世界の色、少年の見える世界
少年はこの地区に流れ着いた時からいつも自問自答していた。
世界は何色をしていて、またどんな色に溢れているのだろうか。
例えば、見ているだけで清々しくなれるような澄み渡る青空の色、人も建物も全てを赤く染め上げる夕日の朱色、様々な色に咲き、女性の心を色鮮やかに変えてゆく花の色。世界は美しい色で満たされている。
少なくとも第一から第五までの地区に住んでいる住人達はそう思っている。
少年にとって、この世界は灰に塗れているようにしか見えなかった。
古く、汚い建物の下から見上げた埃や煙の絶えない空。
泥や油の染み付いたボロ布をまとった労働者達の行進風景、生活排水を垂れ流し、朝晩を問わず酷い臭いと色の漂うドブ川。
第十三地区内を転々としている少年には世界が何色をしているのかなんてどうでも良い事なのに、色鮮やかだった世界も知っている彼にとって、どちらが本当の色なのかいつも疑問に感じていた。
少年は今、ある気配が近づいてきている事にに驚いていた。驚愕に値する出来事が目の前で起こっていた。
この地区の、しかも夜間に、女が一人で出歩いている・・・?
少年は1ヶ月程前から悲惨極まりない生活を送っていた。
頼る身寄りと家族を亡くし、家も金もないまま今、この国を騒がせている流行り病にかかり、あと数ヶ月の余命を待つか、行き倒れるのを待つかという状況であった。
いつの頃からか、少年は希望を失い、生きる気力を失くしていた。
自分は何のために生まれてきたのだろうか。
こんな生活をしてでも生きていたいのか?
これが自分の思い描いていた「理想の未来」だったのだろうか。
どちらにしろ病気で死ぬ運命なのだとしたら、せめてこの地区から抜け出し、最後は色鮮やかな景色の中で死にたい。
それが唯一の少年の願いであった。
少年は準備を万全にした上で野宿に臨んだ。
この極貧最悪の地区で野宿する者は多い。
だが、横になって眠ると熟睡をしてしまい、そうなると悪党共の格好の餌食となってしまう。
だから皆、この地区の浮浪者は家の壁と柱に寄っ掛かり座った状態で眠るのだった。
最初は臀部が痛くなり、眠る事が出来なかったが、数日も経てば眠気には勝てず、その姿勢でも十分寝る事は出来るようになった。
少年のように年齢が低い者特に寝込みを襲われやすい。
少年は唯一の身寄りであった恩人の男にもらった特注のトレンチナイフを懐に隠し、今日も膝を抱えながら寝る準備に入っていた。
寝る前にいつも考えている事があった。
それは「あの人との約束」だった。
ただ死ぬ事が自分の目的となってしまった今、あの人との約束をどうすれば良いのだろうかと頭を悩ませていた。
しかしこんな病を持った体になってしまった以上、どうする事も出来ない。
かと言って、それを託せるような知人もいないし、このまま放っておく訳にもいかない。
そんな堂々巡りな思考をしつつ、様々な解決方法を考えているうちに眠りに入る。
そんな日常であったのに、今日は何だかいつもと様子が違う。
第二か第三地区の方だろうか。何だか騒がしい。
少年は昔、今の第三地区の辺りに住んでいた。
あの辺りは富裕層の住む地域で少年もまたそんな彼らの子供達と一緒に遊びまわっていた懐かしい場所だ。
少年はぼんやりと騒がしい方向を眺めながら、睡魔に襲われるのを待っていた。
5年前のクーデター以来、生活は一変し、家を失い、家族を亡くし、今この国の中心地にある十三の地区の中で最も貧困者と犯罪・殺人の多い第十三地区で浮浪生活をしている。
こんな危険極まりない地区の夜に、ある足音が聞こえてきた。
足音は軽く、歩幅も短い。すぐに女だとわかる。
女ではあるが、娼婦とはまた違う品のある上品な歩き方だ。少なくともこの地区に来てからは聞いた事がない。他の地区からお嬢様でも迷いこんだのか?
しかも、こんな時間に女が一人で出歩くなんて、狂気の沙汰ではない。
殺されたいのだろうか。
段々こちらの方へ近づいてくるうちに、別の足音も聞こえてきた。
二人いて、男のようだ。
並んで歩いている訳ではなさそうだが、一人ではないのかもしれない。
こちらの方へ足音が近づいてくる。
少年は裏地の隠しからいつでもナイフが取り出せるように上着のボタンをそっと外した。
女の姿が見え、辺りの様子を伺いながらこちらの姿を確認し、少年の前まで来てから立ち止まった。
彼女は一人だった。
彼女にバレないよう、そっと周囲に目線を送り、他の男達がどこにいるのか確認した。
姿は見えなかったが、この近くに隠れている事は確かだった。彼らは隠れたのだろうか、それとも彼女が隠れさせたのだろうか。
いずれにしろ、彼女は何が目的なのだろうか全く見当がつかなかった。
少年は膝の中に顔を埋めたまま、彼女の出方を待った。
「あ・あの・・・。」
少年は少しだけ顔を上げた。
ほんの一瞬、二人はお互いを見つめ合った。
しばらく見つめたが、少年はこの女とは面識がない事だけははっきりした。
「あんた、俺に何の用だ?」
「いえ・その・・・。」
よくわからないが、この女には何かある。
少年は臨戦態勢に入った。
「あんた、一人か?」
「えっ? は・はい・・・。」
「じゃあその後ろでナイフを持っている奴らとは無関係なんだな?」
女は驚いて後ろを向いた。
この反応は本当に後ろの奴らとは関係がないのだと納得する。もし関係があったとしても俺は命を狙われているし、戦う理由はいくらでもある。
後ろの男二人は彼女に向かってナイフを取り出し、全速力で走り寄ってきた。
女は振り向いたまま、何が起こっているのか理解できず、その場で立ち尽くしていた。
「こっちへ走れ!!」
女は我に帰り、少年のいる方へ向き直し、駆け出した。
しかし、そこに少年の姿はなく、一つの影が
女の頭上を掠めていった。
彼女はこの目まぐるしく変わる状況に混乱しながらも、必死で壁際まで走りきり、息をついてから状況を把握する事に努めた。
まず、自分と同じ方向に歩いていると思っていた二人組は私を付け狙っていた。
それがバレた瞬間、自分を殺そうとナイフを向けて来た。
次に、目の前にいた少年は、膝を曲げていた状態から彼女の頭上を越える程の高さに『跳躍』をした。
助走をつけて飛んでもここまで高く飛ぶ事は出来ないのに、まして座った状態であれ程の高さに飛べる脚力を持っている人などいるはずがない。
これは人間の身体能力の限界を遥かに凌牙した動きだ。
やっぱりこの少年はもう・・・。
少年は彼女を飛び越え、後ろの男に向かって飛躍し続けた。
その空中で彼は上着の内側からトレンチナイフを取り出し、彼女のすぐ後ろまで迫っていた男の方に向かって刃を振り下ろしにかかった。
男は避ける事など出来なかった。
全速力で走っている男は急に止まる事も出来ず、少年との真っ向勝負をするのみの状態であった。
男は自分の前に降下している少年に向かって刃先を向け、突き通した。
しかし、刃を突き通した手応えはなく、そこに見えたのは少年が空中で旋回しながら攻撃を避け、そのままナイフを振り下ろしてくる姿だった。
男は健闘も虚しく、肩上部から下腹部にかけて大きく斬り下ろされていった。
女は壁の横に出ている柱に張り付き、少年らの方からは見えないように隠れながらただ傍観するしかなかった。
少年が着地するのと同時にもう一人の男の刃が飛んできた。
さっきの男よりも俊敏で隙がなく、細やかに急所を正確に狙ってきた。
最初に向かってきた奴は、こちらの出方と技量を見極めるために捨て駒として当てられたのだろう。
今度の男はきっと姑息な手を使ってくる。
直感で感じながら刃を交えた。
相手は機械のように正確に急所を狙ってきた。
それ故にかわすのは簡単な上に、力でも速さでも少年の方が何倍も上回っていた。
腕に三箇所傷を入れたところで男は後ずさりしながら距離をとった。怯えきった表情でナイフを下に落とす。
「ま、待ってくれ。本気で殺すつもりなんてないんだ。あの女をちょっと脅して金品を奪ったらそのまま去るつもりだったんだ。あんたも同業者だったらわかるだろ?」
「お前と一緒にするな。さっきからずっと尾けて来てたんだろ。金品奪う機会なんていくらでもあったはずだ。」
「いやいや、とんでもない。この辺りは酒場が多い。だからこの時間でも人気が多くて・・・。」
明らかに見え透いている。女の家を突き止めてから殺するもりだったのだろう。その方が金だけでなく装飾品も手に入る可能性が高い。それを狙っていたのだろう。
「そ・・そうだ。あんたもあの女を狙ってたって事は金が欲しかったんだろ?金なら俺がやる。あんたにはかなわない。あの女も好きにやってくれ。俺はこれで手を引く。だからこれで見逃してくれよ。」
男は上着の裏に手を入れ、お金を探した。
少年は反射的に目を閉じた。
目が開かない、きっと砂を忍び込ませていたのだろう。
腹部に激痛が走ると共に、後ろへ飛ばされていった。
少年は地面にうずくまり、蹴られた腹を押さえながらもがいていた。
目の方は咄嗟に閉じたものの、かなりの砂が目の中に入り、拭っても中々取れない。
あの男はどこに行ったのだろうか。
自分からは遠ざかっていく。
足音はあの女の方へ向かっていく。
少年は目の砂を払いながら全神経を耳に集中させた。
女には逃げ場がなかった。柱に弱れていないで逃げていれば良かったと後悔しそうになる。
彼女の後ろは建物の壁、左には建物の柱があり、男は正面右斜めから走ってくる。男は右手には予備のナイフを取り出し、鋭い先端をこちらに向けていた。
女にはもう祈る事くらいしか出来なかった。
男は素早かった。
あの少年程ではないにしろ、俊敏で男の姿が目の前まで来るのに何秒もかからなかった
。
女は手を震わせながら神に祈り続けた。
男はあっという間に女の前まで迫ってきた。ナイフを振りかざし彼女の体を射程距離に捉えた。
女は死を覚悟した。いや、元から覚悟はしていた。あの屋敷を出る時からしていたはずなのに、覚悟が足りなかったのだろうか。
男は走り寄ってきた足がもつれ、倒れこむ。そしてそのまま動かなくなった。
女は恐る恐る閉じていた目をゆっくり開いていく。
男の背部に少年のナイフが突き刺さっていた。
少年は目を閉じたまま、まださっきの場所にいる。
という事は目を閉じたままナイフを投げて命中させたのだろうか。彼女は少年を恐ろしく感じた。
少年はようやく目が開けられるくらいに砂が取れた。でもまだ痛そうだった。
少年は女の前に転がっている男の背中からナイフを抜き出した。
ナイフは左背部に深く刺さっていた。
ちょうど心臓に命中しており、血が一気に噴き出した。
少年は血の出る光景を興奮した様子で見ているうちに、体が小刻みに震え出した。
この衝動を今まで何とか抑えてきた。
しかし、今回ばかりは我慢の限界を超え、理性を抑えきれず、行為に及ぼうとしていた。
頭の中が真っ白になり、物事を考える事も、判断する事も出来ない。
ただ本能が欲するままに傷口から溢れ出る血に手を伸ばしていった。
それはとても甘く優しい香りだった。
一つ呼吸をすると鼻から頭の方へ香りが抜けていき、朦朧としていた意識がはっきりとしてきた。
更にもう一度吸うと今度は肺の方へ広がっていき、全身を駆け巡り、気が付くと震えが止まっていた。
意識がはっきりしてきた時、少年の周りを何かが優しく、温かく包み込んでいる事に気付いた。少年の固く閉ざされた心さえも溶かされていく程だった。
少年はあの女にきつく、優しく包み込まれるように抱きしめられていた。