一斉に鳴いていた蝉の声がふと途絶える。強い夏の日差しは陰り、辺りがにわかに暗くなった。足元を吹き抜ける風の強さを感じた時には、真夏特有の入道雲ではなく低い雨雲が頭上をすっかり覆い尽くしていた。

ポツリ。

 戦の先陣を切り、大粒の滴が焼け付いたアスファルトに降下する。それはあっけなく討ち死にして蒸発した。だが、それに続く後発の雫たちは灰色の路面を真っ黒に塗り替え、さながら圧勝に凱歌を揚げるが如く派手な音を立て始めていた。

 駅前の繁華街から少し離れた住宅街。付近にいた人々は突然降りだした雨に驚き、大慌てで家や店の中に駆け込んでいく。
通りに面した小さな児童公園にいた子供たちも、迎えに来た親に手を引かれ、或いは友達同士でふざけた大袈裟な悲鳴を上げながら逃げ去った。

 それでも「まだ足りぬ」とでも言いたげに、雨粒は埃っぽい町を片っ端から洗い流しながら次々落ちて来る。

「ねぇ君、何してるの? 」
 児童公園のほぼ最奥にある石で作られた滑り台の下。澄んだ声に少女が顔を上げる。滑り台の前に立ち声をかけてきたのは、同じ年頃に見える小柄な少年だった。
「この夕立はすぐにやむ。だからここで待っている」
 色白の少女は、およそ子供らしからぬ口調で見知らぬ少年にそう答えた。ふうん、と不思議そうに首を傾げた後、少年は再び尋ねる。
「僕もそっちに行っても良いかな? 」
 無言のまま少女は横に動いて、相手が入りやすいように空間を作った。少年はやや狭い滑り台の下に潜り込むと、再び少女に話しかけてきた。
「家に帰らないの? 」
「帰らない。すぐにやむ」
遠雷が響いた。
「あ、雷! 」
 驚いたような少年の声。少女も遠くの空を見る。
「今、龍神が走った」
「龍神? 」
再び疑問形になる少年に、少女はわずかに口元をほころばせて頷いた。
「雷が鳴る時は、雲の上に龍神がいる」
「どこに? 」
 白いの半袖ブラウスから出た白磁のような腕がついと上がり、細い指先がずっと遠くの空を指した。
「あそこ」
 その方向に少年が懸命に目をこらしていると、空を横切るように閃光が走った。
「わぁ光った! 」
 数秒の後、再び低い音の遠雷が響く。
「今の稲妻が龍神なの? 」
 少女は首を振る。
「もっと上だ」
 少年は目をこらして宙を見つめていたが、特にそれらしい物は何も見えない。やがて彼は諦めたのか、目の前の少女に視線を戻した。白いブラウスに赤い吊りスカートの古風な服装の少女も、真っ直ぐに少年を見返している。
「ねぇ、どうして家に帰らないの? 」
 三度目の問いに少女はどう答えようかと考えた。短い間を置いた後、淡い赤色の唇が答えを紡ぎ出す。
「花の家は喫茶店だから、千鶴の仕事の邪魔にならないようにしている」
「君の名前、"花"っていうの? 」
「本当の名前は"花子"。でも、千鶴たちは"花"って呼ぶ」
 少女が頷くと、肩の辺りでまっすぐ切り揃えた黒髪が踊った。
「千鶴、さんって、お母さん? 」
「違う。でも一緒に住んでいる」
 母親ではないが一緒に住んでいる女の人とはどういう相手なのか。もし、この少女に母親がいないのであれば、安易に聞いてはいけないことかも知れない。少年は一度は口に出しかけた問いかけをそのまま飲み込んだ。

 会話が途切れ、花と名乗った少女は再び降りしきる雨に目を向けた。少年は消化仕切れない疑問を胸に押し込めながら、少女の白い横顔をまだ見ていた。
「おまえは? 」
 目線を雨に向けたまま、今度は花が問いかける。少年は一体何を聞かれたのか? と少し考える。
「僕の名前なら、サトルだよ」
「サトルは、何をしている? 」
 ちゃんと正しい答えを返せていたようだ。花はそのまま続けて次の問いを投げた。彼女の黒目がちの大きな瞳は、まだ音を立てながら地面を叩く雨粒を見たままではあるが。
「僕は……」
 答えかけたサトルの言葉が途中で止まった。
「何をしていたんだっけ? 」
 途方に暮れたサトルの声に、花は視線を彼に戻す。そして相手の顔を覗きこみながら、ほんのわずかに首を傾げてた。
「もしかして、青いビー玉か? 」
 その言葉にサトルは思い出したように、慌ててズボンのポケットに手を入れて中を探った。
「そうだ、ビー玉! それを探してるんだった。花ちゃん、何故僕のビー玉のことを知ってるの? 」
「ここで他の子供に取られてたの偶然見てたから」
「そうなんだよ。あの子、何処かに隠しちゃったんだ。ずっと前にお母さんが買ってくれた物だから、頑張って探したんだけど……」
 サトルはそう言って肩を落とした。

 そうだ。ビー玉を取り上げた相手は「公園のどこかにある」と言っていたのだ。だからここで探していた。サトルは花に聞かれるまで、何故かそれを忘れていた。何かを探していたことだけはちゃんと覚えていたのに。

 花はしょんぼりするサトルの方に手を伸ばし、彼の頭をそっと撫でた。
「元気を出せ。ビー玉がなくても、おまえは大丈夫だぞ」
「そうかな? 見つからないとお母さんが怒らない? 」
「怒ってはいない。でもサトルが帰ってこないと泣いていた」
 花の言葉にサトルは顔を上げた。
「お母さん、泣いてたの? 僕のことなんかずっと忘れてるんだと思ってた」
「ただ仕事が忙しかっただけだ。忘れてない」
「そっか……」
 サトルは少し嬉しそうに、それでいて少し悲しそうに呟く。

 雷が近くなっているのか、しばらく沈黙が続く二人の頭上で轟音が響いた。
「花ちゃんは雷って怖くないの? 」
「龍神は怖くないから、雷も怖くない」
「へぇ。僕、女の子ってみんな雷が怖いんだと思ってたよ。同じクラスの女子は、いつも雷が鳴るたびにキャーキャー言ってたもん」
 花はくくっと喉の奥を鳴らし、細い声で笑った。つられたようにサトルも笑った。

 二人で並んで座る石の滑り台の下は少し狭いが、まるで秘密基地のようだ。ずっと昔、もっと小さな頃にはここでそんな遊びをしていたことを、サトルは思い出す。
 友達とおやつを持ち込み交換して食べたり、玩具を砂に埋めて「こうすれば命が宿る」と漠然と信じてみたり。捨てられた子犬や子猫を連れて来て、みんなで世話をしたこともあった。サトルからビー玉を取り上げた少年も、その頃いつも一緒に遊んでいた仲の良い友達の一人だった。

 一体いつから仲が悪くなったのだろう。

 喧嘩をした訳ではない。いや、仲が悪くなったという覚えさえ無い。いつのまにか大柄な彼が、サトルのような小柄な子供に辛く当たるようになっただけだ。「いじめられている」という意識さえ持つ間もなく、気が付くとそういう関係になったのだ。先方からすれば何か理由があるのかもしれないが、少なくともサトルには分からない。双方の親たちも、きっと二人のことは「ずっと仲の良い友達なのだ」と疑いもしなかったはずだ。

 どうしてあの子はサトルのビー玉を取り上げたのだろう。子供の小遣いで買えないような値段のものではない。ただの安っぽいガラスの玉だ。美しく虹色に光る「オーロラ」「油玉」と呼ばれている種類の物だが、珍しい訳ではなかった。
(僕のことがキライだから、なのかな? )
 そう思うと、何となく悲しくなりサトルは数回瞬きした後、花を真似て雨をじっと見詰めた。

 白い飛沫を上げ、水たまりに沢山の波紋を描きながら落ちる水の粒。前にこんな風にただ雨を見つめて過ごしたのは、一体いつのことだっただろう。

 やがて雷の音は徐々に遠ざかり、雨足も少しずつ弱く小さくなり始めた。ぽつぽつと名残惜しむように風に乗って、まだ雫は地面に落ちていたが間も無くそれも途絶えるだろう。

 滑り台の下の天井の高い場所で花が立ち上がる。座り込んでいた時は分からなかったが、彼女はサトルより更に小柄で七、八歳くらいにも見えた。スカートについた砂をパンパンと音を立てて払い落とし、花はどこか大人びた瞳でサトルを見る。
「あのビー玉、見つけたいか? 」
 サトルは少し悩んだが、はっきりとした口調で答える。
「うん、お母さんがくれた物だから」
 花はサトルの顔を数秒見つめていたが、やがて微かに笑った。
「じゃあ、こっちだ」
 赤いスカートを翻して、まだ完全にはやみきっていない雨の中へ彼女は走りだした。サトルも公園の中を抜けて行く少女の後ろを追った。

 公園の出口の辺り。通りに面した街路樹の側で、花は足を止めた。
「あそこ」
 彼女が指差さした場所は、歩道と車道を仕切る柵の側。地面に花瓶に挿された数本の白い花が飾られていた。その横には白い無地の小皿に乗せられた数個のビー玉が見えた。その中の一つ、青い油玉をサトルは手に取る。
「これ僕のだ。どうしてこんな所にあるのかな? 」
「あの子が返しに来た。サトルにちゃんと返したかったけれど、渡せなかったからここに置いて行った」
「そうなんだ」
 花の言葉を聞いて、サトルは嬉しそうな顔になる。
「もしかしたら仲直り出来るかな、あの子と」
「うん」
 花は少し泣きそうに見える笑顔でサトルに頷いた。手のひらの上でビー玉を転がしながら少年の声は呟く。
「花ちゃんが言った通り、僕はもうこのビー玉なしでも大丈夫だよね」
「うん、大丈夫だ」
 花は少しだけ眩しげに目を瞬かせながら、自分の前に立っている少年の形の白く霞んだ影に向かってそう答えた。

 ようやく雨がやんだ。まだ濡れたまま歩道のずっと向こう、西の方角から沈み掛けた夕日が差している。

 黄昏の頃、逢魔が時にはこの世とあの世の境目が見えると言われているが、夏のこの時刻の空はまだ充分に明るい。魔物に出逢う時間には幾分早いようにも思えた。だが薄紅と紫苑色の交じり合う天空に浮いた黄金雲は、まるでこの世の物ではないような美しさがある。

 花はただ一人、歩道に佇んでいた。ふと足元に転がっていたビー玉に気が付き、それを拾い上げる。サトルという名の少年の幻影が最後にそうして見せたように、手の上で青いビー玉を静かに転がす。傾いた太陽の光に透けてガラス玉は表面に虹を映して光っていた。


 季節は巡り、やがて幾つかの四季が過ぎ。

 再び蝉が鳴き立てる夏の午後。
「花ちゃん、どうしたの? 」
 前を歩く20代半ばに見える女性が、立ち止まっている花に声を掛けた。
「何でもない」
 花が足を止めて見ている場所。以前小さな児童公園だった土地に、マンション建設用らしき囲いと足場があった。
「児童公園無くなったのね。10年程前から交通事故で死んだ子供の霊の噂があったみたいだけれど。少子化で遊ぶ子供の数も少なくなったし、仕方ない事なのかしら」
「千鶴は幽霊に会ったか? 」
 千鶴と呼ばれた女性は頭を振った。
「お店のお客さんが男の子の地縛霊が居るって言ってただけ。……花ちゃんも車には気をつけてね」
「花は交通事故では"死ねない"から大丈夫」
 花はニヤリと歯を剥き笑った。"人"のそれより長く真っ赤な舌が、白い歯の隙間から覗いた。
「それはそうだけど車の方が壊れても説明に困るし、やっぱり気を付けて欲しいわ」
 苦笑する千鶴に、花は素直に頷いた。

 その時、二人が歩く道の反対側を通りかかった小学生の一団の賑やかな声が聞こえてきた。
「サトル、今日おまえんちでゲームしない? 」
「いいよー。何時に来る? 」
 学童たちの無邪気な会話に花は目を細めた。

 あの時の小柄な子供と同じ名の、よく似た風貌の少年が友達の輪の中で笑っている。
「花ちゃん? 」
 再び足を止めた花に千鶴が呼びかける。花はスカートのポケットに手を入れ、ひんやりした古いガラス玉を握りしめた。

 もしも……。
 人の世に、"生まれ変わり"という物があるなら。
 今度は幸せに。

 膝丈の赤い吊りスカートと肩で揃えた黒髪を翻し、花は自分を待つ千鶴に小走りで追いついた。そしてビー玉の代わりに、かけがえない"同胞"の白い手をきゅっと握った。千鶴はにっこり笑い、自分より年上でありながら幼い姿をした花の手を優しく握り返した。

 そのまま二人は、真青な夏の空の下を並んで歩いてゆく。

 人通りが途絶えた路面を、風が吹き抜ける。工事現場の喧騒もここまでは届かない。相変わらず蝉時雨だけが白い陽射しの中に降り注いでいた。
 この界隈が『風穴蔵(かざなぐら)』と呼ばれ、妖の出る地と恐れられたのは遥か昔。物の怪や狐狸狢は、今は姿を隠していると伝えられている。

(了)

nyan
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