僕はいつも彼を見ている。
このビルは丸ごとクラブで、小さなフロアとバーのある階で僕は働いている。
DJがスロウテンポの皿をまわしている音を、僕は聞きながらシェイカーを振る。
薄暗い。
ブルー・ピンク・パープル。
間接照明がじわりと変化しながら壁を照らしている。
上の階はアップテンポ。頭を空にして踊り狂っている。
僕はけだるく色っぽいこのフロアの雰囲気が好きだ。
スモーキー。セクシー。スモーキー。
レゲエのナンバーが体を揺らす。
せきたてるものなど何もない。
南国にたゆたう波のように、ゆらりゆらりと低音の響きに乗っている。
ここにいるのは、上の階で踊りつかれた男と女が数人ほど。
女の子たちがシルクのカーテンで遮られた空間に座っている。
アルコールを片手に、友達とおしゃべりしたりマスカラを指先で触ったり。
男は壁際のカウンターでタバコの煙をくゆらせている。
視線の先はカーテンの向こう側。
くすくす笑う女の子たちが幻想的だ。
僕がいつも見ている彼は、アルコールもタバコもしない。
ただただ、ここで踊りつづけている。
そんなに背は高くない。
白い帽子に青いタンクトップ。それに一枚薄いギンガムのシャツを羽織っている。
黒いズボンに星のマークのくっついた、薄汚れたスニーカー。
まわりの人が上の階へ戻ったりビルの外へ出たりするのを尻目に、スローにスローに踊りつづけている。
うつりゆく人の流れなど少しだって気にしていない。
毎週金曜日の夜、彼はここにやってくる。
彼とは一度も話をしたことはない。
けれども僕は、そのはじめから終わりまでただ彼だけを見ている。
彼は天才に違いない。
僕をこれだけ虜にするのだから。
こんなことは初めてだった。
彼は踊りつづけている。
僕はシェイカーを振りつづけている。
そして、彼のことを見つめているのは、僕だけだった。
クラブの音楽も醸し出す雰囲気も、僕はとても好きだ。
けれども踊ることは別。恥ずかしくて、できっこない。
リズムにただただ乗ることの恍惚感。体が動くままにそうしてみたいとは思うけれども、僕には難しいことだった。
カウンターのそちらとこちら。
僕にとって、正気と狂気の境界線。
けれども彼が僕のそんな囚われた思いを少しずつ、少しずつ変えていったのだ。
どうしたら彼のように、気持ちのおもむくまま、自由に、大胆に自分を解放できるのか。
僕はそれきり、バーテンダーのバイトをやめた。
決めたのだ。フロアに飛び込み、彼に声をかける。
重低音が壁を揺らす。
薄暗い。
ブルー・ピンク・パープル。
僕は少し早めにフロアへ行き、そうして彼が来るのを待った。
彼は来た。いつもの時間、いつものように。
けれどもカウンターを一瞬のぞいたあと、様子がおかしい。
立ち尽くしている。目深にかぶった帽子の下の、顔面の色が蒼白だ。
フロアにいる、僕に気づく様子もない。
そうしてすぐさまもと来た道へと去っていった。
二度と会うこともなかった。
彼は、僕だったに違いない。
境界線なんてなかった。
こんなリズムが響くフロア。狂気も正気も同じこと。
どこかにある本当が、僕のぶざまな初恋を、ケラケラと大声で笑っている。
スモーキー。セクシー、
スモーキー。
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