第2章 第2話 岬の歌声
岬の先端に青年は立っている。
ほほをなでていく風はやさしく、心地よささえ感じる。
長い銀髪を風に梳かせながら、彼は海を見つめていた。
「この海の先に……ぼくの故郷はあるのだろうか……。」
首から下げられた銀のペンダントを手に取り、開く。
ペンダントから澄み切った音が広がっていく。
海を渡る風の歌にも似た音色に、青年は目を閉じ、そして静かに歌い始めた。
それはこの世界でよく歌われている歌。とりわけ子供たちが好んでよく歌っている歌。
そして、自身の記憶のない、ましてこの世界での記憶などあるはずがない青年にとっては歌えるはずのなかった歌。
だが、初めて耳にしたその時から、彼は自然と唇へその旋律をのせていた。
なぜ自分がそれを歌うことができたのかはわからない。
だがそれを口ずさむとき、青年には自身がこの世界と、そして記憶の先の自身の故郷ともつながっていられるような、そんな不思議な感覚が感じられていた。
「ジークのおにいちゃん。」
どれほどそうしていたのだろう。
不意に後ろからかかった声に青年は歌うことを止め、ペンダントを閉じると慌ててそちらへ向き直った。
「せんせいがね、ごはんができたから、おにいちゃんをよんできてあげなさいって。」
「せんせいってすごいよね。きっと、おにいちゃんはここだろうって。
なんにもいわないでもわかるんだね。」
「そうだね、君たちの先生はなんでも知ってるんだね。」
言って銀髪の青年――ジークと呼ばれた青年は一人の少女の頭を優しくなでる。
少女は両手を頭へとやり、嬉しそうな笑顔をみせる。
事実、意識を取り戻し、歩けるようになってからは、彼はここへ来ることが多くなっていた。
自分が流れついたのはこの近くの海岸。
ならば自分の故郷はこの海の向こうなのかもしれない、と。
自分の名前も含めた全ての記憶を失っていた青年にとって、その行動は至極当然であるとも言えた。
彼を迎えにきたのは数人の子供たちだった。
岬の孤児院でシアルヴィとともに暮らす、彼を愛し、彼に愛される子供たち。
そして、ジークと呼ばれたこの青年にとっても彼らはまた、家族と呼ぶべき大切な存在だった。
「はやく、はやく。」
低い位置からその手を引かれ、ジークと呼ばれた青年は、子供たちに歩調を合わせるように歩き始める。
彼の歌を聞いていたのだろう。
先ほどまでの旋律を、子供たちが歌い始める。
ジークが苦笑する。聞かれていたことが、少し恥ずかしかったのだろう。
それでも、子供たちに合わせ、再びともに歌い始める。
「……ぼくは、この人たちが好きだ。」
誰に聞かせるともなく漏れた、小さな囁き。
歌の間に漏れたそれは、間違いなく彼の本心だった。
けれどこの感情は決してはじめから彼の中にあったものではなく、それは共に歌う子供たちによって、そして彼らを愛するその保父によって、彼の中へともたらされたものだった。
この場所で目を覚まし、初めて子供たちと目線を交わした時、青年には恐れとも、疎外感とも取れるものが感じられていた。
今、こうして口ずさむこの歌も、初めて耳にした時、口ずさんだ時、それは青年を苦しめるものでしかなかった。
シアルヴィだけでなく子供たちの姿もまた、自分とは異なっていたという事実。なぜ自分だけが異なるのかと考えたとき襲ってきた恐怖の感情。
記憶にもないはずの歌、だが歌うことのできた歌。
口ずさんだ時に襲った、言葉では表しきれない、郷愁に似た思いと、胸を締め付ける感情。
その痛みを恐れ、耳をふさぎ、時には逃げ出そうとしたことさえあった。
けれどもそんな時、孤児院の住民たちは、保父だけでなく子供たちもまた、決して彼を責めたりはせず、記憶の再生を強要したりもせず、ただ家族として接し、帰る場所としてあり続けた。
その思いにどれだけ助けられたかわからない。
異邦の自分にも受け入れてくれる者達が、帰る場所があるというありがたさをどれほど噛みしめたかわからない。
そしてその感情に応えるように、自身の手でペンダントを開くことができたとき、彼の感情は大きく変化することになる。
それは彼が海岸へとたどり着いたときから身に付けていながら、彼自身の恐れにより、開かれることのなかった小さな小さな開かずの扉。
けれどそれを開いたとき、開こうとする心が彼の中に生まれたとき、奏で出された旋律は子供たちの歌うそれと一致し、彼に自身の名前を取り戻させたのもまた、他ならぬそのペンダントだった。
―――我が愛する ジークへ―――
小さなペンダントの内側、オルゴールに刻まれた小さな刻印。
取り戻された自身の名前、そして歌うことのできた理由。
そしてペンダントとともに、その心の扉もまた開かれたように、この青年は、シアルヴィとともに子供たちを愛し、また愛されるようになっていたのだ。
――続いて欲しい この幸せが――
どうか、願うならこの幸せが永遠に続くことを――
海の向こうに思いを馳せながらも彼は、今の生活を愛していた。
この幸せがとぎれることなど考えもしない。
歌声の遠ざかる岬に、風はただ優しく、歌い続けていた。