#0c『もう一度アージェンタイトで』参
(チーフもう充分です! あとは我々の突入まで守りに徹してください。狙わせすぎです!)
(ふざけんな、お前らが飛び込む瞬間に的を演(や)れなきゃ意味がねえ! てめえは早く――)
(到達しました)
(何?)
レオンたちの気配が、アルマンの側面前方を上昇していった。
いつのまにか時計塔に到達していた赤い目の六人の仲間たちが、廃建築の群れから飛び出して時計塔の中腹へ。複雑な壁面をほぼ垂直に駆け上がり、加速しながら最後の跳躍を行った。
そして狙撃手の射界ではなく、一階下の窓に飛び込む。
或(あ)る者は銃撃によって。また或る者は蹴り破って。
部下たちのガラスを破る音が連なって聞こえてくる頃には、アルマンはもう駆け出していた。
一度、目で捉えた以上、もう見失うことはない。
直前までこちらを狙っていた時計塔の人影が、何かを察知したように銃座を離れ、闇の更なる奥へと身を退かせていくのが見えたのだ。
(勝った!)立体駐車場の割れた屋上面を蹴り、アルマンは跳躍しながら心で叫んだ。
ヘルメットを失った頭、特に顔面に硬い砂が当たっても、高揚感は最早陰りようがない。
ついに捉えたのだ。ついに追い込んだのだ。居所を特定し、こちらから攻め込んだのだ。長かった犠牲の日々に終止符を打つ時がついに来た、と血が騒ぐ。
レオンたちのように迂回する必要は無い。元よりそんな思考も無かった。目的地とその真上の時計盤がみるみる大きくなる様に、得も言われぬ感奮が胸の内から広がってくる。
殺人鬼は闇の奥へと後退したらしく、灰色の空を上昇するアルマンにその姿は見えなかった。
逃げ果(おお)せる気か? 『ヴァニッシャー』ならその算段を用意してあっても不思議ではない。
『ヴァニッシャー』に迫ったケースは過去に幾度も有ったが、奴はその都度、嘲笑うようにアルマンたちの追及を躱してきた。今回も直近の敵を殺し、こちらの探査網に穴を開けて――?
(させるかよ!)
死んでいった部下たちの面影が甦る。
それに続いて、なんの断絶も区別も無く、生きている者たちの顔までが想起される。
最後の飛び石となる斜塔を蹴り壊しながら、アルマンは最後の跳躍をした。
間近に迫ったことで、高低差ゆえの仰角が険しくなる。目指す突入口をひとたび見失うが、それも一瞬のことに違いない。
もうなんとも感じなくなった砂塵と風圧をものとせず、時間と距離に焦らされて飛翔する。
急げ、急げ急げ急げ。早く早く早く早く。
「一瞬」を長く感じる。感じ取れるはずの部下たちの気配を探す。
だが、それ以上に性懲りもなく殺人鬼の気配を探っている自分が居た。
何も感じなかった。ただ銃声が聞こえて、戦闘の最中だということだけが判断できる。
そして自分は、仲間に加勢しようと逸る気持ちに、体の全てを委ねている。そこに嘘はない。
だが湧いてくる異物がある。
なんだこの感覚は。
なんだこの焦りは。
仲間が殺されることへの恐れや焦りと共存して、理性も感情も圧倒しそうになる焦燥感。
奴を逃がしてなるものか、と。他の誰にも先を越されてなるものか、と。
脳でも骨でも肉でもない身体の何処かが、我先にと何かを欲求している。
『チーフ、知っていますか? 私たちヴァンパイアという名の、一番古い意味を』
不意に、甦る記憶があった。何週間か前、なんとはなしにレオンが漏らした他愛ない蘊蓄(うんちく)だ。
『吸血鬼。血を飲む化け物、という意味なんだそうです。いえ、本当にそうなんですよ』
『私たちの祖先は、何を好き好んで、自分たちにそんな一人称を宛(あて)がったんでしょうね?』
『吸血というのはわからないでもないですが、鬼というのは悪趣味に過ぎます』
『そんな単語は、その手の事件を起こす犯罪者にだけ、背負わせればいいのに』
例えば「殺人鬼」のような。アルマンは信じなかったが、同意はした。
レオンの話が本当だろうと嘘だろうと構わないが、鬼は俺たちではなく「奴」の方だ。
(させるかよ。逃がさねえ。必ず仕留めてやる。俺のこの手で狩ってやる)
そんなことを、自分の血が訴えているような気がした。
生まれて初めて、自分の本分を見出したような、奇天烈な違和感と一体感を併せ持つ衝動。
吸血鬼としての自分が『ヴァニッシャー』を求めている――なんだ? 今俺は何を考えた?
夜空が白く薄れていく。背後で折り重なっていく薄明の輻射(ふくしゃ)が、あらゆる死角から視界へと染み込んでくる。残り時間はほんの僅かだ。
そして、目指す時計盤が間近に迫る――
最後のジャンプを終えた吸血鬼(ヴァンパイア)アルマンの身体は悠々と風を押しのけたのち、目的の高度ぴったりで、重力に対する蹂躙(じゅうりん)をやめた。
自由落下が始まる直前の浮遊感と共に、時計塔のテラスに降り立つ。
そして茫然と。
赤い光の粒が舞うのを、
砕かれた赤が光を失うのを、
熱を失った屍灰が宙に散らばるのを、アルマンは茫然と目撃した。
一人分の銃声が止む。
担い手を失ったサブマシンガンが床を打ち鳴らす。
プラスチックがプラスチックを割るような、軽く甲高い音と共に、
よく知っている首都警察制式の防弾ヘルメットが、中身ごと白刃に断ち割られる。
頭を横薙ぎに断割された防護服の人物が、新たに全身を赤い屍灰へと変化させて破裂した。
その直前、ちょっとした後ろ姿に潜む姿勢や体格などの特徴からでも、アルマンはそれが部下のうちの誰なのかを即座に理解することが出来た。
だから、その名前を今度こそ絶叫しかける。
しかしまるで阻止するように、それは速やかに次の仕手へ取りかかっていた。
全身を頭のてっぺんから覆う黒いローブに身を包んだそれは、袖口から覗く幅広の両刃剣をほんの少しゆっくり動かし始めたかと思うと、次の瞬間には恐ろしい速さの太刀筋を描いて、三メートル以上離れていたはずの別の武装警官を両断した。
全て、アルマンがテラスに着地してから、次の一歩を踏むまでの間に起きたことだ。
アルマンの頭の中が、心が真っ白になる。
だが血は真っ赤に熱を帯びて歓喜したような気がした。
どちらの支配下で身体は動いたのか?
既に五人の戦果を上げた殺人鬼は、まるで床が動いているかの如く闇の中を滑り、次の獲物を目指していた。あるいは、既に充分な接近を完了していた。
六人目の標的。時計塔に最初に突入した警官のうち、最後の一人。アルマンの信じる副官。
「レオン!」
アルマンの手の中で、拳銃がセミオートの火を放った。撃ち出された弾丸たちは戦場の只中へと、狙い通りに直進し、それらのうち一つが奇跡的に、殺人鬼ではなく、その剣を弾いた。
レオンめがけて既に軌道に乗っていたためか、外的な力に阻害された剣はあっけなく主の手を離れた。フロアの奥側へと回転しながら放物線を描き、朽ちた柱のひとつに深々と突き立ったことで停止する。
ここは上階の時計盤を制御していた機械たちの墓場か。闇に浮かび上がるのは砂を被った床と柱と、似たり寄ったりのガラクタが築く蜘蛛の巣のようなワイヤーの斜線ぐらいだ。
アルマンの靴に何かが当たる。
そうか。この細長い銃身か、愚かな俺の部下を何人も食い物にしたのは――
「! チーフ……くっ!」
レオンがこちらに気付いた。ヘルメットを被った細身の副官がこちらを顧みつつ、もし殺人鬼の手に剣が残っていたならば間に合わなかったであろうタイミングで、飛び退る。
果たしてアルマンの視界、左前方にレオン。
そして、フロアの中央部に立って空手をローブの陰に収める、黒ずくめの人影。
殺人鬼『姿を消す者(ヴァニッシャー)』。
ついに見つけたついに追いついた。また俺の仲間を殺したのか殺したのか殺したのか!
まだ殺し足りないのか!
「うオオオオオオッ!!」
気が付けば、いつのまにか、とは言うまい。自分の体が殺人鬼の黒いシルエットめがけて突進を始めたことなら自覚していたし、そういう衝動を止められない己の性も承服済みだ。
もっとも、多くの犠牲の上に成り立ち、今もなお部下(レオン)の命がかかっているこの戦いで、ワケのわからない欲動に体を使わせてやる気など全く持ち合わせていなかったが。
ナイフが二本、殺人鬼のローブの中から飛び出してきた。ヘルメットを被っていないアルマンの両目を狙う直進軌道を、こちらは防護服の腕部で払い、即座に拳銃を発砲したが、鈍(にび)色(いろ)の金属音にことごとく阻まれた。
黒いローブの裂け目から、ナイフの次に覗いたのは両刃の大剣。
鍔(つば)は無く、元よりそんなもの要らぬとばかりに異様に幅広がった柄元から、二等辺三角形の要領で切っ先まで直線を引く左右対称の長大な得物は、今さっき弾いた代物と全く同じ形状だ。
(同じモンがもう一本だと!?)
両刃剣が突き出されると踏んで、アルマンは急停止のたたらを踏む。部下を次々と仕留めていった相手の手練、剣捌きと立ち回りの怪を思い出せば、単に剣の間合いから離れればいいという簡単な話でないことは自明と言える。
離れてレオンと連携し、十字砲火を仕掛けるべきだ。
アルマンがそう判断した時、ちょうど呼応するかのように左側面でレオンの気が動いた。殺人鬼から遠ざかっていた部下が体勢を立て直して床を蹴る。高く飛び上がり、黒ずくめにサブマシンガンを向ける。
跳躍の軌道を理解し、アルマンも、即座に拳銃のトリガーを引いた。
だが殺人鬼は一歩も動かず、アルマンの放った銀弾を広い刀身で受け止めるのみ。
(チーフ、横に跳んで!)
念話が響いて初めて気付いた。
あの黒ずくめ、剣を盾にしながら、もう片方の手で、こっそり拳銃でこっち狙ってやがる!
「くそったれがぁっ!!」
レオンのサブマシンガンと、殺人鬼の拳銃が同時に唸りを上げた。フルオートで最低八発、転倒同然に回避したアルマンの横を拳銃弾が駆け抜ける。
そしてそれらの射撃動作と同時並行に、黒ずくめは左手だけで見蕩れるほど巧みに両刃剣を操ってみせた。頭上を大きく飛び越えながらレオンが放つ弾の雨を、『ヴァニッシャー』と呼ばれてきた殺人鬼は剣を逆手に順手にと持ち替えながらクルリと翻して防ぎきる。
更に、遊底(スライド)の後退した銃を捨てて、倒れたアルマンへと追い打ちの投げナイフまで繰り出す。この動作だけ僅かに遅かったが、あくまで他の動作との比較でしかない。
なんだこの化け物は。
アルマンは更に転がり、おかげで弾切れ寸前の残弾をほとんど出(で)鱈(たら)目(め)にしか吐き出すことができなかった。当たらない。弾の幾つかはちゃんと殺人鬼へ殺到したのに当たらない。
黒ずくめの纏(まと)うローブがはためき、五四〇度くるりと回って両刃剣が投擲(とうてき)される。
投じられた剣の旋回は、天井に着地して弾倉交換(タクティカルリロード)を行った直後のレオンを捉え、その体に深々と突き立ったことで停止した。
「! レオン!」
レオンの全身が、防護服やヘルメットごと屍灰となって破裂し、上階の大時計まで繋がっているらしい古びた機械の群れへと降りかかった。
両刃剣が直下して、ワイヤーの一つを切断する。
黒ずくめは柱を蹴りながら跳躍し、レオンの道連れにならず剣とも別の落下軌道を描いていたもう一つの物体――レオンのサブマシンガンをキャッチした。
機械がどう動いたのか、時計塔の頂から鐘の音が鳴り始める。
「レオーーーーーーーーーーーン!!」
アルマンの声は途中から、響き渡る鐘の音にかき消された。
全身が沸騰するような熱感の中、アルマンは黒ずくめの着地点へ滑走し、ありったけの力を左手に込めて真下の床へ叩き込んだ。
支柱間近の床が割れ、柱と床の支持均衡が失われたことで、破壊は広い崩壊へと拡散を始める。百年単位の経年劣化を証明するように、床は亀裂を走らせるまでもなく割れ、あるいは崩れ、ボロボロの砂礫へと瞬く間に変貌し――そして、その変化がフロア全体にまで伝染する。
まるで、銀毒に冒されたヴァンパイアの灰化のように。
フロアの崩壊が、建物全体のそれにまで連鎖していく。
鐘の音がリズムを失い、それとは異なる断末魔を時計塔が上げ始める中、崩壊の起点となった大時計真下の機関室から、土煙の壁を破り、真横の空へ飛び出す影が一矢。
アルマン。と、その腕に取り押さえられた黒ずくめの人影である。
「――ぅぉ――ォォォ……!!」
薄れて消えていく鐘の音と、ますます大きくなっていく時計塔の断末魔を背に浴びながらも、怒りの吼え声は完全な埋没を拒み続けた。
右の腕と左の手で黒ずくめを――そして自由落下を告げる浮遊感で地面までの距離を、しっかりと捕まえたまま。己の巨躯の下敷きにして殺人鬼を地面に潰すべく。
だが、殺人鬼を包むローブの布が不意に波打って、アルマンの左手を絡め取った。
確かに敵を取り押さえていたはずの両腕から、予想以上に軽い痩(そう)身(しん)の手(て)応(ごた)えがすり抜けて、アルマンは一人あらぬ方角へ加速する。
投げられた。アルマンの突進力が死ぬ直前、抗(あらが)える程度に衰えた直後を見極めなければ為(な)し得ない妖美なまでのあしらい技で、アルマンの体は殺人鬼のローブ――おそらく最外層を構成していたマントのような黒布――に包まれ、変化した放物線の先で弾丸よろしく廃ビルに突っ込んだ。建材を破る反作用の全てを、自分の背中で受け止める。
(ぐぅああああああっ!!)
轟音。壁と言わず建物丸ごと貫通して、その先にあった別の廃屋の根元にまでアルマンは突貫する羽目になった。銀でも陽光でも水の流れでもないが、警官でもない一般人ならば致命傷になりかねない圧力に、間違いなく全身の骨が粉砕され、数秒の気絶を強いられる。
布に絡まれると同時、溢れていたはずの力が出せなくなった――この布、まさか銀が織り込まれているのか。刃物や銃弾が銀素材を含むのは対人の凶器として当たり前のことだが、衣類や装飾品にまで銀を仕込むなど平民の界隈(かいわい)でも聞いたことがない。この外套(がいとう)に限った話でないとすれば、下手すると訓練された警官でさえ、『ヴァニッシャー』と同じ格好をするだけでロクな身動きができなくなってしまうのではなかろうか? アルマンも含めて。
それに投げ飛ばされた直後、偶然に見えた黒ずくめのフードの奥。
(黒かった……だと? いや、見間違いだ。そんな目の色、聞いたこともない)
平民は赤。貴族は金。創世記に登場するヴァンパイアハーフ(ダンピール)でさえ赤と金の片眼ずつ。
貴族サマが嫌うはずの銀や機械を大量に身に付けている件といい、その上でのあの手練といい、『ヴァニッシャー』の実態は近付くことで逆に余計にわからなくなっていく。
そうか、外からあのフロアの空気を探れなかったのも銀の影響か。あの機関室全体に銀製の何かが仕込まれていたため、あの時アルマンは、先に突入したレオンたちを――
――レオンたちを。
自分は死なせてしまった。また多くの部下を。あまつさえ、自分が死んだ場合には存命の全(すべ)ての部下を任せられると信頼していた副官までも、自分は無駄死にさせてしまった。
仲間をやられるたびに怒りで埋め尽くしてきたアルマンの胸中で、今までとは全く違う類の喪失感が生まれ、たちどころにあらゆる熱を奪い去った。
自分の大っぴらな怒りは、後顧の憂えを不要にしてくれる副官が居てこそのものだったのか。
多くを失い、ついにそれほどの大きなものまでを、自分は失ってしまったのか。
背骨が再生していく。内部構造までは無理だが、防護服も、重さと輪郭を取り戻していく。
(……違う。失ったのは俺じゃない。俺はまだ何も失っちゃいない)
被害者は死んでいった者たちだ。失ったのは彼らだ。彼らや、あるいは首都に居る彼らの家族に贖罪すべきこの自分、アルマンは、まだ手も足も血も失ってはいない。
ついにレオンさえ帰らぬ人となったのに。
自分はまだ生きている。
なら当然、しなくてはいけないことがあるはずだ。
痛む体を押さえ、よろめきながらアルマンは砂塵の地面に降り立った。周囲には、アルマンの体と相打ちになって砕けた、まだ断面の新しい(つまり、砂塵の皮膜が張っていない)石塊(いしくれ)が無数に転がっている。
それに加わるようにして、非常に見慣れた、しかし場違いな人工物が頭上から落ちてきた。
(……ヘルメット? なんでこんな所に転がってやがる……そうか)
当初の作戦地を取り囲むように配備していた、味方の狙撃班。影も形も見えなくなってしまったが、彼らはアルマンやレオンよりも敵の狙撃を探知しやすい場所に居たし、それゆえに、『ヴァニッシャー』からもまず真っ先に狙われたはずだ。
電波通信が滞る最中、背後からの狙撃を受け、アルマンたちより先にここを目指した者が居たのだろう。しかし時計塔には辿り着くことができず、途中でやられてしまったのだとすれば、こんな所に制式のヘルメットが転がっている可能性は有る。
――犠牲の上に成り立っている。
ヘルメットを被り、バイザーを降ろしながらアルマンは思い知った。空が白い。場所によってはもう日が覗いているかもしれない。これらの防具で、直射日光を防ぐことは出来ない。
拳銃は今も右手にあった。殺人鬼を地面に潰した後、トドメに撃ち込むつもりでずっと握っていた虚仮(コケ)の一念か――投げられて廃ビルに突っ込んだ際、砕けたのがこいつの銃身ではなく自分の骨だったことが何より幸運だった。現在の弾倉を確認。後三発。身に余る。予備弾倉はポーチのアタッチメントごと何処へやらだ。
無事なホルスターに銃をしまい、アルマンは耳を澄ました。気配を漏らすような敵ではない。自分にはどう足掻いても、『ヴァニッシャー』を見つけることは出来ない。が、もしここにレオンが居たなら、どう助言してくれただろう?
もう一度だけアドバイスをくれ、レオン。今までの言葉からでいい、ほんの教訓をくれ。
「これ以上……」地面を蹴る。真上にではなく、だが高くアルマンは舞い上がった。
風の中、黎明(れいめい)の空から狙い澄ますは、変わり果てた時計塔の跡地だった。土台部分が砂塵に埋もれているせいで跡形もなく崩落するとはいかず、全長の半分をバラしたところで落ち着いたらしい。鐘の音も絶え、土煙は砂塵と大差ないぐらいには薄まっていた。
その跡地を睨(にら)む。と同時に、聴覚の限りをとある遠方に傾ける。
過熱したエンジンにせっつかれて、防塵仕様の無限軌道(キヤタピラ)が砂上を駆ける音が聞こえた。
味方の装甲車だ。帰路を急いでいる。当初の作戦地域から、彼方の『壁』を目指している。
そしてそれを――日の出が迫り、首都へ通ずる地下廃道に逃げ込もうとする黒い棺(かん)桶(おけ)のような装甲車を、数百メートル離れた時計塔跡、瓦礫の山の隙間から黒い人影が狙っていた。
得物は細長い狙撃施条銃(スナイパーライフル)。装甲車が廃ビル群の隙間に覗く一瞬を待ち構えて――
「やらせるかアアアアアアアッ!!」
落下しつつ、アルマンは怒号を上げた。叩き付ける全霊の拳はライフルや黒ずくめを正確に狙えたものではなかったが、落下の勢いを乗せて瓦礫の山に叩き付けた結果、衝撃が土砂崩れに近い現象を起こして、狙撃ポイントを丸呑みにする。
アルマンは自身、かろうじて崩落の流れを逃れながら、それでも必死に廃建築の隙間から今一度、装甲車の姿を垣間見る。そうせずには居られなかった。
思わず喉から、息を溜める暇など無いのに声が漏れる。
「……行け……っ!」
日の出は今にも始まる。間に合え。生き延びろ。こいつのケリは俺がつける。
いずこから如何なる軌跡を辿ったのか、アルマンの目前にそれが着地した。外套を捨てて尚、フード付きの黒いロングコートに身を包み、その奥にもまだ何層か同色の服を着ているらしい正真正銘の黒ずくめ。ひとたび背丈や肩幅が露わになれば、レオン並みに華奢(きやしや)である。
その仇敵に対し、一歩を踏み出す。
途端、黒ずくめの両手がブレるように揺れ、どちらかからナイフが飛来するが、
(今更そんなコケ威(おど)しが効くか、くそったれ!)