† 十六の罪――父の手(弐)
「あんた――そのためにこんな身体になってまで……!?」
見開いた目で、信雄は振り向く。
「ぶっちゃけ世界なんてこの歳になるとどうでもいいわ。ま、そんな世界でも救おうだなんて夢見ちゃうかわいい弟子のためだ。身体のひとつぐらい、なにを惜しむ」
歯を軋ませ、縋りつく彼だが、師は力なく笑うだけだった。
「なあ、嘘だろ……また元の身体に戻れんだろ? 実は嘘でーすって言ってくれよ。いつもみたいに――――」
「戻れるもなにも、もう元の身体なんて死んじゃってるからねえ。こんな形でも再会することができるなんて思いがけなかったけどさ……冗談だらけの冗談みたいな人生だったけど、最後に君たちの意思と力をたしかめたいってこの想いだけは、うそじゃなかったみたいだ。さすがに、もう時間がないみたいだがね」
その凶器じみた全身を構成していた黒鉄が、いつの間にか雨から変わった雪の中、無に還ってゆく。
「そんじゃあな……信雄、お前は変わるなよ――――」
満足気に微笑む老兵。
「多聞さん……!」
部下たちを振りほどいて、桜花が詰め寄る。
「桜花くんか。こんな手じゃ、もう君にふれることもできなくなっちゃったねえ…………」
応じるのは、掠れた声と姿。崩落してゆく腕を彼女に差し延べようとして、多聞は自嘲する。
「じゃあ、せめて――ぼくに抱きしめさせて」
少女は消えかかっている大男を支えるように、身を寄せた。あの頃と何も変わらない二人のように。
彼らにとって違いがあるとすれば、桜花が抱きしめる側になったこと。
そして――迎えようとしているのが、永遠の別れであること。
「何が起きている……多聞(あやつ)は何をしているのだ……?」
展望台に響く、象山の呟き。
「何故だ。心までは復元できない筈……! あれは我が術を以てしても切り離せるようなものではない――まさか……命を失ってなお、弟子への思念が残っていた、とでも……?」
「何が起きている……多聞(あやつ)は何をしているのだ……?」
展望台に響く、象山の呟き。
「何故だ。心までは復元できない筈……! あれは我が術を以てしても切り離せるようなものではない――まさか……命を失ってなお、弟子への思念が残っていた、とでも……?」
眼前のガラスに触れながら、外界へと問いかける。
「……証明できない。斯様な事態、有り得ない。あってはならないのだ!」
項垂れている友の隣で、窓辺に背を預け、紫煙を吐き出す茅原。
「キミは昔こう言ったね――人間が強くなれたのは、心(あたま)があったから。人間が弱いままなのは、心(りせい)が残っているから」
そう口にして、彼は煙管の端を噛む。
「……けど、これは――――」
舞い散る雪に溶けゆく最中(さなか)、少女に優しく語りかける亡者。
「もう君は組織の人間でも、悪魔と契約した謀叛人でもない。すべてを捨て去った後に残った、本当の三条桜花だ」
しかし、彼女は首を振るばかり。
「その三条桜花には、多聞さんが必要だよ…………」
「いいかい? お前自身で考え、決断し、行動するんだ。正しいと思う通りに生きろ。それが、僕からの最後の指令だ」
消え去る間際、悲痛な表情の桜花に、彼は伝える。
「そんな……また多聞さんと生きたいって、ずっとずっと思ってたのに……!」
彼女は必死に手を伸ばすが、もはや多聞の存在はなく――――
「僕は――お前の正義を、あっちから見ているよ」
空虚な宙(そら)に、言葉と雪だけが残った。
一同は、ただ黙したまま空間を眺めている。桜花もしばし、呆然と固まっていたが、一言、
「……さようなら、お父さん(ヒーロー)――――」
と、囁いた。
閑静な部屋を、一筋の薄墨がゆったりと横切る。茅原は無機質な天井を仰いで、軽く溜息をついた。
「……まあ人間だからこそ、なにが起きるかわかったもんじゃないんだよねー」
緩やかに身を乗り出し、無言で窓外に見入っている象山の耳元で続ける。
「誰もが人間の本質(こたえ)を理解しようとして、かなわずに苦しむ。そして――人を超えることで手を伸ばすわけだね」
彼は向き直ろうともしない。
が、
「そう……あのときのキミのように」
と、友が付け加えた刹那、包帯から垣間見えるその隻眼が、僅かに動いた。