文月道子(ふみづきみちこ)と横書きで書かれた名前の右隣には赤字で『31』と書かれていた。それが数2のあたしの点数だ。ちなみにうちの学校は平均点の半分『以下』が赤点となる。そして平均点は62点。つまり31点は赤点として含まれてしまう。
「ん~、あと一点だったのに……」
 残念無念と机につっぷす。
 もし、このまま来週行われる追試に合格できなければ、夏休みも補講を受けに学校へ出て来なければならない。予定を組んでいるわけではないけど、みなが休んでいる最中に、自分だけが暑いなか学校に来て勉強するのは御免こうむりたい。そもそも暑いから休みにするのに、どうしてそれを反故にして学校に来させようというのか。
「残念だったな」
 世の理不尽に打ちのめされたあたしに、そんな言葉が落とされた。
 眉根をよせ見上げると、そこには日野光(ひのひかり)という直視すると目が潰れてしまいそうな名の男子が立っていた。前の席の日野は、ちょうど自分の答案をもらい戻ってきたところだ。
「かってにのぞくなスケベ」
 我が身を襲う不幸に心を荒ませたあたしは、制服のズボンをはいた日野の足を「えい」と蹴り飛ばす。しかし、生意気にも日野は「おっと」と軽くよけた。反射神経のいいヤツめ。
「そういう日野は何点だったのよ」
 人の点数をみたのだから、自分の点数もみせろと要求する。
 日野は茶髪でヘラヘラしているクセに頭がいい。どうせ良い点をとっているのだろうけど、一方的にこちらの点数だけ知られているのは面白くない。それにいかに頭が良くても、たまには悪い点をとっているかもしれないし。
 でも、そんな淡くも小悪魔チックな期待は大きく裏切られた。たくさんの丸の花が咲き乱れた日野の答案用紙にはデカデカと『102』という数字が書き込まれていた。
「ちょっ、なにそれ!?」
 思わず席から立ち上がり確認してしまう。
「単に先生の配点ミス。テスト前に気づいてれば直せたんだろうけど、発覚したのが終わってからだったから」
 べつに終わってからでも配点し直せばいいような気がするけど、それだと配点の高い低いで問題を解く優先度を変えた連中からクレームがでるとのことだった。なかにはそれで順位が前後する生徒たちもいるので、簡単にはいかないらしい。
 教室の前のほうでは担当教師が100点を取った生徒はいなかったと発表している。かわりに日野が102点をとったのも一緒に伝えられ、教室がザワついている。
「そのはみ出した2点をあたしによこせ」
 自らに足りない点を補うため、平均点をあげた諸悪の根源に要求する。それに対して日野は頭上に疑問符を浮かべたあとに「どうやって?」と、不思議そうに聞き返した。
「んん~……、それがパッと思いつくような頭があれば赤点なんて、とってないわ」
 校則に則したスカートをひるがえし、ふたたび足を蹴り上げるけど、日野はまたも回避する。
「だいたい、あんたが平均点をあげるから、あたしは追試を受ける羽目になったんだぞ」
「いや、平均は学年全部で計算するから、俺ひとりくらいじゃ変わらないって。200人以上いるし」
「いいや、あんたが悪い。悪いったら悪い。なぜならば、平均を上げたのがあんたひとりじゃなくても、このテストで一番いい点をとったのはあんただから。故に主犯と言っても差し支えない。だからあんたが悪い」
 それが魔女狩りさながらの暴論であることは自覚している。八つ当たりみたいなものだけど、ヘラヘラと笑ったままの日野には当たっても許される気がした。
「そっか、じゃあそういうことで。ごめんな」
 案の定、あたしの因縁を日野はなんでもないように受け入れ、謝罪までした。
 日野はそれで見逃してもらえると想ったのだろう。だが、その隙をあたしは逃さない。
「あやまったな?」
「あやまったよ?」
 日野から言質を引き出したこの時のあたしは、きっと悪い顔をしていただろう。だが、背に腹は代えられない。相手から引き出した譲歩は最大限有効に使わせてもらう。一方的に日野が損をする形になるが、彼への対価は「迂闊に謝っては損をする」という教訓だ。
「では、当方、文月道子は貴殿日野光に賠償を要求する!」
「賠償って?」
 芝居がかったあたしの言葉に日野は面白そうに聞き返す。
「あたしが赤点になったのはあんたのせいなんだから、夏休みの補講を回避するために力を貸しなさい」
 本当はダイレクトに点の委譲を申し入れたいところだけど、先生がそれを認めるとも思えない。
「俺が文月の?」
「そうよ」
 きょとんと尋ねる日野の言葉をあたしは肯定する。
「別にいいよ。文月面白いし」
 なにが面白いのだろう、日野はそう言って、あたしの無茶ぶりを笑いながら承諾した。

   ◇

 その日の放課後、図書室のすぐ隣にある準備室で、あたしは日野光と追試対策をすることになった。
 本来、準備室は一般開放されていないのだが、日野の顔利きで司書のお姉さんから鍵を借り受けたのだ。場所を借りられるのはありがたいけど、コイツの要領の良さはちょっとだけ腹が立つ。なので、「ていっ」っと、背後から三発目の蹴りを放つけど日野はそれに気づかないままに避けた。
「ん、なに?」
「なんでも」
 どうやら、この男は頭だけでなく運まで良いらしい。
「? まぁいいや、はじめようか」
 長テーブルに並んで座ると、日野は赤点科目を確認する。
 幸い赤点は数2の一教科だけで、他の理系科目はその平均点をちょっぴり下回る程度で済んだ。だが最も苦手な数学が残っていると言うこともできる。
 まぁ、それでも日野に教えて貰えれば、それもたやすくクリアできるだろう。だけど、そんな甘い考えはしばらくして消えた。
 数学だけでなく、理系科目の大半でトップを取る日野の力でさえ、あたしに数2を教えるのは難しいらしい。隣で数式を指さしながら説明しているけど、それは上手く頭に入ってこない。彼があたしに教えていることは数2のハズなのに英語の授業を受けているような気分だ。英語は辞書をひけばいいけど、世に日野言語辞典はない。その意味を知るのは宇宙の真理にたどりつくよりも困難そうだ。
「ちょっとたんま休憩」
 オーバーヒート寸前の頭を開いたノートの上に落とす。
「もう疲れたのか?」
 説明をしていた側の日野には疲労の色はない。むしろイキイキとさえしている。
「疲れたっていうか、よくわかんない。日野、あんた教えるのヘタすぎ」
「そうか?」
「あんた、あたしの馬鹿さ舐めてるでしょ?」
 文系科目は嫌いじゃないけど、わけのわからん理屈で数字をこねくりまわす数学はあたしの大の苦手科目だ。むしろ面倒な計算が多い理系科目は全部なくなってしまえばいいと思う。
「いや、文月は馬鹿じゃないだろ。数学のテストで点をとれないだけで」
「それっておなじじゃない」
「おなじじゃないよ。だいたい、高校のテストって言うのはな……」
「ストップ、説明はしなくていいから」
 日野理論が開始されそうになるのをあたしはとめる。公式を詰め込まなければいけない時に、余計な容量を使わせないでほしい。
「だいたい、どうして数学なんか、やんなきゃいけないのよ」
 社会にでて分数式や三角関数なんか、いったいなんの役に立つっていうのか。算数で十分でだろうに。っていうか、理系科目は将来科学者にでもなりたい人たちだけにして欲しい。
「別に文系だって、役に立つわけじゃない。文月、現文は得意だろ」
「別に得意じゃないよ。そりゃ教科書でも本を読むのは楽しいけど。でも古文は苦手だし」
 ちなみに、世界史も82点と良かった、こちらは最近お気に入りの漫画のおかげだ。ビバ日本の漫画文化。
「歴史もある種の物語みたいなもんだし、そういうのを覚えるのは苦にならないのよ。でも、数学は無理。なに言ってんのコイツ? って感じ」
 その評価は隣に座る日野にも言えることだけど。
「別に俺的には文系も理系も大差ないと思うんだけどな」
「そりゃ、あんたは頭がいいからよ」
「頭良い、俺が?」
 驚くように聞き返す。テストで102点なんて獲るような奴が頭悪ければ、どんなやつが頭が良いというのだろうか。
「文月のほうが良いだろ」
「へ?」
 わけのわからぬ評価にあたしは眉をひそめる。
「前に歴史の授業で先生が教える教科書の内容を否定してたことがあったろ。それをみて思ったんだよ。こいつって教えられた内容をちゃんと疑いながら授業を受けてるんだなって。そりゃ誤植や表現の間違いはたまにあるけどさ、教科書で説明されてその内容が間違ってるなんて、その時の俺には発想になかったからな。自分は柔軟性に欠けるんだと実感したよ」
「ああ、あれは……」
 モニャモニャと口の中で言いよどむ。
 日野が指摘した内容は事実であるが、そんなにカッコイイ話じゃない。単にちょっと寝惚けて、歴史をモチーフにした自分の二次創作の内容を語ってしまったのだ。あたかもそれこそが正史だと、みなのいる教室で力説してしまった記憶をあたしは闇に葬りたい。
「そっ、想像力が豊かなだけよ」
 そう言って誤魔化す。願わくば日野の記憶からそのことが消えるのを願いながら。
「想像力(それ)だけじゃない。ちゃんと他の歴史とも比較して納得できる説明ができた。少なくとも、俺はそれを聞いてそういう可能性もあるんじゃないかって納得した」
 そうだったかな? たしかに漫画でよく読み返したシーンで思い入れは強かったけど。
「それに、文月には好奇心がある。好きなことを楽しんで学ぶ力も」
 そこは否定しづらいが、好奇心がなんの役に立つと言うのか。
「だから、絶対に向いてると思う」
「なにを?」
「理系」
 とつぜんの日野の言葉に、思わず「ぷっ」っと噴き出してしまう。
「どうした?」
「いや、あんまりにもバカバカしいことを言われたから。向いてる人間が赤点なんてとるわけないでしょ」
 不思議そうに尋ねる日野に教えてやる。
「理系の適性と、学校のテストの結果は別物だろ。少なくとも俺はそう思ってる。あれは学生の評価を楽して決めようとする教師の怠慢だ。習った公式を使うだけで解ける問題で、学力の有無を確かめることなんかできやしない。テストは教えられたものをどれだけ記憶できたか競うものだ」
 そのあたりは文系科目も大差ないけど。と付け足し説明を続ける。
「でも、本当はちがう」
「ちがうって?」
「理系の計算っていうのは単なる道具。本当の目的は謎を解くことにあるんだ」
「謎?」
 むしろあたしには日野の発言こそが謎なんですが。
「真理の究明」
「なぞなぞ?」
「そうじゃないよ」
 日野は苦笑いをしながら首をふる。
「どうして空の色は時間によって変化するのか、雲はなんで白いのか、そういった数々の謎を解いてきたのが理系の学問だ。そう考えれば、俺たち学生はみな賢者、あるいは錬金術の弟子と言っても過言じゃない。昔は一部の者に秘匿、独占された知識や技術が、いまではみなにあたりまえに教えられる。そう考えると凄い贅沢なことに思えないか? ほんの少し前まで勉強なんて金持ちにしか許されない特権だったんだぜ」
「そうかな。覚えることが多くて大変だよ?」
 むしろ、よくも余計なことをしてくれたと思わなくもない。
「素直じゃないな」
「一般的な高校生なら、みんなあたしに賛同すると思うけど」
「そうか? そうだな……それじゃ問題だ。太陽と月ってどっちが遠いと思う?」
「そりゃもちろん太陽でしょ」
 それくらいあたしにだってわかる。
「なんで?」
「なんでてって言われても……」
 実際の太陽までの方が距離があるのだからのだから他に説明なんてしようがない。
 あれ、でもその距離を測ったのだろう。月はともかく太陽までいった人なんていないのに。それとも人は月にたどり着いて、ようやく太陽はもっと遠いって知ったのかな? でも、人間が月にたどりついたのって昭和の頃の話だよね。

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