『ななし』の青年と『赤ずきん』
記憶はそこから始まった。
視界は唐突に開け、暗黒に僅かな光が差す。
光と言っても僅かなもので、広がるのは満月と星屑輝く夜の空。
暗い事には変わりの無い空は、更に黒い木々に覆われていた。
ざわわ、と擦れる枝葉が囁く。此処は夜の、森、だろうか。
冷え切った掌を額において、ぼんやりとした意識を次第に覚醒させていく。うっすらと開いた目がようやく大きく視界を確保したその時、初めて白黒の世界に眩いほどの原色が飛び込んできた。
赤い布。更にその中には小さな血の気のない肌があり、更に中には虚ろに開いた目があった。
それはとても空虚で、水を満たした洗面器に開けた穴のような、すべてを吸いこむような瞳だった。
死んでいるように乾いたその目は、しかし、何故か、とても美しく見えて、とても羨ましく思えた。
「おきた」
夢見心地の目と脳が、耳に入った新たな情報で覚醒する。
そこで初めて青年は、横たわる自分の顔を、赤いずきんを被った少女が覗き込んでいる事に気付いた。
少女はぽつりと、抑揚のない声で言う。
「おはようございます」
目覚めの挨拶、おはようございます。
どうやら自分は眠っていたようだ。ねっとりと重い身体をゆっくりと起こして、何度も目を瞬かせ、考える。
何故、眠っていたのだろう。此処は一体どこだろう。一体何が起こっているのだろう。
少女の挨拶など忘れて考えていると、少女は再び同じトーンで、今度は肩に手をかけてから言い直した。
「おはようございます」
夜におはようございます、とは。
的外れな事を考えつつ、どうやら返事を待っている様子の少女に、ようやく挨拶を返す。
「こんばんは」
少女の方を向けば、何故か不思議そうに首を傾げている。
何か不思議だったろうか。しかし、相も変わらず無表情な少女。この子は一体? 自分の身に起こった事にしか回らなかった意識がようやく周囲に向き始める。訳の分からない状況の中で、青年は意外にも冷静であった。
「君は……えっと、君の名前は?」
「キミノ、ナマエ?」
復唱し、少女は今度は逆方向に首を傾げる。何が分からないのだろうか。
少女をまじまじと観察する。
日本語を話すので、異国の人という訳ではなさそうだ。森の土や葉に少し汚れてはいるが、綺麗な人形のような、悪く言えばどこか作られたような綺麗な顔立ちだった。
そして特徴的なのは、頭をすっぽり覆い隠す赤いずきん。どこかで見たようなその姿形が、ふと思い付いて口に出る。
「……赤ずきん」
「はい」
少女が返事した。思わず「え」と声が漏れる。
「君は……赤ずきん?」
「はい」
無機質な返事と共に、少女は前にこくりと頷く。
この少女は『赤ずきん』。
誰でも聞いた事があるであろうあの童話の『赤ずきん』。少女は本当にその『赤ずきん』なのか。それともそう呼ばれているだけの少女なのか。もし前者であるならば、この世界は童話の世界だとでも言うのだろうか。
赤ずきんは視線を落として、不思議そうに首を傾げた。そして、すぐに「ああ」と呟くと、かくんと首を元に戻して、まじまじと青年を見ながら口を開いた。
「キミノナマエハ?」
「僕の名前?」
青年の真似をしているような問い掛け。青年をなんと呼べばよいのか、そういう意図なのだろう。
青年は自身の名前を口にしようとした。そして、言い淀んだ。
頭の中にある筈の文字列は、すっぽりと、綺麗さっぱり抜け落ちていた。
「僕の名前……なんだっけ」
「ナンダッケ?」
赤ずきんはやっぱり首を傾げた。
名前だけではない。今まで何をしていたのか。どうして眠っていたのか。その答えがまるで出てこなかったように、青年の頭の中からは、『目が覚めるとき』以前の記憶が、まるで残されていなかったのだ。
青年は、言葉と常識以外の全てを忘れていた。
これが『ななし』の青年と、『赤ずきん』の少女の始めの出会いだった。