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「こんばんは」
買い物を済ませ、ちょうど玄関の扉を開けようとした時だ。不意に後ろから聞こえてきた声に、俺は驚いて振り返った。人の気配に全く気づかなかったからだ。
そこには一人の若者が立っていた。
「あんた、俺たちを見たよな。それであんな小説を書いたんだろう?そうだよ、俺が人狼さ」
全身の毛穴から冷たい汗が滲む。一気に首から上の血液が心臓に向かって逆流を始め、寒気が手足の先まで震えさせた。
「人狼?」
その時、俺は確信した。
声に記憶はないが、確かにあの夜階段ですれ違った若者だ。そして……こいつが連続殺人鬼だと。
俺は手にしていたペットボトルを男に投げつけた。僅かに奴が背を向けた瞬間、玄関の中に飛び込んだ。
「開けろ!」
扉を激しく叩きながら叫ぶその声は、もう若者のものでも人間のものでもなかった。
(俺はまだ自分の妄想の中にいるんだ!目を覚ませ!)
俺は壁に背中を押し当てたまま、床に尻もちをついた。両手で自分の頭を掻きむしった。でも今この場面は俺が書いた小説の一場面などではない。現実なんだ。
(やり過ごすんだ、このまま眠って朝になれば全ては終わるに決まっている!)
「諦めるんだな」
やはりこの現実は俺を許してなどくれない。
物音に気づき、扉の一点を凝視する。ドアノブの内鍵のラッチがゆっくりと回り、垂直になる。奴はこの部屋の鍵を持っているのか?
床と壁に手をつき、尻をついたまま後ずさる。
だが鋳物で出来たドアガードを引きちぎることなど出来るわけがない。
奴は扉と枠の5センチほどの隙間から、この世のものとは思えない、押し殺した低い唸り声をこちらに向けてくる。
俺はよろよろと立ち上がり、震える手を壁に這わせ、スイッチを探した。 せめて少しでもこちらの姿が見えないことを願い、灯りを消した。
僅かなすき間から漏れてくる唸り声とともに、生臭い息が狭い玄関を満たしていく。
(そうだ、電話だ!)
恐怖という名の呪縛から僅かに逃れ我に返ると、俺はダイニングテーブルまで走り、スマホを手に取った。
「なぜ通じないんだ?」
画面を見るとアンテナのレベルがゼロに近い。
(何故だ!)
俺はパニックを起こしていた。誰かに救いを求める手だてはこの薄っぺらい機械しかないというのに。
「ムダだ。それが通じないようにするくらい俺には簡単だからな」
既に人間の声帯から出されるものではない声がそう言った。
奴が扉の隙間から黒い小さなボックスのようなものを自分の顔のそばに掲げて見せた。その顔つきは明らかに薄笑いを浮かべていた。黒いボックスに浮かび上がるオレンジ色の小さな明滅は、まるで消えかけたろうそくの光点のように滲んで見えた。
俺に向けられたおぞましい上顎と下顎からは、乳白色の牙が剥き出しになり、軋みを上げた。
「お前は知り過ぎた」
「あれは小説だ!作り話だ!」
だが俺の言葉は、届ける相手を間違えている。なぜなら奴は人ではないのだから。
(もう俺の声は誰にも届かないのか!)
それは初めて味わう絶望という感情だった。
その時、バルコニー側のガラスが割れる大音量が、俺の消えかかった理性にとどめを刺した。
新たな現実は、俺に絶望を確信させるには充分過ぎた。
「やめてくれ!誰にも言わない、誰にも。だから許してくれ!」
部屋の奥から死を予感させる物音が聞こえてくる。誰もいるはずのない闇の奥から、床を軋ませながら何かが近づいて来る。
ギシリ。
ギシッ。
俺は恐ろしさの余り、振り返ることさえ出来ない。そして背中に生臭い吐息が吐きかけられる。
このおぞましい化け物は一頭だけではなかったのだ!
完