は何故、父親が一時を争う時にそんな事をしたのかと思った。
間に合えば、きっと母のことだ、喜んで、少しは意識も長く続いたかも知れない。結局は賭けだった。そうなのだ、賭けだったのだと千秋は思った。
そこまで考えて、千秋は思い当たることがあった。普段でも父は、良くカトレアの花を買って来ていた。普通男性が花を買って来る等というのは、余りあり得ないことだと思う。
もしかしたら、カトレアは二人に取って何か訳のある花だったのでは無いだろうか?
いいや、きっと大事な花だったのだろう。そうで無ければ、危篤の時にワザワザ買っては来ないだろうと考えた。
「お父さん。本当の事を教えて、もしかしたら、お父さん、お母さんにプロポーズする時にカトレアを送ってプロポーズしたんじゃ無いの?」
千秋のその言葉を訊いた父親昔を思い出すように
「良く判ったな。そうなんだ。父さん、母さんにプロポーズした時に白いカトレアの花束を差し出したのさ。想いの丈を振り絞ってな……」
「それで母さんは何と言ったの?」
「ああ、母さんはな、『私は優美な貴婦人でも成熟した大人の魅力もありませんけど宜しいですか?』と言ったな。それに対して父さんは『あなたは、私にとって充分魅惑的です』って言ったよ」
「それってカトレアの花言葉……」
千秋は自分の両親は何と素敵な恋愛をしたのだと思った。だから父親は危篤の時だから、一番大切な花を買い求めたのだと……
「お母さん、きっと喜んでいたと思う……お父さん大丈夫だよ……きっとだいじょうぶ……わたし、二人の子供で良かった……これで向こうへ行っても強くやって行けます。」
何時の間にか頬が寝れていた。これは喜びの涙であろうか……
素敵な恋をした両親……わたしも何時かはそうのような恋をしてみたいと千秋は強く思うのだった。
了
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