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俺はパソコンの画面に文字を走らせた。まるで何かに突き動かされるように。
それは大型犬が人間に変身して人を襲う物語だ。
(人狼……そうだ、人狼だ!)
自分でも信じられないほどの勢いで物語は姿を現わし始めた。
(妄想か。結構なことじゃないか。妄想こそ物語の根源だ。妄想こそが俺の唯一の武器なんだ!)
俺の五感は狂喜乱舞した。キーボードを打つ指が震えてしまうほどに。
狂気に瞳を赤く輝かせながら、人狼は人間を殺戮していく。男も女も全くの無作為に。
そう、ただ自らが生きていくために。
(そうだ、奴に語らせよう!)
ーー半裸だった青年の、均整の取れた肉体はもう見る陰もなかった。
そこにいるのは艶っぽい銀色の巻き毛に覆われた、人ではない何かだった。
眉間のあたりから前に長くせり出した顔は犬を思わせる。だが何かが違う。鈍色にギラついた瞳は、まるで暗く深い闇の底からこちらを見ているようだ。
口元は頬のあたりまで裂け、くぐもった唸り声のような呼吸を繰り返す。身体のあちらこちらがまだら模様に見える。
「ユキ、お前の腹の中は熱いだろう?ほら、自分の手を入れてみろ。こんなに熱いのに何故肉が腐らないかわかるか?生きているからさ。死んでしまえばすぐに腐りはててしまうくせに、ほら、この肉は瑞々しいだろう。だから肉は生きているうちが一番美味いのさ。お前も食ってみるか?自分の新鮮なはらわたを?」
……ぴちゃり。
彼の手から灰白色の塊が零れ落ちる。彼の、いや彼だったはずの何かは微かに笑みを浮かべていた。ようやく彼以外の全ての色彩が蘇ってきた。
あのまだらに思えた模様は、どす黒く変色した血の飛沫だった。
次第に感覚を無くしていく右手を精一杯持ち上げてみる。その手には見覚えのある包丁が握られていた。
「無駄だ。人間が俺に太刀打ちできるはずもない」
次第にそいつの声が消えていく。いや、自分が聞き取れないだけだろう。
やがて私は意識を、自分自身を手放したーー
俺は時間を忘れ、我を忘れて物語に没頭した。
それにしても物書きという人種はつくづく因果な輩だ。他人の不幸さえ自らの糧にしてしまうのだから。
妄想の中で俺は神にも悪魔にもなれる。人の人生を作り上げ、幸せも不幸も、その人生の全てを思いのままにしてしまうのだ。
それを目にする誰かの関心を引くために。
「よし、書けた!」
俺はすぐに小説サイトに投稿した。題名は「赤き夜の人狼」だ。
あの日見たブラッドムーンは、強烈な余韻を俺に刻み込んだ。そして異形の殺人鬼……人狼。俺には犯人は半人半妖の獣以外には考えられなかった。
投稿したサイトには閲覧数が表示される。それもリアルタイムにだ。
見る見るうちにカウンターは数字を押し上げ、僅か一時間で二千を越えた。
「やったな。もしかするともしかするかも知れないぞ!」
俺は逸る気持ちを鎮めようと、キッチンに立った。
冷蔵庫を開けると、いつもの烏龍茶を買い忘れたことに気づいた。
(仕方ない、買ってくるか)
俺は箪笥から靴下を取り出した。
(サンダルでは不便だ。足音も目立つ)
俺はスニーカーを履いた。
今夜は町内の盆踊りが開かれる予定だった。だがこの残虐な事件の影響で中止になった。
無理もない。
まるで戦時中の戒厳令下のようだと肉屋のオヤジが言っていた。
暗くなれば、誰もこのマンションのそばには近づきたくないだろう。
エントランスを出て振り返ると、この建物はシルクハットを被った黒いスーツの男がしゃがみ込んだシルエットに見える。
まるでこのマンションそのものが生きていて、次々と人を殺す化け物のようにさえ思えてくる。
(続く)