「月より太陽が遠いっていうのは日食でわかるよな。あれは太陽の光を月が遮ることで起こるから」
 なるほど確かに月が太陽よりも近くになければ、日食はおこらないか。でも、日野はあたりまえのようにそれを口にしたけど、あたしとしては『言われてみれば』って感じだ。
「ちなみに月までのおおよその距離は紀元前にはわかっていたらしい」
 厳密な距離ではないんだけど。と付け足す。
「紀元前って、キリストが生まれるよりも前?」
「そう、ギリシャの天文学者が角度をつかって調べたんだよ」
 日野は自分のカバンからルーズリーフを取り出すと、月と地球とおぼしき絵を縦に並べて描きはじめる。
「まずは月がみえるふたつの場所を探すんだ。ひとつは地上から観て、月が真上にみえる場所A」
 そう言って、縦に並べた月と地球の中心をシャーペンの灰色の線で繋ぐ。そして、その線と地表の交点にAと書き込んだ。
「もうひとつは、同じ時間に月が水平に観える場所B」
 今度は定規をあて、月の中心を通り地表に接する線を引き、その接点にBと書き込む。
 そして、Bから地球の中心に線を下ろすと、ルーズリーフ上に長細い三角形が描かれた。
「円の接線は、その中心を通る線に対してすべからく垂直だから、月と地球の中心、それとBの三点を繋げて作った三角形は直角三角形になる」
 言いながら、直角であることを示す記号を三角形に描き込む。
「A、地球の中心、Bの角度を測定して、直角三角形の辺の比を計算する。そうすると59倍って数字が導きだされるんだ。地球の半径は6、371km。だから59倍だと、375、889kmとなる。現在観測されてる月までの距離は384、400kmだからほとんど正解って言っていいよな」
「38万キロ……日本の全長が約2、000キロだからその192倍!?」
 日野とちがい暗算できないあたしは、ルーズリーフの端で計算し、その数字に驚愕する。
 二千年以上昔に、そんな途方もない距離を計算だけで弾きだしたのか。しかもそれが正解だなんて、すごいぞギリシャ人。
「ちなみに太陽までの距離は、地球と月と太陽の中心を繋げて、同じように直角三角形を作って導きだしたんだ。こっちはその頃には地球と月までの距離の19倍って計算されてた。実は400倍だったけどな。これは観測技術の問題もあるし、扱う数字が莫大だから俺としては仕方ないと思う」
 そう言って、こんどは図に太陽を描き込んで簡単な説明で終えた。
 距離を測るときは、常に三角形が必用となるんだな。そう言えば、忍者が距離を測るにも三角関数で概算していたなんて話も聞いたことがあるような。奥が深いな三角関数。
「昔の人は、知りたいと願い、観測と計算だけで月や太陽までの距離を調べたんだ。あまつさえ、いまでは銀河の大きさまでも知ることができるんだから。とんでもない話だよな」
 まるで夢を語る少年のように日野は目を輝かせる。
 確かにすごいことだ。あたしは計算式の半分も理解できていなかったけど、すごいことだけはわかる。
「文月は、本を読むのに漢字や知らない言葉を調べるのは苦にならないよな?」
「うん、まぁそうだね」
 不意に話を振られたあたしは短く返事をする。
「だから、向いてるって言ったんだ、理系。数式は自分の知らない謎を解くための道具。そう考えれば覚えることが苦にはならないだろ」
 日野は特盛りの笑顔で解説する。そんな顔で言われると、思わず納得しかけてしまう。
 でも、あたしはそれに素直にうなずかなかった。
「でもさ……」
 そう言って話を切り返す。
「いまどきは知らないことなんて、ネットで検索すれば、載ってるんじゃない?」
 きっと、さっきの月や太陽までの距離もネットで調べれば一発だ。日野はどうだか知らないけど、いまどきの高校生でスマホ持ちは珍しくない。いや、携帯でだってネットに繋げられる。
「うっ、それは……」
 あたしの指摘に日野は言葉を濁した。
「載ってなければ、知ってそうな人に尋ねてもいいし、それでわからないような事は、ちょっとやそっと勉強したって、答えにはたどり着けないよね?」
「う~ん、まぁ確かにそうなんだけど……」
 常に余裕に満ちた笑いを浮かべていた日野が初めて、困ったような表情をした。それをみて少し気分が良くなったあたしは性格が悪いだろうか。まぁ、でも構わない。やられっぱなしは性にあわないし。
「だったら、やっぱり要らないじゃん、理系科目」
「そんなことないよ」
「なんで?」
 月と太陽の話を振られたときの問い方をマネて尋ねる。
「だって……」
「だって?」
 明らかに時間稼ぎをしている日野をジワジワと追い詰める。しかし、その質問にも日野はわずかな時間で答えをだした。ただし、それに納得できるかは人によると思うけど。
「だって、楽しいじゃない。自分でそういう謎を解き明かすのって」
「ふ~ん、でもさっきのだって自分の力だけで導きだしたわけじゃないでしょ」
「おっしゃるとおりで。でも、聞いててワクワクしなかった? 月までの距離の導きかた」
 ワクワクとまではいかなかったけど、たしかに感心はした。
「俺も未熟な学生だからな。未知の題材にたいしては無力だった」
 なんとなくズレてるような事を言う。
「それに、文月だって人からあらすじだけ紹介されるよりも、ちゃんと自分で本を読んだほうが面白いんじゃないか? たとえ、その解釈が人と異なるところがあっても」
「うっ、それは……」
 たしかにそのとおりだ。というか、寝惚けていたとはいえ、歴史で先生にケンカを売ったあたしにそれを否定することはできない。
「だから、理系科目を好きになりなさい」
「それは無理」
 なぜか命令系になった日野の言葉を、あっさりと拒絶した。
「まったく近頃の若いもんは、すすんで努力をしようという気概が足りない」
「なにを言うか同級生。でもさ、まぁちょっとは興味が湧いたよ、理系について。あたしも自分で調べたいことができたら、もうちょっと努力するよ」
 少しだけ譲歩し、椅子の後ろに傾けバランスをとる。すると、コツンと頭を背後から軽く叩かれた。
「こら、準備室と言えど、あんまり大きな声で話さないの」
 振り返ると、白衣を着た司書のお姉さんが立っていた。言葉とは裏腹にお姉さんに怒った様子はない。どちらかといえば、注意は建前で、表情は微笑ましいものを眺める大人のものだ。
「それより、そろそろ下校時間よ。片付けの準備をしてね」
「えっ?」
 言われて時計を確認すると、確かにその通りだった。ただでさえ、日野の数2の説明がわかりにくかった上に、月や太陽の雑談で下校時刻までの時間を使い切ってしまったらしい。
「しまった」
 日野が後悔の念を漏らす。
「結局、日野は役立たずだったか」
「すまん、このまま適当な店によってかないか? 汚名を返上させてくれ。ファーストフードでよければおごるぞ」
 他人の追試のためにそこまでするとは、こいつは幸福王子の生まれ変わりか? いや、金箔貼られた銅像に生まれ変わりとかないけど。
「そこまでしなくて良いよ。悪いし」
 それに日野の説明をこれ以上聞いてもあまり追試対策にはならないような気もする。
「じゃ、校門までいっしょにいこうか」
 そう言って荷物を背負おうとした日野をとめる声がした。
「おーい、帰る前に悪いけど、事務室で荷物とってきてくれないかな?」
 内線がかかってきたのだろう、受話器を手にした司書さんが日野に声をかける。
「あっ、はい」
 日野は嫌な顔ひとつせずに了承した。このあたりの人当たりの良さが準備室の鍵を借りるコツにつながるんだろう。
「重いから気をつけてね」
「大丈夫ですよ、慣れてるから。あっ、悪い文月。すぐ戻って来るから、荷物みててくれない」
 一度背負いかけた荷物を、図書室の机に置きながら頼む。
「いいよ、そのくらい」
 あたしの返事を聞くと、日野は事務室を目指し廊下を走っていく。その姿はすぐに小さくなると、角をまがりみえなくなった。
 あたしは、近くの椅子に座り日野が戻るのを待つことにした。
 近くには司書のお姉さんが、誰もいなくなった図書室のカーテンを閉めている。あれ、このお姉さんがいれば、別にあたし荷物番なんてしなくていいんじゃない?
 そう思い、チラリとお姉さんの姿を覗きみるけど、お姉さんはあたしをみることなく、それ故に代わってくれるとも言ってはくれなかった。
 一度やるといったことを自分から他人に頼むのはさすがに気がひける。仕方ないから、このまま日野を待ってやるか。
「ところで、お嬢さん知ってる?」
 いつの間に近寄って来たのだろうお姉さんがあたしに声をかけてきた。
「なにをですか?」
 いまからでも、荷物番を代わってくれるのかと思ったが、そうではないようだ。
「理系男子の好きな話」
 それって日野のことかな。そんなことを思いつつも口にはださずに考える。
「ん~、やっぱり理系の話ですか? もしくはさっき話してましたけど宇宙の話とか」
「惜しいけど、ちょっとちがうわね。彼らの興味を引くのは未知のものよ」
「未知?」
 答えをオウム返しに尋ねる。
「そう未知。あいつらが好むのは自分の知らないこと。それを餌にすれば簡単に一本釣りできるわよ」
「あー」
 そう言われると、納得できるような気がする。
「あいつら、化粧品を手にして色よりも先に、こんなちっこい成分表のシールをじっくりみるのよ。信じられる?」
「なるほど」
 たしかに変人である。やっぱり理系人間の思考は理解できない。
 もっとも、あたしに理解できないのは理系に限らないけれど。司書なんてやってる文系(どうるい)であろう、お姉さんがなんでそんな話をするかわからないし。
「おまたせ」
 大きな段ボールを台車に載せた日野が、早くももどってくる。あたしを待たせぬよう急いだのだろう、息を切らしている。
 司書さんの話は、日野が戻ってくるまでのつなぎだったのだろう。そのまま会話を打ち切って、床へと写された段ボールの中身を確認している。
「早かったね。そんなに急がなくてもよかったのに」
「いや、先帰っちゃうかなと思って」
「さすがに荷物番くらいちゃんとするから」
 司書さんが変わってくんなかったし。
「んじゃ、一緒に帰ろうぜ」
 日野はお使いは済んだと自分の荷物を背負うと、空の荷台を押して歩く。どうやら、荷台の返却までが任された仕事らしい。言われるまでもなく、当然のようにやってるのはやはり慣れているのか。
 あたしと日野は事務室に荷台を返却すると、外履きに履き替え校門を目指す。
「ところでさ……」
 あたしは司書さんと話し、なんとなく気になったことを切り出す。
「あんた、あたしのことどのくらいわかってる?」
「へ?」
 日野は突然の質問に面をくらった様子だ。
 それでも真面目に考え聞き返してくる。
「それって、なにを基準に考えればいい?」
「いや、もーいいや、ありがとう」
 適当な質問に真面目に返事をしようとしている時点で、こいつはあたしのいい加減さを理解していない。それがわかっただけで充分だ。
 つまり、日野にとってあたしは未知であることに間違いない。それがどの程度の好奇心をくすぐっているかまではわからないけど、追試の勉強をみてくれるくらいの興味はあるのだろう。
「?」
 不思議そうにしている日野をチラリと覗きみし考える。では、あたしはコイツをどう思っているのだろうか。
 正直な話よくわからん。
 うん、わからんな、わからん。
 腕組みをし、自分の考えにウンウンとうなずく。
 こうやって普通に話はするが、とりたて仲がいいわけじゃない。並んで下校すれば、外からは仲良くみえるかもしれないけど、それを実際の距離として扱ってよいものか。
 では、文月道子と日野光の距離はなにをもって測るべきなのだろうか。それは定規でも三角関数でもないってことしかわからない。
 では、追試が終わったあとにでも考えてみようか。日野や司書のお姉さんと話したせいか、いくらかだか理系科目への苦手意識も和らいでいる。だとすれば、追試を落ちることもないハズ。
「そういえばさ、日野って夏休みの予定決まってんの?」
 もうすぐ夏休みへ入ろうという空の下、あたしはそんな言葉を投げかけ、相手の反応を観察してみた。

〈了〉

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