・ 第八章・『終演の円舞曲』
『仮面舞踏会最終夜への案内状』
御壮健で祝着に存じます……。例年催される大舞踏会に貴下を来賓として招待致したく、筆を執った次第です。
場所/セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー内部シティビュー
開演時刻/19:00~
当日は是非御来席下さい―。今宵を以って、友情にも似た我々の纏綿たる闘争の舞踏に終止符を打ちましょう。月光と電飾で彩られた屋上庭園の下、奴隷達の真実と自由を希求する哀哭を歌曲に、どうぞ麗しの仮面を御付けになった侭夜明け迄踊り明かして下さいませ……」
ロイトフはどこか達観した境地で巨塔の前へと赴いた。電脳文化都市インダーウェルトセインを象徴する様に巍然と聳え立つ、『セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー』……。電脳都市内でも有数の偉容を誇る巨大施設は宵闇の中で無数の眩い電光を放ち、益々の近未来的景観を強めている。
しかしゲートタワーの基に電飾で燦然と輝く街は、既に阿鼻叫喚の暴動で犇めいている光景が現状だった……。
元来の信者達は基より一般市民達迄もがエスの扇動を受け、既に市街全体は大規模な抵抗運動の熱気で包まれていたのだ。交通要衝に検問を敷き、インダーウェルトセイン都市一帯は全面封鎖された。一般人の外出や通行に緊急規制が加えられたものの、現状ではこの様に大勢の人間が街区へと乗り出し、人波が抗議を声高に叫ぶ有様なのだ。広場や街頭では機動隊が暴徒鎮圧に出動し、物々しい警棒や盾を振り翳して群集との衝突を繰り返している。店頭では路地での対立に怯えた店主達が厳重に鍵を掛け、観光客達はホテル内で遣り過ごす以外には無い。
「賢明なる市民の皆様、政府は現在夜半の外出、通行規制の周知をしております。これ以上の違法集会に対しては、公権力を投入して強制解散を働き掛けます。繰り返します、これ以上の違法集会に対しては……!」
都市機能は既に麻痺し、無秩序な暴行は今や最高潮へ達していた。各所で火炎瓶が投擲され火災が点在し始めた事で、消火活動のみならず群集へ弾圧攻勢を掛ける為にも放水車が稼動し始めた様子が見受けられる。水浸しの路地に催涙ガスの煙が濛々と立ち込め咽返る者達、機動隊員達に容赦無く殴り倒され昏倒し、引き摺られる様に護送車へ連行される者達等……。
この様な相互間の衝突が散見される中、エスはゲートタワーの最上階に在るシティビューで待ち構えて居るらしい。
……『今宵を以って、友情にも似た我々の纏綿たる闘争の舞踏に終止符を打ちましょう。月光と電飾で彩られた屋上庭園の下、奴隷達の真実と自由を希求する哀哭を歌曲に、どうぞ麗しの仮面を御付けになった侭夜明け迄踊り明かして下さいませ……』
エスから直接この手紙を預かり届け出た青年役人は、反体制側に感化されたらしくその後消息を絶っていると言う……。そして、ロイトフは警察へ送り届けられたその犯人直筆の案内状を再読していた。今、正に現状を予見していたかの様な文章に苛立ちを重ねながら……。
市内が暴力的な混沌で充満する中、最後の決着を前にロイトフは恐々とした内心を御し切れない。本人直筆の案内状から来る文面や覚悟の程からしても、エスが最上階に篭城している事は真実と断定して良いだろう。
「只今より、屋上を不法占拠する暴徒エス達への鎮圧作戦を開始する」
ロイトフは後方で幾何学的に隊列を組んだ、完全武装の群栄を見せる機動隊へ指示を始める。そして不意に彼は四方を見渡し、収拾の付かない市街全体の光景を見遣った後で嘲る様に吐き捨てた。
「留置場は既に満杯かもしれないな……。まあ、しかし構わないさ。俺が自分自身の手で、奴だけは直ぐに死刑台へと送り込んでやるんだからな……」
*
平常時には電脳都市内でも屈指の集客力を誇るゲートタワーだが、施設内部は既に夜間閉鎖したかの様な森閑さを湛えていた……。工業的な意匠と質感を基調とした内部は、既にテロ集団から武力占拠され人払いが為されている。街区の暴動へ参加する信者、野次馬的根性で物見遊山に出掛けた傍観者、叉、エスの不法侵入に畏怖しほうほうの体で逃走した塔内関係者達と……。塔の最上階を占拠したと予測されるエスは、手練手管を弄し機動隊への罠を張り巡らせているに相違無い。
しかし待ち構えた関門を前にするも、ロイトフの精神は十全に統一されていた。機動隊を背後で引き連れ、彼は躊躇せず行進の歩を刻む。踏み締める軍靴の足音は超然とした音程を保ち、決然たる意志を感じさせるかの様に塔内で反響し続けた。
エス一味は敢えて占拠している屋上で鎮座し続け、中途の階上で機動隊を襲撃して来ると言った可能性は極めて低いだろう。彼はその理念上、この封鎖された都市で極限迄死力を尽くすだろうし、最早自決の覚悟を固め始めている可能性すらある……。仮に彼が自害すれば騒乱も収束を迎えるかもしれないが、そうなったが最後、エスと言う重大犯罪者は永遠に一般市民からカリスマとしての声価を受け、歴史に永劫の足跡を残す事だろう……。
夭折の英雄、革命の士……。そんな声価を浴び彼が後世迄語り継がれる存在となれば、警察への不審感は払拭されず権威は貶められた侭……。人心は離反し、体制側が政治上の悪影響を延々と引き摺り続ける未来すら懸念されるのだ。
何としても、警察の威信に賭けて自害する以前にエスを捕獲し処刑したい。そして、その為には逮捕時の正当防衛としてエスを射殺出来れば最も理想的なシナリオではある。しかしその一線が叶わずとも、逮捕後の処刑映像等を大々的に公開放送する予定を思い描く程、ロイトフは躍起だった。
交通管制等が無意味と堕した現状、最早法的措置や手順を踏まえる事も無い。塔の周囲全体へ数十台のパトカーを待機させ、逮捕時の包囲網は既に構築させている。更に地上だけでは無く高空からの攻防を想定し、無人戦闘型ヘリ数台が最上階を目指し飛行を開始し始めていた。
そして最終決戦を前に、機動隊のヘッドギア機能や武装は今迄以上に充実されている。まず音響攻撃へ対する防御として、以前の様な集音能力を逆手に取った鼓膜を劈く様な轟音、人間の生理に不快な雑音等も事前に減音、消音される様に性能は向上された。叉、ヘッドギア内部の音声機構は盗聴を完全遮断する仕組みを導入させている。周波数を絶えず変調させ続け、更に音声情報を随時暗号化させ受信側で復号化する機構を設ける事で、情報漏洩や侵入電磁波に関する防御を磐石なのものとしているのだ。
視覚に纏わる防御へ関しては、無光状態でも赤外線視覚で視界を確保出来ると言う暗視ゴーグル機能を逆用され、閃光弾で幾度か撹乱されて来た。しかし光学暗視機能や赤外線暗視機能の他に今回の作戦上では超音波ソナーも付加され、三次元立体映像をも実現させる事で各種状況へ適切な自動切り換えが為される機構を備えている。
催眠ガスや毒ガス類を防備する為の防臭マスクには小型酸素ボンベも付加され、空港設備で発生した様な空調制御に拠る無酸素状態等にも一定時間耐久出来るだけの追加装備が果たされた。あらゆる最先端技術を複合化させたヘッドギアの万全さに死角は存在しない。
(これだけの重装備と多勢を前にはエス一派の抵抗も敢無く限界に至り、屈服せざるを得ない筈だ。奴等がどれだけ武器類や食糧の備蓄を貯えていようとも、最上階で篭城する以上いずれは枯渇してしまう事等自明の理……。最早奴等に退路は無い。捕獲と言う結末はあくまで時間の問題に過ぎず、我々は必ずや大罪人が不様な末期を迎えると言う、台本通りの終幕を遂げられる。
名も無い端役が増長しおって……! 歯車の様に整然と進行する舞踏会を破壊した大罪は死を以って購えっ……!! 今夜、この世界は闖入者を排除して筋書き通りに戻る。私達が役割から引き摺り下ろされたとしても、少なくとも舞台は収まるのだ……)
*
張り詰めた緊張感に貫かれた厳戒態勢の進軍中、最後尾に付く隊員は反射的に後方へ振り返った。……不意に、人影が視界を掠めた気がしたのだ。
この緊張下、人払いが為された筈の塔内で一般人が残留している可能性はまず有り得ない。錯覚でなければ、エスかその同胞達がこの周辺で潜伏し襲撃の隙を窺っているかもしれない……。我々を出迎える罠を張り巡らせ最上階を占拠していると言うブリーフィングも受けたが、無論全ての事柄に絶対は無いのだ。況や、重犯罪者の思考や行動等は読み切れる筈も無い……。
―そんな疑念が去来する瞬間、間近で物々しい炸裂音が鳴り響き、各人の背中が跳ねる様に伸び上がった。
(……今のは、明らかに銃声だ!)
その銃声に呼応して、後列を行く部隊は一様に臨戦態勢を整える。一定の人数が隊列を為して身構えると通路上には何者の影も見えず、壁面や床面に被弾した形跡は見当たらない。
だが誰一人警戒は緩めない侭、各人が恐る恐る周辺を探り出す。ヘッドギア機能が自動的に銃声の発生源を解析、探知し始める中、一部の隊員達は目敏く四方を巡る通路の一角で違和感ある光景を発見する。
硬質な鉄扉が等間隔上に設えられている通路上で、ある一室の鉄扉だけが収まる場所を喪ったかの様に、無造作に開け放たれているのだ……。
電子制御された鋼鉄製のドアが自然に戸を開く筈も無く、隊員達はその一室へ向けて俄然凝視をし始める。無論これが機動隊を誘き寄せる罠と言う可能性も高いのだが、異質な状況下を察知した以上は探索を怠れない……。反響する銃声から実際の発生源を特定しつつ周辺に人間が存在するかを熱源探知機能で精査しているものの、具体的な結果は未だ解析中とヘッドギア内で表示された。
本隊は遥か先を進行中だ。彼等の援護や指示を待つ間にもこちらは襲撃を受けるか、遠距離への逃走を許してしまうかもしれない……!
(―今、この瞬間を逃さず踏み込むしかない………!)
一種の強迫観念に駆られた隊員達は、慎重を期しながらも瞬発的に突入を開始した。
……。
しかし意を決して踏み込んだものの、隊員達は拍子抜けするかの様に軽く眼を丸くした。中空へ銃口を向け備え続けている態勢も滑稽に思える程、眼前に広がる光景は何の変哲も無い商談室だった。都市中枢を担うゲートタワー内部の一室だけあり調度品の類は洗練されているものの、犯罪者が潜伏や戦闘の場として選ぶには凡そ似つかわしくも無く、利点が感じられる要素も皆無と言える部屋だったのだ。
室内は商談を執り行う部屋の性質上、盗撮や盗聴、外部からの侵入を防止する様に厳重なセキュリティで設計されている様子だ。出入口は重厚な鉄扉が施され、横手に設置されたICカード式電子ロックは関係者以外の通過を認証しない仕組み……。現在開け放たれていた鉄扉からすれば、エスは関係者達のICカードを何等かの手段で不正入手したと言った所だろうか。
そこで各人が、怖々とヘッドギア内部の生体センサーから解析を試みる。
―しかし、隊員達を除く第三者の生体情報が捕捉されない……。エスは今迄警察の捜査を撹乱し、延々と逃亡し続けて来た犯罪者だ。何等かの狡知を用い潜伏している可能性は有り得るが、それにしても根本的に人間の臭いや気配らしきものが漂って来ない気がするのだ……。
(……誰も居ない筈は無いのだが……、どう言う事だ……)
状況が判然とせず誰もが訝り出した矢先、室内の後方に立つ者達が突如として驚愕の声を挙げた。
全員が何事かと一様に振り返ると、先程迄中空で収まる場所を喪っていた筈の鉄扉が、丸で自意識を取り戻したかの様に閉じ掛けようとし始めたのだ。戸外へ立つ隊員達が咄嗟に鉄扉を引っ掴み、その動作を停止させようと必死に引き戻す。内部へ入室していた隊員達も動揺しつつ肩に全体重を掛け、重厚な鉄扉が完全に閉鎖されてしまうのを防ごうと試みる。しかし数十キロは有るだろう自動制御式の鉄扉を停止させる事は叶わず、戸外にいる隊員達の指は引き剥がされ、内部の隊員達も重大な圧力の前に押し戻される形で遂には室内で尻餅を突かされた。大勢の隊員達は、内外で共に立ち尽くし暫し呆然とする他は無かった。そして、誰もが言葉を廻らす以前に直感したのだ。
(この商談室には、敵等誰一人存在しない……。我々はまんまと罠に誘引され、檻へ閉じ込められた動物と同じなのだ……!)
鋼鉄の扉は最早物言わず、頑として開錠される事は無かった。
*
相当数の隊員がICカード式の電子ロック室内に閉じ込められたと言う速報がヘッドギア内部から通達され、ロイトフは若干の失意に囚われ立ち止まった。
(何等かの妨害工作は想定していたが、序盤で既に戦力の減少と言う痛手を蒙った様だ……)
別働隊の報告を分析するに、奴等の手口は以前の様に集音機能を逆用し轟音で相手の身動きを防ぐ様な単純な手段とも違う。奴等は人間の錯覚を最大限に活用し、我々を眩惑しようとしているのだ……。一次被害を受けた隊員達は人工的に偽造された物音や気配に誘導され、敵の目論見通りセキュリティ機能が高度な部屋へと閉じ込められたのだ。
これで当面の間、彼等の脱出は不可能。自動認証を通過する為の鍵情報を塔内関係者へ打診し転送させるか、内部に閉じ込められた隊員達が機転を利かせ何等かの技術手段で開錠させるか、叉は火器を用い鉄扉を破壊する様な強硬手段に頼るか……。いずれにせよ相当な時間の足止めを喰らう事は間違い無かった。
「どうしてあいつ等は無関係な部屋に閉じ込められたんだ?」
「もう嵌められた奴等が出てきたって言う事か……?」
早速の敵襲とその被害を見知った隊員達全体へ動揺が走り出した事をロイトフは敏感に察知する。士気を低下させない為に、ロイトフは動揺の気色を露わにする一隊へ向け空かさず恫喝の声を挙げた。
「皆、騙されるな! エス達の所在は屋上で間違いない!! 奴等は塔内の照明や立体音響を操作し、巧妙に人間の気配を演出しているんだ!! 銃声や奴の呼び声も現場で発せられた肉声ではない筈だ。あれは予め録音された音響で踊らされたに過ぎない。全ては我々を撹乱させ、分散させる為の罠だ」
言うが速いかロイトフは懐から小銃を抜き出す。そして射的競技の如く、等間隔で天井に設置されている室内スピーカー、及び監視カメラを的確に撃ち抜いて行った。幻覚を生み出す元凶を根本から断絶したのだ。
ロイトフの正確な判断と速決に見惚れ、後方の隊員達は直ぐに冷静さを取り戻す。
(特に監視カメラ映像を利用し、エス達は我々の動向を窺っている事は間違いあるまい。塔内にあるセキュリティシステムの主体的機能を麻痺させながら進軍すれば、自軍が相当な有利性を獲得出来る筈だ……!)
「何も臆する事は無い! 奴等は自ら袋小路に嵌り込んでいるのだっ!! 後は只跳ね回る鼠を追い詰めて駆除するだけ、それだけの事だ、私に付いて来い!!」
途端に当階全体で、呼応する様に全員からの気勢が挙がった。
*
ロイトフの求心力は矢張り並々ならぬものがあり、鼓舞された隊員達は先程迄の萎縮が嘘の様に血気を滾らせ始めている。士気を回復させた複数隊は意気揚々と追随を始めていた。エスが手薬煉を引いて待ち構え各所で戦力が減退させられて行ったとしても、この圧倒的人数差ならばいずれは確実に追い詰められるだろう。
……。
後方部隊はその矢先、何かの配線が途切れる様な雑音が耳を掠めた様に思い立ち止まった。
ふと最後尾の者が振り返ると、『配電室』と表札が掲げられた扉の隙間から黒煙が漏れ出でている事に気付き、悲鳴にも似た声を挙げた。その切迫した呼び掛けから前列を行く隊員達も足を停め、何事かと首を擡げる。
そこでは噴出する黒煙が扉前面を覆い始め、その向こう側から火花が散る様な不穏な物音が微かに立ち始めていた。何かが焼け焦げる様な異音、異臭がヘッドギア越しに伝わって来る事を感じ取り、
付近の隊員達が思わずドアノブへと駆け寄る。しかし彼等がノブへと手を掛けるか否かの刹那、瞬く間に火の手が周囲の壁迄をも伝い始めてしまった……!
隊員達は思わず目を見張り後退った。火災の原因……。しかし、例えば電気系統の故障で出火した偶然の事故、等と解釈する者は当然現場には誰一人として居なかった。エスに由る妨害工作の一環である事を瞬時に直感した一隊は、装備から携帯消火器を取り出し即座に鎮火を試みる。最低限度の防災用具として装備していたガンタイプの消火器を、火の手の脅威を受けない遠方迄へ後退した隊員達が次々と発射して行く。
この消火器の弾丸には消火薬剤が詰められており、弾を発射して炸裂させる事で内容物を散布させるのだ。この消火器はレーザーシステムで座標を精確に設定可能であり、少量の弾数でも初期段階の火種ならば充分に鎮火可能な筈だった。
しかし隊員達はヘッドギアの視覚機能と連動させ消火すべき対象位置と射撃範囲を的確に被弾させ続けているものの、燃え盛る火炎は一個の獰猛な野生動物として生命を得たかの様に容赦無い気勢を挙げる一方だった。最低限度の装備では完全消火が不可能だと判断されると、忽ち隊員達の間に戦慄が走った。
(今度こそ、立体映像や立体音響に由る誘導工作では無い……)
『周辺温度の異常をお伝えします……。現在、半径10m内の室内温度が上昇し続けており、事故や人体へ悪影響を及ぼす危険性が感知されています。本ヘッドギア装着者及び周辺の方々は、この侭ヘッドギア内部の避難指示へ従い速やかに行動をお願い致します、繰り返します……』
ヘッドギアの熱感知機器がその度数をどんどんと上昇させ、人体への危険や周囲での火災等に及ぶ可能性を警告し始めている。警報は冷厳ささえも湛え機械的に反響し続け、隊員達の内心を千々に掻き乱す。何由りも、ヘッドギアや特殊防護服すらも通り越して身体へ伝わり来る猛烈な熱気や煙霧は紛う事無き現実だった。排気が不完全だとしても、一定濃度迄なら煙霧から立ち昇る有毒ガス等もヘッドギア内部の防塵・防毒機能が自動的に作動し微分してくれる……。
だが、猛烈な熱風に包まれ冷静さを保ち続ける事は訓練された隊員達にも至難の様だった。隊員達は自然と、更に悪化し行く状況を思い描き臆気に晒される……。超高層ビル内部が巨大アトリウムとして設計されていると言う事実も、現場へ居合せた隊員達の恐怖心に拍車を掛けた様子だった。
―超高層ビル建築の際は、洗練された景観を強調する為にアトリウムを導入する事が慣例的だ。だが皮肉な事にその天空を見晴るかせる様な吹き抜けた空間は、火災が発生した際には事態を悪化させる煙突の様な役割を担ってしまう。過去に於ける一連の大規模な火災事故を受け既に原因は究明されているのだが、低階層で火災が発生したとしても、瞬時に火勢や煙霧は建造物全体へ流動、拡散し被害を拡大させてしまうのだ……。ゲートタワー内部は低階層から中階層迄が飲食店やアパレルショップで占められており、目下隊員達が進行している高階層もオフィス区域として様々な精密機器が犇めいている。
そう、爆発的な火種となる要素は幾等でも連想させられるのだ……! 内部で大爆発が発生すれば都市を象徴する巨大ゲートタワーの倒壊どころか、周辺一帯が焦土とすら化すかもしれない……!!消防活動を行う部署は既に市街全体で散発している暴動や火災を鎮圧する為に出動し、手薄となっている筈だ……。
既に一隊の秩序が乱れ始めていた。人的な消火活動には限界が見え、誰もが当然の如く期待したスプリンクラーや防火シャッター等、防災設備の作動する気配が一向に見られない。これは件の様に、空港がサイバーテロに遭った事例と同様の仕業ではないのだろうか!?
隊員達が必死に大声を張り上げる。
「ビル内の自動火災報知設備は作動しないのか!?」
「火災検知システム自体の回路や電力を遮断されているのか……?いや、そうでなくとも、今迄の立体映像や立体音響を利用した妨害工作を断ち切る為に、通路上の監視カメラや音響スピーカーを破壊していった事が裏目に出たのかもしれん……!! 防衛上、セキュリティシステムが何重にも張り巡らされ、尚且つ代替システムも常備されている巨大な塔内の自動火災報知設備だ……。今回の様に前例の無い非常事態でも無い限り、本来は警備員や管理技術者達も24時間体制で勤務し常駐している。以前襲撃されたと言うヘッドギア生産工場以上の警備体制下、堅固に構築された中央監視盤を個人が短時間で掌握する事は容易じゃない……。検知システムの動力源が完全停止していなくとも、監視カメラや警報スピーカーの機能を麻痺させる事が出来れば、感知器に拠る火種の発見や対処は遅延させられる!
あれ等は単純な監視システムだけではなく、塔内の防災機能等とも多岐に渡って連動していたんじゃないか……? 本来であれば火の手が挙がる事前に温度感知機器や火災警報装置、排煙設備なんかの防災装置は自動的に作動し始める筈なんだからな……」
彼の考察は正鵠を射ていた。実際に塔内の中央監視盤から複雑多岐に連動させた超高層ビル火災避難シュミレーションシステムも、監視カメラが不能状態に陥っている以上は区画内の収容人数や人口密度、避難者達の特性を把握し誘導方法を検出する事が出来ない……。
豪火は益々の猛威を振るい、煙霧は通常視界、通常嗅覚を遮る程に充満し始めた。通路内の誘導灯すらも見当たらない状態に、隊員達の動揺は否が応にも煽られて行く。塔内に於ける各種消火装置が動作しない事を悟ると、隊員達は一旦の退避を案じ始めた。
「……おい皆! この案内指示は出たか!?」
隊員の一人が一帯の仲間達へ慌しく呼び掛ける。ヘッドギア内部ナビゲーション機能が塔内の建築設計、設備構造等の地形情報を基に多角的な演算を行い、適切な行動ルートを自動的に検出し指示案内を提示して来たのだ。塔内のカメラネットワークは麻痺しているものの、各所で奮闘する隊員達の主観映像を共有化させ、個々の火災発生現場を特定し俯瞰マッピング化させたらしい。
一帯で悪戦苦闘する隊員達のヘッドギア内部ディスプレイに光学表示された地図状の避難経路は、現状各所で散発している火災地点を巧みに躱しつつ、局所的な混雑も避け最終防護区画へと導いてくれる様に計算されていた。
隊員達が一縷の望みを賭け、固唾を呑んで俯瞰地図や避難誘導指示を凝視する。そして程無くして一部の者達からは、その案内指示に得心が行ったかの様な驚喜の声が挙がった。現場から離脱し一旦の退避を得られる要所……。
―それはゲートタワー中枢に位置する巨大エレベーターシステムだった。ゲートタワー内部では、防災機能の一環としてエレベーターシステムにも避難機構を導入させている。
『火災時管制運転システム』……。
ゲートタワー内部で稼動するこの火災時管制運転システムは、緊急火災時に於ける大勢の一般客達が引き起こすパニックや延焼等、二次災害を防止する目的で敷設された機構だ。エレベーターに使用される堅牢なドアは遮煙性を持ちつつ、火災時に於ける延焼や爆発等を喰い止める耐火扉の役割をも果たす様に設計されている。高熱を感知すると自動的に閉鎖される防火シャッターが設置されている上に、操作スイッチを『火災状態』と選択すれば即座にエレベーターは管制運転へ切り替わり、シェルター状の避難階へと直行する仕組みだ。
通路上に点在する高度感知機器類、防災設備等が麻痺させられたとしても、エレベーターシステム内に組み込まれている避難階迄は防御機能を損なわれていない筈だった。初めて扱う操作基盤だとしても電脳ネットワークから関連会社へとアクセスし、概要をダウンロードすれば適切な操作も即妙に行える。
エレベーター内部の防護区画へ活路を見出した隊員達は、言葉を交わさずとも相互に頷き合った。
そして意思統一が為された後、迫り来る猛火を背後に彼等は一団となって疾駆し始める。……大規模な面積を誇るゲートタワー内部と言えど、普段から訓練され健脚を誇る隊員達が命辛々に全力疾走していた。尚且つ、ヘッドギア内部が検出した最適な避難ルートを遵守し火災現場を縫う様に躱し続けている為、一切その進行を立ち塞がれる事も無い……。
程無くして最終的なシェルターが目前に現れ、隊員達は歓喜の雄叫びと安堵の溜息とを口々に挙げたのだった。エレベーター周辺に未だ火災の影響は届いておらず、外面的な損傷も見られない。そしてドアの内外で到着した群衆が一塊となって屯し、市街で熱気を溢れさせる雑踏の如く混雑は極まっていた。逸早く目的地へ到着した先頭の者達は、後続者達の興奮を横目に神妙な面持ちで肝心の操作基盤へと対峙していた。
隊員達の追い縋る様な注視を一身に浴びる中で、先頭者は震える指を抑え付ける様にしながら恐る恐る基盤への操作を試みる。初見となる操作基盤だったが、ヘッドギア内部の電脳情報と連動させている為に基本操作や手順を踏む事は意外と容易かったらしい。内外に於ける光学仕様の照明類や階数表示、操作スイッチ類は平常時と変わらぬ態勢で駆動していた。寧ろこの切迫した災害下で美観を保っている状態こそが周囲と対照的に浮き上がり、違和感を呈している程だ。隊員達はその正対した構図へ大いなる希望の光明を見出し、誰もが申し合わせた様に安堵の喜色を露わにさせる。システムが正常に作動している事も確認された以上は最早何等逡巡する必要は無く、即座に全員で避難階へと急行するのみだった。
或る一人が率先して機器類を操作すると、ほぼ間断無く蠢く様な震動音がエレベーター内外で微かに鳴り響く……。そして足元が微震しながら、ゴンドラが駆動し上階へと迫り上がり始めた。防火の役割も担う鉄扉が完全に閉じ、力強く上昇し始めたエレベーター内で誰もが自然と天井を見上げた後に、相互の顔を見合わせる。
そして間髪入れず、自分達の延命を祝福する拍手喝采がエレベーター内を劈いたのだった。
……誰もが一先ずの安心感に胸を撫で下ろし、歓喜にすら酔い痴れている。しかし、無事を祝う彼等の姿は余りに滑稽な痴態でもあった。未だ誰一人、その自身の不様さを顧みる者は居ない……。
兵士としての気概を喪い、唯一の楽園と充て込んだ避難階と言う名の鋼鉄の檻へ、自ら喜び勇んで踏み入った事……。安全と言う目先の餌に釣られ、脱出不可能なその牢獄へ、責務を放棄し自ら望んで踏み入った事……。
離脱した彼等が戦線へ復帰を果たす事は、あらゆる意味合いで最早有り得ないのだ―。
*
先陣を切るロイトフ一隊の許へ、或る二次報告が受信された。不甲斐無い事に、叉しても後続の隊員達が一個所で拘束を受ける事態が発生した、と言う急報だ……。
大所帯を牽引して来ているものの、標的が占拠している屋上へ到達する際の人数は現状よりも更に減少させられているだろう事をロイトフは予感していた。火災は鎮火させられたものの、又しても隊員達の大勢は巨大エレベーター内で閉じ込められた。件の隊員達は火災からの避難としてエレベーター内へ保護を求めた様子だが、その逃避は安全と引き換えに脱出不可能な檻へ閉じ込められたとも形容出来る。
緊急下に於ける心理的恐怖からか、彼等は敵の単純な誘導にも容易く乗せられてしまったらしい……。辛うじて本階との通信は可能な様子で、本人達の報告に由れば避難階の内部に何等かの罠迄は仕掛けられていない様だった。
その報告を受け、ロイトフは胸を撫で下ろす。エスは未だ人心、良識を持ち合わせた力加減を為していると考察出来た。エスがその気になれば、密閉されたシェルター内に殺傷力の高い罠を仕掛ける事も可能だった筈なのだ。容易く姦計に堕ちた隊員達へ対し侮蔑や失意の念も片隅に湧くが、まずは無事を喜ぼうと思い直した。
「ふんっ……。しかし防災設備を遮断し実際に火災迄を起こすとは……」
(巨大な建造物とは言え、エスは最上階に迄火炎が波及しないと高を括っているのだろうか? もしくは、最上階で脱出経路が断たれている事も全て理解し覚悟した上での攻撃なのか……。敵へ退路を残してはいるが、これでは自分自身の首を絞める事にもなり兼ねない捨て身の戦略ではないか……)
今では非常灯だけが燈る薄闇の通路で、ロイトフは思案気に立ち尽くしていた。エスは自決する以上に、我々と刺し違えようとするだけの決死な覚悟を駆り立てているのだろうか……。
―そんな胸中に捉われた折だった。
不意に残存していた希少な隊員達迄もが一斉に不穏な台詞を呟き始め、ロイトフを物思いから引き離したのは。
「な、何だ……、物凄い眩暈が……!」
「この耳鳴りは何だ……!」
「も、もう吐いてしまいそうだっ……!!」
突如として、隊員達全体が口々に体調不良を訴え始めたのだ。
ロイトフはその異状を目の当たりにし、まさか有毒ガス迄をも散布されたのかと危惧した。しかし、ヘッドギアに於ける防塵・防毒機能はまだ有効な筈だった……。何由り、毒性ガスであれば電脳が周囲の空気濃度を測定し、事前に警告音を発している筈なのだ。
その刹那、ロイトフの眼前迄へも明滅する映像が流れ始め視界全体を覆った。丸で前時代に流行し、その危険性を懸念され検閲対象とされたヴァーチャルドラックビデオの如きその映像は、直ぐ様吐き気を催す様な強烈な不快感を与えて来る。
ロイトフでさえも立ち眩んでしまう中、居合わせた隊員達はその眩惑に耐え切れず、その場で糸の切れた人形の如く昏倒して行った……。ヘッドギアの探知機能を用いなくとも、エスと思わしき第三者の気配は微塵にも感じ取れない。矢張り突如として各人の視界へ流入して来たこのドラッグ映像は、どこかで潜伏しているエスからの間接的な妨害攻撃と解釈するべきなのだろう……!
肉体へ直接的攻撃を被った訳ではないにも関わらず、余りにも呆気無く一隊が行動不能に陥った……。ロイトフは想定外の急角度な攻撃を受け、灰を嘗める様な屈辱すら全身へ込み上げて来る事を実感し押し黙る……。
(馬鹿な……。この程度の事で我々があっさりと敗北して堪るか……! 我々は世界に冠たる電脳未来都市インダーウェルトセインの中でも精鋭と謳われる法務執行者だぞ……!! エスをこの目で発見する事も叶わず、ここで容易く倒れ臥す事等絶対にあってはならない……!!)
周囲の隊員達が気息奄々と崩れ落ちて行く中で、ロイトフは独白とも付かない苛立ちを吐き捨てる。
「……この映像の正体は何なのだっ!? 何か対抗策が解る者は居ないのかっ……!?」
―期待を込めた訳では無い、一種自暴自棄な問い掛け……。しかし当て所の無い疑問の投げ掛けは思いの他、同様に現場で苦悶する一介の隊員が挙手し返事の一声を挙げる事で受け止められた。
誰もが不快感に耐え兼ね地面へと這い蹲っていたが、周囲の者達は縋る様な思いで彼へと首を擡げる。
その注視を受け武器類の知識に長けているらしいこの隊員は、切迫した声調で現在に於ける異状への指摘を為し始めたのだった。
「これは……、おそらく吐き気を催す波長で攻撃する次世代撹乱兵器です! このライトは常時色彩、波長を変化させた光パルスを発射し、標的へと不快感を齎す様に設計されています……! 不快感の発症に個人差はありますが、攻撃効果は見当識障害から眩暈、嘔吐迄へと及ぶものです!」
「成る程……! しかし、何か対処方法は無いのかっ!?」
ロイトフはその説明を受け慌てて瞑目しながら、打開策を引き出そうと必死に吐き気を抑えつつ意見を仰いだ。この現状で何等かの追い撃ちを掛けられれば、それこそ為す術も無く一網打尽にされてしまい兼ねない。不意に焦燥と恐怖が募り始める。
「光パルスの発射方法ですが、この兵器は距離計を使って標的となる人物の両眼迄の差を測定する必要がある筈です……。もしや小型化や携帯化がされているかもしれませんが、手動にしろ自動にしろ、この周囲のどこかには必ずその発射装置が設置されていなければならない。
それこそ、大勢を一度で仕留める為に複数台用意されているか、広範囲への攻撃用に特化された物が存在するか……。兎も角通路だけではなく、オフィス内に何者かが潜んでいるかも含めて精査すれば発射源や操作者も特定出来るかと……!!」
その台詞を受け、前方の通路に何等かの装置が隠匿されているのかと訝った各々が、熱源感知機能等の視界機能を駆使する。
―しかし縋る様な期待を持ち各種視界機能で周辺を透視してもこれと言った異物は発見されず、集音機能で何等かの機械が駆動しているか作動音の解析を働かせたとしても、異状は検出されない……。
各種機能を並行させ精査したものの、周辺からそれらしき機械物や操作主は捕捉されなかった。距離測定が必要ならば、視界を開放していても全力疾走する事で回避出来ないものだろうか? しかし眩惑に耐え兼ね通路を駆け出した隊員達迄も、将棋倒しの様に列を成して昏倒して行くばかりだった。
その時ロイトフは瞼の裏の暗闇で、ほんの一瞬見掛けただけである映像の内容を反芻していた。
(距離計や操作者が見当たらない……? パルスから距離間を前後させても全く効果が無い……?)
ロイトフは瞑目した暗闇の外で叫喚を聴いていた。耐え切れず眩暈を起こし倒れ臥す者、通路の片隅で嘔吐する者達の呻き声を……。
その時はたと察知した。
(いや、仮にこの撹乱兵器が目を逸らしたり距離間を変化させる事で回避出来る程度の威力だとしても、我々は当然にして常時ヘッドギアを頭部に装着している。
……そうか! 若しや発射装置や距離計、操作者等は現場に存在せず、ヘッドギア内部のディスプレイ自体に光パルスが映写されているのではないかっ!? この肉付きの仮面の庇護が叉も仇と成り代わってしまったのか、ヘッドギア内部のディスプレイ上そのものに妨害映像が侵入されているとすれば防ぎようが無い……)
ロイトフは思わず一帯へと指示の声を挙げた。
「ここに距離計や敵は居ないっ! 全ての視界機能を切断し、裸眼状態に戻すんだっ!!」
方々の放送用スピーカーを破壊しながら進行したとしても、自身で装着しているヘッドギアの視覚・音響機能自体を悪用されているとすれば最早処置が無い。周囲一帯の隊員達は自らヘッドギアを取り外し始めたものの一手遅く、全員が次々に倒れ臥して行った……。生命に別状は無いものの、累々と横たわる隊員達の惨状……。
ほぼ全滅だった。
*
―僕は最上階で独り篭城し続けていた。最終決戦を目前に控え、身を衝き動かす様な不安と高揚とが入り混じる。落ち着かない面持ちで一人、本来であれば都内の眺望を見晴るかす為に設えられた集団向けのベンチで座していた。
持参した機器類で塔内の監視カメラ映像を統合させ現場の動向を観賞していたのだが、現在では警察内で主導権を握るロイトフが逐一通路上の監視カメラや音響スピーカーを破壊しこの最上階を目指している様子だった。矢張り一筋縄では行かない相手だ。監視カメラの映像を元に塔内へ設置した妨害工作用機器を要所で発動させて来たのだが、既に遠隔操作での攻撃は呈を為さなくなっている。政府が僕達を巧妙に統治し始めていたヘッドギアに由る主観映像を逆用し行動を常時把握する事で罠を作動させても来たが、その頼みの綱も最早断ち切られた様子だった。
最もその監視機構が防災システムと連動している事をも逆用し、時限発火装置を各所に設置する事で撹乱作戦は上々の成果を挙げている様でもあるが……。
その矢先、広大なこの展望室でシドからの無線信号が微かな雑音交じりで反響し始めた。
「よう、元気かい?」
シドは修羅場の只中に居るとは思えない陽気さを湛え、そう挨拶を掛けて来た。不意に自分の口許も綻び、硬直し過ぎた心身が適度に緩むのを感じた。
「……ああ。そちらの首尾はどうだい?」
立て板に水と言った調子でシドは捲し立てる。
「展望室から夜景が見渡せるだろうが、この都市一帯が既に暴動のお祭りで大賑わいだぜ! デジタルマスカレードをも超える例年以上の集客力と熱気でな!! 警察は各所で発生している暴動を鎮圧する為に精一杯で、この騒乱は朝方迄収拾する気配を見せないだろう。そう、あんたが世界を揺り動かし、変革させ始めているんだ……!」
その刹那、重層設計の窓ガラスをも貫く様な轟音が鼓膜を劈いた。
咄嗟に両手で耳朶を覆う様に振り返ると、闇夜を突き刺す様な人工的な複数の光がこちらへ焦点を充てて来ている最中だった。そして、裸眼では正視し切れない程の光量に思わず目を顰める。細まる視界でも、その轟音と眩光を放つ物の正体は瞬時に把握出来た。
高空を飛翔する軍用と思わしきヘリの一群が、幾何学的な程に整然な隊列を為してこちらの高層ビル最上部を目掛け接近して来ていたのだ。
僕はその軍用ヘリの巨体から来る威容に圧倒されつつも、轟音に掻き消されまいと無線通信へ大声を張り上げる。
「シド、多分警察のヘリがこちらへ向かって来る……! 偵察なんて生易しいもんじゃあない、明らかに重火器で武装しこの最上階を爆撃するつもりなんだっ……!」
「武装ヘリだと!?」
驚愕の一声を挙げた後、暫しの沈思が無音となって無線通信を流れ、訥々とシドはその見解を紡ぎ始めた。それはヘリの駆動音に掻き消され掛ける為、僕は自然と無線機器へと近付き耳を欹てる。
「警察も基本的にはあんたを生け捕る事が理想だったんだろうが、最終手段としては矢張り現場での殺害も視野に入れていたんだろうな……。対人戦闘での捕獲や射殺が難しいと判断すれば、最終手段としてゲートタワー内部の損害も覚悟して大掛かりな爆破、爆撃をも強行する気構えなんだ……! テロへの鎮圧、防衛行動となれば正当性は持てるからな……」
僕は敢えて退路を断ち、背水の陣でこの革命に全てを賭けている……。今更自分自身の生命に保身を望む様な惰弱さは欠片も持ち合わせてはいない。しかし、この世界を一角でも変革せしめた、と納得出来るだけの確たる証を得る前に挫折する事だけは御免だった。
志し半ばで散って堪るか……! 肝心な問題とは、一般市民を扇動し体制側への打撃を与えられたとしても、その暴動が一過性の破壊で終始してしまうのか否かだ。
この闘争が次代への橋頭堡に成り得るか如何かを、僕は見届け責任をも背負わなければならない。この抵抗運動を民衆に取っての一時的なガス抜きで済まさず、建設的な創生へと向かえる様に……。人々が隷属的な歯車の一部品と堕さず、真の意味で生きる世界を実現させる様に……!
僕はその理念の為だけに全てを擲ち、捧げて来た。今こそがその理想を成就させる為に肝要な最終段階なのだ……。
進退窮まり、苛烈な程の焦燥感に内奥を灼かれ始める。生身の人間同士で対峙し戦闘の上で敗北を喫するならば未だしも、人工的な機械の圧倒的武力を前に呆気無く駆逐される……。そんな終幕だけは絶対に認めたくないのだ……!!
……そうして思い詰める中、僕を現実の注意へ引き戻すかの様に、シドの決然とした声音が雑音交じりで響き始めた。
「エスよ……。今からその無人ヘリの……、少なくとも半数の駆動は俺がハックして制御を行ってみようと思う……! 検索を掛けた所、ヘリは軍部の許可を受け正規のID番号を発信した機体のみが電波の干渉を受けず上空を飛行出来るらしい。
不慣れな操作なんでどこ迄対抗出来るかは解らないが、潰し合わせて戦力を減退させる所迄は何とか持ち込んでみる! 室内の奥まった場所へ避難しておいてくれ!!」
―そうだった、盟友よ。諜報戦、知略戦は最早彼が専任してくれている様なものだ。対人戦闘での決着を目前に出現した最大最後の支障……。軍事ヘリを排除する事が可能とすれば、今や彼の手腕以外頼みの綱はあるまい……。
*
ヘリ上部で高速回転する羽根が轟音を立て、数台が空中上を牽制し合おうとする様に行き交う……! 本来軍用機で在る筈の一群が二組に別たれたかの様に対峙し合い、攻撃へ移る為の間隙を相互に窺っているのだ。ヘリ数台の内、シドの宣言通り半数程度は彼が制御の掌中を収めた様子だった。それは恰も、機械的な形態を持つ昆虫同士のヒステリックな喧嘩の様相を想起させられる。
そして遂に旋回し続けていた複数の無人ヘリが制御を失い、お互いが向かい合うかの様に派手に衝突した……! 爆音の果て、火花を散らしながら星屑の様に地上へ墜落して行く機体達……!
その光景を茫然と眺める僕を横目に、残った一台は重火器から再三の銃撃を繰り出す。堪らず僕は窓ガラスから飛び退き、防備する為に内部へと転がり込んだ。相当な防弾ガラスで施された窓も敢無く銃弾の雨が貫通し叩き割られ、外壁及び内装迄が蜂の巣の如き惨状を呈し始める……!
「シド!!」
僕は、無線通信機器へと思わず縋り付くような叫びを挙げてしまう。
「待っていろ! この最後の機体を完全に支配し切れなくとも、干渉して何とかぶっ壊すっ!!」
シドも追い詰められた様子で、精一杯の返答を雄叫びの様に挙げた刹那、ぶっつりと通話音声は途切れた。息を呑んで窓外を見守ると、確かに最後の一機が不安定な挙動を見せ方向を見失った翅類の様に羽根をはためかせている。シドと軍部の人間がヘリ操作の実権を握ろうと凄絶な知略戦を繰り広げている事の証左だった。
止まり木を求め当て所無く彷徨う一匹の昆虫の様に、暫くの間中空を身動ぎする如く漂う最後の一機……。
先程迄残存していた機体群は高空で衝突させた事に由り粉微塵に大破して行ったが、最後の一機がこのまま機体を残し落下すれば地上へは更なる被害が拡大するだろう。しかし最早手を出す事が叶わず静観するしか無い現状、僕はシドが難敵を出し抜く事に期待を寄せる以外には無い……!
ふっと巨大な艦影が窓外を嘗める様に横切る。ビルの間際を掠める様に飛行している事で、ヘリから伝達される雷の如き轟音、嵐の様な強風は建物全体から自分自身迄へも劈く様な圧力を伴って、地鳴りの様に響いて来た……! 足元から腹の底に迄貫いた震動。本来それは、極く一瞬の時間経過に過ぎなかった……。が、本能的に危険を察知し、僕は慄然とした想いに駆られ肌が粟立つ事を感じた。
一筋の光明も射さない暗鬱な深海で、巨大且つ獰猛な生物が間近へ接近して来た様な……。超高層ビルの最上部に位置しながら、そんな生理感覚へと訴え掛ける様な畏怖を憶えたのだ。
不規則に旋回するヘリの挙動は丸でスポットライトの様に明滅し続け、僕はその眩い光跡に視界のやり場を喪い思わず片腕を庇に代える。
更にその様子を見遣り、瞬間的に僕は察知した。シドはヘリの完全な支配制御が不可能と悟り、苦肉の策として敢えてビル部分の一角へ機体ごと叩き付け破壊させてしまう腹積もりなのだ! たった一機でも戦闘状態へ介入された場合、重火器も用意したとは言えこちらが圧倒的不利に陥る事は明白だ。遠方で機器類を操作するシドは、僕の為にもこの軍事ヘリだけは再起不能へ持ち込みたいと必死で知略戦を展開させているに違いない。
……息を呑んで動静を見守っていると、実権を掌握し切れた訳では無いのか、もしくは軍事ヘリの機能自体が延々と続く異常事態に限界を来したのか、機体が急角度で落下し始める。
刹那、展望室から見遣る視界からすら機体全体が消失し、次の瞬間には硬質な窓ガラスや壁面が粉々に破砕される大音響が鼓膜を劈いた。
鋭角的な態勢で機体は背面部から高層ビルの外壁へ叩き付けられたのだろう。そう想像する瞬間には天井と足元、上下両面から大地震の如き震動に包まれた。
思わず窓際に駆け寄り外界を食い入る様に見詰めると、軍事ヘリの上体はビルの外面を跡形も無く破損させる様に捻じ込まれている……。反面、機体の下部は生気を喪った昆虫類の尻尾の様に、だらしなく中空へはみ出していた……。呆気に取られる様な衝撃に立ち尽くしていると、惚けている自分を追い立てる様に塔の内外から火の海が立ち昇り始めた事を察知し、僕は思わず後退る。
―シドは最大限の尽力を果たしてくれた。
だが爆破の中で重火器や攻撃用に改造した機器達も業火に見舞われ、素手で回収する事は最早不可能だ。最低限の護身用具だけでも装備したいかと思ったが、素人が使い慣れない武器を使用し逆に敵から強奪された場合は不利に陥る為、敢えて単身捨て身で在れとシドから厳命されていた。
唯一の例外、懐に秘匿させた奥の手以外は、だが……。
……程無くして、煤けた室内の門前に人影が立ち現れた。濛々たる煙霧の中で明確に浮かび上がらなかったその曖昧な人影は、徐々にその輪郭を帯び人間としての実在感を呈し始める。
何処か風格を湛え無言で仁王立ちする男は、積年の仇敵をやっと探り当てたかの様な、憤怒を滾らせた面持ちで僕を見据えていた……。
―僕は敵意を剥き出しにして来る相手へ、戦場と化したこの展望室とも丸でそぐわない芝居掛かった快活な調子を見せ付け丁重に出迎えの挨拶を告げる。
「……待ち焦がれたよ……。ようこそ、仮面舞踏会最終夜へ!!」
*
「貴様がエスか……!」
怒気を孕ませた声で僕を凝視する男は、傲然とその一歩一歩を踏み締めこちらへとにじり寄る。
「貴様は一体何を仕出かしたのか、事の重大さを理解しているのかっ……!?
貴様は思春期に掛かった麻疹の様な世迷い言で、永久不変に進行する社会の歯車を、完全無比たる循環を乱したのだっ……!! この世界の秩序を破壊した大罪は死を以ってしても償い切れるものでは無いっ……!! よもや、今更逃げ延びられる等と思ってはいないだろうな?
貴様は有無を言わさず死刑台と言う舞台上へ送ってやるさ……。
電気椅子へと座り、電流を流し込む為のヘッドギアと言う仮面を着け、末期の舞踏を踊り狂って死ね……!」
男は僕を世界中で最も醜悪且つ最も害悪な汚毒、とでも言う様に瞋恚を込めそう吐き捨てた。僕はその怨嗟に満ちた呪詛の如き台詞と直情的な視線を物ともせず、戯け口を利いて切り返す。
「初対面の挨拶にしては品格に欠けるものだな、カーマ警察庁長官、ロイトフよ……。今更その程度の脅迫で僕が怖気付くとでも思うのか? 自分の生命ならば、この短期間の中でも何度も賭け、修羅場を潜り抜けてきたさ……。
虚飾に満ちた舞踏会で仮初めの平穏に安堵し続けるなんて、滑稽劇の極みだよ。僕は装わない、予定調和の演劇等に加わらない。与えられた役割等に満足せず、無色から有色へ変わる……!!」
僕の反駁を前にロイトフは暫し無言を湛え、不快そうな様相を露わにして僕を見据え続けた。そして彼は閉ざしていた口を訥々と開き始める……。微かに聴き取れるその声音は丸で囁く様でいて、しかし地を這う様な威圧を伴う声音だった。
「吼えたな……。その信念が口先だけで終わらない事を見せてくれるんだろうな? 例え今から拷問じみた責め苦を受けようと、な……」
ロイトフは両拳を胸元に掲げ半身になった。途端に、ふっ、と周辺の空気が重厚な静謐さに満ち、冷徹さをも孕み始め一変したかの様な感覚を覚える。
その刹那だった。
僕の視界がロイトフの半身で覆われ、固められた拳が唸る様にこちらへと繰り出されて来る事に気付いたのは。
ロイトフは姿勢を崩さぬ侭滑り込む様に一瞬で間合いを詰め、手始めとなる攻撃を仕掛けて来たのだ。相手が遠距離に位置していると言う油断もあり、僕は彼の俊敏な接近に対して丸で反応を示す事が出来無かった。連撃を喰らう中、初めて脳裏で状況を理解し始めている程に……。
先程ロイトフへ反論した様に僕自身も何度か窮地を経験して来たが、もっと実際的な、肉体的な素手の暴力を受けたのはこれが人生の中でも初の体験と言えるかもしれない……。明らかに格闘技経験者と思わしき者からの苛烈な打撃を顔面に喰らい、頬や口内に灼熱の如き痛みが走る。その時点で一遍に意識が吹き飛ばされそうだったが、ここで立ち堪えなければ呆気無く全てを終結させられてしまう……! 奴はこれ迄の鬱積を晴らそうと、敢えて武器の類を持ち出さず素手で僕を嬲ろうと言う心積もりに違いない。
これは諜報や機械技術を用いない生身の人間同士に由る最終決戦、正真正銘の肉弾戦なのだ……! 足元が震え出す程の恐怖心……。だが……。
実力差は歴然としているが機械的な社会へ反旗を翻した僕に取って、現状の様に肉体的で原始的な決着方法は寧ろ何処か好ましさも感じられていた。現代では喧嘩は愚か、体罰すら非人道的で野蛮な悪習と見做される。家庭や学校教育で実際に肉体的苦痛を味わった者すら皆無なのだ……。僕が渇望していた、身を震わす様な、十全な感覚に包まれる様な恍惚、真の感情、真のコミュニケーション……。それはこんな、野生の闘争本能や激情を剥き出にした生身の人間同士による無言の衝突の内にこそ在るのかもしれない……。苛烈な打撃を喰らい窮地に追い込まれながらも、何故か僕は心の何処かでそんな歓喜を歌い始めているらしかった。
相手へ正対する事も叶わず、僕は踏鞴を踏みながら必死で前方へ両拳を振り回す。しかし不安定な姿勢から相手を見据える事も出来ず繰り出しただけの稚拙な攻撃が、百戦錬磨と思わしきロイトフへ当たる筈も無い。彼はあくまでも冷静沈着に、一連の攻撃を上半身を巧みに翻す事のみで回避し続ける。態勢を立て直そうと奮起し闇雲に突っ込んでも行くが、僕の必死な抵抗も敢無く空を切るばかり……。寧ろ放った攻撃の箇所から間隙を突かれ、的確な追撃を何度と無く浴びる始末だった。
そして短時間の内に、僕は力及ばず襤褸雑巾の様に砕けた地面へ叩き伏せられた。
……。
叉も遠退く意識……。
そして沈殿し行く意識下で、シドから事前に指導を受けた記憶が、脳裏の劇場で断片的に映写され始める。それは古惚けたフィルムの様に、曖昧に途切れ途切れに……。
蜘蛛の巣が張り閑散としたその記憶と言う名の劇場で、近く遠く反響する声……。
(……良いか? 小競り合いの様な喧嘩すら体験した事も無い一般人が、逮捕術としての戦闘訓練を受けた現職の警官と殴り合って勝てる筈も無い……。この短期間で体力や体格を向上させる事も、ましてや格闘技の心得を持つ事等も不可能だ。ここで特に留意して欲しいのは、素人が相手からの打撃を受ける際、必ずと言って良い程反射的に陥ってしまう状況にある……。
素人ってのは大抵、攻撃を一度でも喰らいそうになると態勢を屈め頭部を覆ってしまうんだ……。それは人間として自然な防衛反応の結果だが、実戦では寧ろ更に無防備な姿を晒してしまう事になり、
敵へ向かってどうぞ好きな様に料理して下さいと歓迎している様なものなのさ。半身になった姿勢を保ち人体の急所を保護する、これが戦闘に於ける基本中の基本で在り鉄則だ。兎に角打撃を喰らっても身を竦めない、硬直せず隙を与えないと言う事だけは絶対に忘れるな。
そしてもう一つ、これこそ難しいんだが、相手から掴まらない様に一定の距離を計る事だ。打撃以上に厄介なんだが、投げ技や関節を極められたら最後、素人では絶対にそれ等の技術から脱出は出来ない。
……もしも締め技を掛けられ抵抗に限界を感じた時は、最終手段として『あれ』を使え……。俺自身は使って欲しくないが、誇りの為なら止むを得ない、とあんたも考えているんだろう? それに関しては、今更あんたに覚悟を確認する事も無いだろうし、な……)
……。
閉じ掛けた瞼の裏側からでも、ロイトフが勝ち誇った様相で倒れ臥す僕を見下ろしている事は感じ取れた。息も絶え絶えな僕を小石の様に爪先で蹴り上げると、彼は矢張り忌々し気な調子でこう吐き捨てた。
「……貴様だけは簡単には殺さん。私自身の憎悪もこの程度では晴れはしないし、何よりも貴様が不様に逮捕され、裁判から処刑に至る様子迄を世間へと大々的に公開せねばならんのでな。そうでもしなければ、最早この社会情勢は収束を迎えられまい……。
そう、易々と逃げる様に死ねると思うなよ……。貴様はこの世界の秩序を乱した大罪を購う為に苦しみ抜いて死ねっ……!
予定されなかった仮面舞踏会への来訪者よ……!! 貴様と言う闖入者を排除して、舞踏会は永遠不変たる平安を取り戻すのだっ……!!」
ロイトフは心底からの怨嗟を込めて、半死半生の僕を躊躇い無く踏み付けた。途端に胸部や腹部に苛烈な痛苦が電撃の様に走り、圧迫される事で僕の呼気は更に千々と乱される。彼は見付け出した機械の不良品部分を憎々し気に破壊しようとする如く、思う様僕を踏み躙り続けた。容赦の無い責め苦が際限無く続き僕が苦痛に喘ぐ姿を見せる程、寧ろロイトフは愉悦が増すかの様により一層執拗に蹂躙の力を込める。
……僕は非常な悔恨の念を抱き始めていた。
と言っても、それはこの絶望的な窮地や暴力に由る苦痛、屈辱を感じての意味合いでは無い。政府へ蜂起し暴動の扇動者と成り得た事も、今こうして勝算の無い肉弾戦へ身を投じ被虐され続けている真っ只中だとしても、後悔等は微塵も感じてはいない……!
僕は只一つ、身動きの取れない状態へ至る前に即断即決しなかった一点のみを反省しているのだ。生き残り勝利を獲得し、その後に於ける社会の趨勢迄へも介入し見守りたいと言う展望が、寧ろ若干の保身に走らせる裏目へと出た。未来への意志が弊害を齎している位なら、直ぐにでも決行するべきだったのだ。
本来、当初から覚悟は揺るがずに定まっているのだから……。
―そして飽きる事無く延々と僕を苛み続けるロイトフだが、僕がその痛苦由りも何事かの思索に耽り、眼光は死んでいない事を察知した様子だった。
「貴様、未だ何か抵抗する意志が在ると言うのかっ!?」
睥睨し勝ち誇っていたロイトフは、未だ観念せず戦意を宿している僕の眼光に気付き一瞬のたじろぎを見せる。そして、奴は僕を踏み躙り続けていた足裏で或る違和を感じ取った様子だった。服の上からも微かに隆起を見せる、僕の腹部にある膨らみ……。
「……貴様、まさかっ!!」
そう驚愕の声を挙げるが早いかロイトフは一瞬飛び退きつつ、倒れ臥す僕の上着を剥ぎ取ろうと膝を突く様に迫って来た。簡単には奪取されない様にと、僕は駄々を捏ねる子供の様に稚拙ながらも必死の防御を続ける。しかし消耗した体力や態勢の不利からか、抵抗も虚しく直ぐに僕が秘匿していた切り札は剥ぎ取られた。
……そう、僕の後悔の一点とは、この切り札を適切な瞬間に用いられなかった事、只その一点のみなのだ……。
ロイトフは自身の予想が的中するもその内容に動揺を隠し切れていなかった。しかし逡巡に捉われ続ける暇は無く、ロイトフはそれを掌中に収めると投擲する為に遠方を探し四方へ首を巡らせた。
広大な展望室は本来全面が防護ガラスで覆われている。しかしこの現状に於ける最適な目標は、先程のヘリ戦で砕け散り外界の空気も激しく流入する窓ガラス一面だろう……。
―彼が必死の形相で放擲したそれは、僕が最終手段として腹部に巻き付けていた自爆用のスイッチ式爆発物だった。
*
先程のヘリの衝突と同等かそれ以上とも言える爆風が劈き、大震災の只中に包まれたかの様な震動から僕達は敢無く転倒させられた。
灰色の濛々たる煙霧は展望室全体に立ち込め、何かを燻したかの様な強烈な焦げ臭さは鼻腔から直接脳裏迄も突き刺して来るかの様だ。先鋭的な室内は以前迄の内装が想像出来ない程見るも無残に破壊され、調度品の類は跡形も残っていない。以前地下水路で機動隊に追い詰められ独力では為す術が無かった体験を教訓とし、進退窮まった際の最終手段を自分自身で選択していたものなのだが……。
……そう、勝算が無ければ、周囲の人間全員を道連れにしてでも自爆する心積もりは既に付けていたのだ……。
時機を見誤ったか……。当初から爆薬をちらつかせれば、仮に多勢で囲まれた窮地だったとしてもこちらが優勢に立つ事は出来た筈だ。素手では最初からロイトフに叶う筈も無かったが、その冷厳な事実を前にも独力で立ち向かってみたいと言う一種の挑戦心に抗う事が出来なかった……。
横目で見遣ると、爆発の直撃は避けられたものの衝撃の余波で吹き飛ばされたロイトフが瓦礫の只中で横たわっている。
彼は完全に意識を喪失した訳では無い様子だが、体力を回復し立ち直る迄に一定の時間を要するだろう事は察知出来た。そう情勢を見取った瞬間、はたと或る閃きが天啓の如く射す。
―僕自身も半死半生の状態だが、今こそが勝利を獲得する好機なのかも知れない……!
当初は政府の軍勢へ対峙する姿勢を大々的に見せ付ける事で、一般市民を扇動する事が第一義の目的だった。しかしそれ以上に現在こうして衰弱している警察庁長官ロイトフを人質として確保したとすれば……! 世間への扇動だけではない、政府に対等以上な駆け引きさえ持ち込めるかも知れないのだ……!! 全てが目論み通りでは無く想像以上の痛手も負ったが、代償を払っただけの対価は得られるかも知れなかった。
そして、丁度同様にロイトフもそんな後手に廻る展開を想像し危惧したのだろう。瓦礫の山から段々と這い上がろうとしつつも、寧ろ僕からは一定の距離を置こうとする様に初めて後退する姿勢を見せた。彼がこの場から逃走する事は有り得ないが、体力を回復し体勢を立て直そうとしている事は一目瞭然だ。
時間稼ぎを計らせまいと、反射的に僕は距離を縮めようと前方へ這い出る。ロイトフは僕の緩慢な匍匐前進にも警戒心を露わにし、先程迄の気品や威厳を金繰り捨て必死の撤退を見せ始めた。
静寂が戻りつつある空間で羽根を喪った昆虫の様に身じろぐ二人の荒い気息だけが、只淡々と反響し続ける……。それは両者共に余りにも鈍足で、何処かでは滑稽ささえも漂わせる追走劇だった。
……そして牛歩の追いかけっこをする内に、爆風の余波を喰らったロイトフは想像以上に消耗していたと言う事実が感じ取れる。
徐々にだが、僕はロイトフへ距離を縮めている確実な手応えを得られていた。僕が段々と詰め寄る事で、ロイトフが焦燥を募らせ更なる逃避を計ろうとしている事は物言わずとも背中で語られている。
出来る……、あのロイトフを後一歩で追い詰められる……!!
僕は思わぬ僥倖から来る勝利を目前に、湧き上がる笑みを抑えられなかった。
……しかし。その時だった。
相互が虫の息で地面を蠢く中、僕はロイトフ以外の第三者の人影を垣間見た気がし、不意に頭を擡げた……。
意識は朦朧としているが決して錯覚では無い。益々困惑は募る。数々の工作で足留めさせて置いた後続の兵士達が駆け付けて来たのだろうか? 脳裏で自然な推論が巡ったが、微かに視界の片隅を掠めたその人影は、一連の戦闘から廃墟と化してしまったこの場内とは丸でそぐわない。
煤けた戦場からは浮かび上がってしまう様な小奇麗な衣服、武骨な兵士の体格とは対照的な程に柔和さを帯びた輪郭……。
その人影が女性で在る事は明白だった。
「私よ、私が解る? 貴方……。ねえ……、何故こんな過ちを犯してしまったの……?」
遥か天空からこの舞踏を無言で観賞し続けていた満月が、僕へと誰何する声の主を足元から仄々と差し染める……。月下で照り映え出す彼女は、この骨肉相食む闘争劇とは全く場違いな程に華奢な肢体だった。機動隊の一員とも思えない彼女の細身とその洗練された衣装は、見遣る中で僕の驚愕を更に加速させる。
眼前の彼女は、まさか、僕の恋人、……!?
*
若しや政府が僕を懐柔しようと、説得役として彼女を抜擢し同行させていたと言うのか……。思考停止する僕の脳内へ、直接語り掛けるかの様に母性的な声音が反響して来る……。
「逢いたかったわ、貴方……! 私は貴方がこんな風に犯罪へ走る程、独りで思い悩んでいた事を何も知らず気付きもしなかった……。
一番身近に居た筈の私が……。そう、御免なさいと、それだけは言いたくて……」
普段は理知的な彼女だが、暴力が渦巻く現場に直面している為か冷静に徹し切れていない様子だった。俯きながら振り絞る様に吐露される台詞は所々でぎこちなく痞え、末尾迄は聴き取れないかの様に幾度と無く言い淀む。
「ねえ、今ならまだ間に合うわ……。警察の人も、ここで自首するならまだ温情を掛けてあげられる余地はあるとも仰っていたの……。
……投降しましょう、大人しく。
貴方はここ迄良くやったわ。只、気持ちを訴える方法が間違っていただけ……。
貴方の声はもう充分人々の許へと届いたのだから……。もう、ここでゆっくり休みましょう……、ねえ……」
その優美な声音はさながら深遠な眠りの糸口へ導く子守唄の様で……、休息と言う既に放擲した筈の甘美な誘惑で僕をあやし宥め付けようと語り掛けて来る……。
殴打された痛苦や心身の消耗、そして彼女から発せられる眩惑の催眠に由って、意識は段々と遠退いて行ってしまう……。
(……僕、僕は果たして目的を成し遂げたのだろうか……? 社会を紛擾させたとしても、この暴動が収束した後にはどれだけの人々が僕の理念に共感してくれるのだろうか?
社会に変革を齎す事は出来たのか? 街中で振り向かれたとしても次の瞬間には向き直られ、何事も無かったかの様に誰もが思い思いに散って行く様な……、そんな個人の一過性な叫びで終わっては丸で意味が無い……、意味が無い筈なんだ……)
双眸の瞼は、鈍重な緞帳が終幕を伝える様に気怠く降りて行く……。もう、ここで満足してしまっても良いのか……?
ああ、もう単純な言葉さえ思い浮かばず、何も考えられない、考えたくない……。
………………。
…………。
……。
……しかし、緩やかに閉じ掛け霞んだ視界の中で、僕は或る些細な違和感を覚えた。途絶えそうな意識は最後の一糸を以って繋がれ、限界寸前の領域で辛うじて保たれる。
彼女の白魚の様に繊細な左手の薬指には、僕が犯行を起こす以前に贈った交際一周年記念の指輪が律儀にも嵌められていた。女性へ更なる魅惑を与え彩ろうと、虹を想起させる様に七色の光沢を輝かせるその装飾……。
……実はその指輪の材質として使用されている天然鉱石には、見栄えだけでは無い特殊な機能性が秘められていた。僕は美的造形と言った外観的な理由だけでは無く、或る内意も込めてこの指輪を彼女へと贈っていたのだった。
……たった今、彼女の薬指に宿る宝石の色味は淹れ立ての紅茶の様に濃厚な紅褐色を放っている。
―僕がボタンを掛け違えたかの様な違和感を覚えた理由は、その一点に在った。
この現状で、『何故指輪の材質が茶色を主体に色付き始めているのか?』。当然、指輪の仕掛けに関して無知な彼女はその些細な変化へ気取られる事が無い。ヘッドギア内の電網上でも詳細に調べ上げなければ知り得ない専門的知識で在る為に、何の疑念も持たず自身の指へ装着させているだけなのだろう。
僕に取っては、その些細な変化の一点のみでも目を醒ますには充分な理由だった。靄掛かった暗雲の様な疑念は、一瞬にして圧縮され強固な確信へと変わる。
『……彼女は、僕の恋人では無い!』
容貌は瓜二つだが全くの別人だ!! この女は政府が僕を撹乱する為に用意した偽者に違いない。僕が予想以上の抵抗を見せて処理し切れなかった際、捕獲の為に彼女を出現させれば動揺を誘う事が出来る。あわよくば、巧言を弄し懐柔すら可能かも知れない……。そんな二重三重の計算を張り巡らせた上での投入なのだろう。
危うく篭絡させられる寸前だった事に恐怖心と憎悪が掻き立てられ、僕は憤った猛犬が牙を剥くかの様に堪らず吼え立てた。
「貴様は、誰だっ……!!」
途切れ掛けた意識の中で振り絞った台詞に、彼女本人ばかりか横手で片膝を突くロイトフにすら動揺が走った様に見受けられた。
「誰って、何を言ってるの。私よ……、わたし……」
―最早返答を聴く迄も無く、僕は眼前の女性へと向かい突進を掛けていた。今更この極限下に於ける修羅場でフェミニズムも何も在るまい、僕は躊躇せず右肩へ全体重を掛け、彼女を後方の剥き出されたコンクリート壁へと叩き付けた。
生理的に不快感を催させる様な、『ゴッ』!、と言う鈍重な衝突音が瞬間的に反響して途絶える。
……そして替玉の女性は、呻き声も無く気絶し重厚な壁を緩やかに伝い落ちて行った……。
奄々たる呼吸が収まるのを待ちつつ、僕は彼女の頭部から、外れ掛けたヘッドギアへ無遠慮に手を掛ける。嘗ての恋人だった女性の素顔は、僕自身も勿論見知ったものでは無い。しかしヘッドギア内部を操作すれば簡単に表示される個人情報からして、矢張り彼女は僕を撹乱させる為に用意された全くの偽者で在る事は明白だった。
息も絶え絶えながら徐々に自力で床から這い上がるロイトフは、おどける様な調子で賛辞の声を挙げた。
「よく見破ったものだな……。衣服や装飾品は貴様の恋人本人から拝借し、身長や体型、雰囲気迄も貴様の恋人と酷似した女性警官を起用したんだが……。その上に声紋変換機器を通す事で、本人と全く同様の発声、発音迄も再現していた筈なんだがね……」
「仮面を外してからと言うもの、五感が効く様になってね」
僕は機知を利かせた返答を為し、悪戯っぽく微笑んだ。
最終的には自身の直感を信じたのだが、僕がまず彼女を偽者ではないかと言う疑惑を持った根拠は、その嵌められていた指輪の特質に在った。
「彼女へ贈った指輪の名称は『ブラックシリカ・リング』……、別名『トゥルー・リング/フィー・リング』とも言ってね。只単に七色に輝き美しいと言うだけの装飾品じゃない。
その鉱石の中に含有されている液状化水晶は装着者の体温や汗腺から発せられる微細なエネルギーを感知し、その感情の起伏に由って主体となる色味を変化させると言う自然的特性を持っているんだ。この指輪は高齢者が体調管理の為に購入したり、精神科では心理鑑定として実験的に使用されると言った特殊な事例も在る。
そして『ブラックシリカ・リング』が茶色へと変化した場合、その色彩は『不安』、『緊張』、『嘘』と言った疑心の体系を象徴しているのさ。
彼女も僕を必死に騙そうとする事で内心では相当焦りが生じたんだろう、薬指の指輪は一際濃厚に茶褐色を示していたよ……。
上手く僕の元恋人に似た偽者を用意したんだろうが、指輪に込められた僕の意図迄は気付かなかった様だな。ヘッドギアの名称・詳細表示機能でも『ブラックシリカ』に於ける情報は工業生産品、と言った外面的な知識しか表示されないだろうしね。
―そう、つまりこれは僕が仕込んだ天然の嘘発見器だったと言う訳さ……。残念だったね、ロイトフ……!」
ロイトフが平静を装い切れず、出し抜かれた事への不愉快さを全身から漂わせている事がこちら迄伝わり来る。
しかし全く以って謀られる寸前だった、まさか偽者迄も作戦に投入して来るとは……。
仮に僕がこの女性が本物かどうか疑念を感じ何等かの質問を重ねた所で、会話の内容そのものだけでは真実を見極める事は困難だったろう。
姓名、誕生日、血液型、住所等、外面的な基本情報等全て把握している事は当然として、更なる私事から来る個人情報さえヘッドギアの電脳に全ては保存されている。もし僕から当事者にしか知り得ない筈の記憶や体験から多角的に質問したとしても、この政府の手先は電網上の検索エンジンから該当する情報を抽出し、恰も全てを見知っている張本人かの様に的確な返答を為していた事だろう。
―しかし目論みは看破した。
予てから自身の内奥で付き纏っていた懸念……。別人を装える事も可能なのでは、個人を記号化させてしまうのでは、と言うヘッドギアへの疑念が正にここで実現した事を悟り、恐怖感が具体性を帯びて段々と背筋から四肢へと伝わり行く。と同時に、自分自身の社会へ対する疑念や主張の正当性……、何由り自分自身の価値観に於ける過去の行為も基にして敵の正体を看破出来た事に、僕は後押しの様な確信も得始めていた。
矢張り、僕は間違っていなかった……。
例えばヘッドギア機能が更なる発展を遂げれば、他者との対話すら全自動的に図られる時代が到来するかもしれない……。そんな風に、僕は未来に於ける社会的コミュニケーションへも相当の危惧を抱いていた。
誰もがヘッドギアに覆われ表情一つ読み取れない以上、他者の心情を推し量ろうとすればどうなるか。結局は会話の内容そのものや、本人の声音から感情の機微を感じ取ると言った感受性的な解釈に委ねる他は方法が在るまい。
しかし今回の様に声紋変換機器を利用した上で、もしも先鋭的な人工知能技術が実装され流暢な発声、対話迄が機械的に、他律的に為されるとしたらどうだろうか?
例えば或る話題が上った瞬間、即座に電脳内の人工意識が認知し内容を判定、電網上に於ける情報の大海から関連する知識を走査し抽出させ、適切な返答の台詞迄も自動生成し、今後に及ぶ会話の方向性迄をも決定付けて行く……。尚且つ人工知能へ搭載された擬似感情表現システムに由って、本人の口頭にすら頼らず自動的にヘッドギアが喋り続けるとすれば……?
日常会話すら自意識に拠らず、人工的に形成された模範人格が代理人として取って代わる……。精妙な人工知能技術を高度なコミュニケーションツールとして機能させ、今迄の社会生活以上に益々主観を奪われて行く民衆。そんな保身に満ちた処世術が社会的に実現される事迄も想像し、僕は独り畏怖を抱いていた。
そんな強迫観念に囚われていた僕は常時相手の本音こそを感じ取りたいが為に、最愛である筈の恋人へ敢えて意図的に『ブラックシリカ・リング』をプレゼント用に選択したのだ。
内面の起伏を示す指輪を彼女へと贈る事で実直な反応を観察したいと言う、一種では邪な実験的願望だったかもしれないが……。ともあれ、矢張り政府の実効力は僕個人の妄想や疑念の範疇で終始せず、現実化可能な前段階迄至っていたのだ。
僕は、僕は矢張り何も間違っていなかった……!
無常の喜びを噛み締め、暫し恍惚に包まれていたい心境すら込み上げて来る……。……但し、無論の事ながら僕自身の劣勢は完全に覆された訳では無い。僕は気を引き締め直し実直な目でロイトフを見据え直した。
闖入者を排除する事は出来たものの、手練たるロイトフとの対峙は今からこそが本題と言える。用意した替玉も土壇場では通用せず、都市の象徴とも言えるゲートタワーは一連の抗争に由る被害で壊滅的な惨状を呈しているのだ。思い描いていた一方的な私的制裁や逮捕の構図すら描き換えられ、彼の憤怒は最高潮へ達しているに違いない……。
―そんな考察が巡る矢先ロイトフは間髪入れず、殆ど自我を喪失した猛獣かの様に憤然と僕目掛けて襲い掛かって来た。先程の洗練された駿足の駆り方とは対照的な野性的獰猛さを前に、僕の身は竦み上がって仕舞う。
……そして、痛烈な打撃を受け、眼前の視界が白い闇に包まれる。数瞬の間コマ送りになった様な視界の中、意識が前後不覚へと陥る。
自分は何者なのか、ここは何処なのか、何をして居るのか……。殴打された衝撃や熱味を帯びた痛みが迸る前に、途切れ掛けた精神の侭地面へと倒れ臥す。
息も絶え絶えに成りながら天井を仰ぎ見る。揺らぐ視界。
もう、ここ迄なのか……!? 立ち上がる余力を奪われ遠退く意識の中、観念しない迄も自分の意志や反抗が挫かれた事に言い知れぬ敗北感と挫折が脳裏に漂った。
全ては無駄な悪足掻きだったと言うのか、無意味だったと言うのか、今度こそもう終焉なのか……?
打ち砕かれ放心状態の侭で倒れ臥す中、暫くすると何かを諭す様な、静穏で柔和なロイトフの声が室内を反響し、鼓膜へと忍び込んで来る。
―何だ?
彼は僕に止めを刺す訳でも無く、拘束しようと敏速に立ち働く訳でも無い。
僕の疑念を他所に、ロイトフは訥々と、しかし一語一語を噛み締める様に語り始めた……。
「……聴こえるか、エスよ……。何故貴様は世界を破壊してしまったんだ……。この世界は、人類の理想を体現していたのにも関わらず……。
その昔、人心は疲弊し、社会はコミュニーション不全に陥り閉塞していた。貴様も知っての通り、旧時代に救世を成し得たものは人間の個性を隠蔽しあらゆる最先端技術の恩恵を授ける宝具、ヘッドギアだ……。
『万全たる教育制度、政治制度、社会福祉制度。最高水準を更新し続ける就学率、就職率、経済力。犯罪発生率も極少たる治安、最先端を推進する高度科学技術、環境保護も考慮しながら洗練され利便性に富んだ都市空間……。世界の理想を体現する電脳未来都市、インダーウェルトセイン……』。
何等かの精神障害や身体的障害を被り底辺で冷遇されている者達に取って、全てを画一化し平等性を齎せてくれる機構の到来は願ってもいない幸運であり広益だったのだ。恒久の安全と平和が実現された事で、漸く太陽の下へ歩み出る好機を得た、そんな日陰者達も居るのだよ……。
……そうさ、この俺の顔も……。……見ろ……」
―ロイトフは意を決した様に、自身のヘッドギアに手を掛け素顔を披瀝した。
……横臥した状態の侭、僕は絶句した。
他者の外貌を見慣れていない為に自然と関心を惹かれ注視する事も当然なのだが、僕が息を呑んで彼の容姿を凝視し続けた事にはもう一つの理由が在った……。
ロイトフの顔面は、全体が挫傷で覆われていたのだ。
「俺は生来この顔で生まれ落ちた……。最先端の医学技術でも完全な整形は不可能だと見放され、電脳仮面制度の基、素顔が社会生活上の欠陥に成る事は無いと判断されこうして今迄生きて来たのだ……。
俺は一人鏡を覗く時、余りの劣等感と絶望感に打ちのめされそうになり、心底から自殺を考える。そして同時に、素顔を秘匿させてくれる現代社会の成り立ちへ心底から感謝の念も抱くのだ……!
もし素顔で社会生活を送る事が余儀無くされていたとしたら、矢張り俺自身も前時代の病者達と同様に家へ引篭もり、絶望に打ちひしがれた侭ひっそりと一生を終えていたに違いない。
コンプレックスの塊だった俺は必死で自分自身を取り繕う様に、世間からも付け込まれない様に、誇れる物を得る様に、あらゆる努力を払い続けた。そして、ここ迄の地位へと登り詰めたのだ……。
―只、輝かしい程の業績や地位を得た今でも、時折不意に言い知れない程の不安や恐怖に襲われる。
もし、いつか自分の素顔を覗かれる日が来たら……、只管に隠して来た過去やコンプレックスへ光が充てられる日が来たら……。そんな風に、皆が俺を指差し嘲笑する悪夢に怯えてどうしようもなく震えるんだ。
俺は顔を晒す世界が怖い。美醜で人間を評価する社会が、人間の心が怖い……。只、只々怖い、怖いんだ……! 何もかもが怖いんだ……!!
解るか、エスよ。俺の様な病弊や障害を持つ大勢の者達は、ヘッドギアの存在に由って救われたんだ。
コミュニケーション不全や差別問題のみでは無い。
ヘッドギアの高機能性を活用すれば、例えば目の不自由な者達への視力補助、聾唖者へ対応した音声化ソフト、外国人と会話する際の自動同時通訳と、あらゆる社会問題や医療福祉に迄援用出来るのだ……。
このヘッドギアの恩恵を受け差別や犯罪は社会から一掃され、世界は磐石な平和を形成した。
過去、人類は常に相争い、差別や紛争は必ずどこかの地域で発生し片時も止んだ事は無かった……。現代の我々は、歴代の敏腕政治家や独裁者の手腕、あらゆる主義、制度、運動でも成し遂げられなかった平和的な統治を実現している。
―我々は、具現化された理想郷の中に住んでいるんだよ……。
解るか、エスよ。万人が平等の下で、平和を享受していたのだ……。お前はその完全な秩序を崩壊させた、旧時代的な逆行した価値観へ民衆を引き摺り込もうとし混乱させた。この罪は差別主義の再来として、筆舌に尽くし難い程に重い……」
ロイトフの声が鼓膜で反響し続け、僕は二の句が継げずに横臥し続けていた。彼の様な高名な指導者にも、葛藤し喘ぐ程のコンプレックスを抱えていたとは……。彼の唐突で切実な自己告白に僕は面食らっていた。
……しかし。
一指も動かせない程に疲弊し、今にも深遠な眠りへと堕ちそうな途切れ掛けた意識の中で、言い知れない反感の芽が僕の胸中で息衝き始めていた。
彼が苛烈な劣等感を抱かざるを得なかった先天的な傷、生い立ちには惻隠の情も湧く。そして、そんな宿命へも諦念を以って受け入れず、直向きな研鑽を重ね立身出世を体現して来た彼のこれ迄の人生を想像し、一定の敬服さえも憶える点はある。
だが……。深奥の何処かで、全てを承服し兼ねる反論の種は芽生え、潰える事は無かった。
(……何故だ? 何故虚心に耳を傾けられない? 自分でも、理解し切れない……。ロイトフの不遇な生い立ちには同情の念も湧く。彼と同様に何等かの不幸で喘ぐ者達の為にも、その主張は非の打ち所の無い言論に想えるのだが……。それでも手放しでは賛同出来ない、この胸が疼く理由とは一体……?)
極限の状況下や心身の消耗、突発的な告白に動揺しているせいもあるのか、如何にも思索が纏まらない。低下している思考力の中で、僕は必死に言の葉を紡ごうとする。自分自身でも把握し切れないその反駁の根源とは、一体何なのか……?
その違和感が原動力と成り得たのか、僕は漸く朦朧とした意識の中で這いずる虫の様に身動ぎをし始める。一連の戦闘に由って靡く煙霧が錆の様な苦味を伴って鼻腔を擽り、半壊した窓外から吹き付ける強風は衣服を軽くはためかせていた。既に全体が煤けた床面へ片膝を突き、僕は何事かを発しようと必死だった。気息奄々たる状態で、咽喉を振り絞る様に心底からの衝動を吐き出そうと……。
それは途切れ途切れで、自分自身でも判然としない侭紡ぎ出される言葉だった。
「……違う。この社会の現状は、差別を隠蔽しただけだ。差別心が無くなった訳じゃない。人々は安易に同化し、均質化して行ってるだけなんだ……。個々の個性は無く、共同体と言うよりも、癒着した一塊に成り果てている。
体制に組み込まれれば、誰でも自己は埋没して行くんだろう……。
しかし、現代の人間は自我そのものが希薄に貶められて行っている。記号に陥り歯車に堕する事で自他の区別も曖昧な今の僕達には、生の実感が丸で無い。自分が何者なのか、その根拠や自信を得る為の過去の蓄積も無い。愛憎のどちらも強く味わう事が無い、何かに懸命に成る事も無く、夢も生き甲斐も持てない、充実を知らない虚無的な生……。温室で生育される植物の様なこの静穏さは……、本当は死人と変わらない。
―僕は取り戻したい、喪失していた、人間としての感情と言うものを……!
僕はこれ迄の犯行で自覚したのさ。僕にはこの短期間の内に、今迄の人生の時間を全て凌駕してしまう様な、凝縮された体験や出会いが在った。逮捕される事を覚悟で起こした通り魔から……、世界を敵に廻し底辺を這う様に逃亡生活を続けた事、そして僕の主張に共感してくれた者達の助けと……。
禍福無く過ぎる安穏由りも自身の想いを賭した冒険の方が、未来が無くともずっと素晴らしかった。そして追い詰められる中でも、だからこそ真の充実した生の中に居たと想える。
―僕はその瞬間を疾走する様に生き、瞬間に燃焼していた。自分で疑問を感じ始めた。自分で夢や理想を持った。自分を獲得したいと想った。社会へ問題提起する為に、自分を変える為に、誰もが躊躇する危険を冒した。確かに倫理的には犯罪とされる行為の数々にも手を染めたろう。しかしそこで湧き上がる罪悪感も含めて……、僕はその時から初めて生の実感に満たされ、世界の真実に触れていた気がする。
―そして気付いたんだ、痛みも又生きている証だと言う事に……」
―そう、そうだったんだ。澱の様如く沈殿していた蟠りの正体を看破し、自分自身でも霧が晴れたかの様な明解さを得られた。僕がどうしても納得し切れない何か、と言う反駁の根拠とは、正にたった今吐き出した台詞へ全て凝縮されている。苦痛とは只、忌避する以外に他は無い様な無価値、害悪とは限らない筈なのだ。人間には苦痛を源泉にしてこそ獲得出来る価値も無数に在る。痛みを知る事で生まれる誰かへの思慮や情愛も、何かへ直向きな努力を重ね何時しか得られる自分自身への誇りも……。
……そして。僕は虚心坦懐な眼差しで彼を見据えた。
思わぬ急角度からの抗弁と疲弊しながらも眼光だけは喪わない僕の一本槍な視線に射抜かれ、ロイトフは狼狽し声を荒げた。
「差別心や闘争心は人間の本能だ! 決して未来永劫消滅したりはしない! 俺の様な生まれ付いての傷物なんて誰も愛してくれるものかっ!! エスよ、昔は両親からの愛さえ受けられず、迫害され虐待され続ける者達も溢れる程存在した。愛さえも選別で在り、差別なんだ……! その真理を悟った時、俺はもう人間は終わりだと理解してしまった。人間はどこ迄もシステマティックに規制し管理しなければならないんだ!
もう人類は、全てに疲れ果てているんだよ……」
それはロイトフが発した本心からの叫びだったのだろう、彼は始めて人間らしい表情を露わにし、身を戦慄かせるかの様に激しく慨嘆した。
……しかし僕は毅然さを崩さずその憤慨へ受け応える。
「異質な物を排除し、全てを平均化させる事が平和なのでは無い。それも叉一つの独裁なんだよ……。
異質な個性や主義、価値観が在ったとしても、相互が違うと言う事自体を受け入れ認め合える事……。違うと言う事そのものを有りの侭認め合える社会を形成出来た時こそが、差別を克服し人間が真の平等を獲得した時なんだ……!!
あんた程の手腕を持ち、人間としての痛み、哀しみを知っている人間なら、この意味を理解した上で真の改革が為せる筈だぜ……、ロイトフ……」
「うるさい、黙れ、黙れ、黙れ……!!」
理知的で風格すら漂わせていた第一印象とは打って変わり、今の彼は丸で駄々を捏ねて喚き散らす子供の様に見受けられた。その異形な様相は、それだけ僕が唱えた異論が彼の核心を突いたと言う事を物語っている……。
僕の指摘から頭を覆わんばかりに狂乱する彼は、耳障りな反論を挙げる僕の弁舌を止めようと脇目も振らず傲然と直進をし始めた。錯乱状態に陥っている以上、素人の僕では益々手に負えない事は言う迄も無い。
しかし僕は昂然と胸を張って対峙する。叶わない迄も、最後の一太刀を浴びせ少なくとも前のめりで倒れるだけの気概を見せ付けたいと、何処かでは静穏で達観した心境だった。
―そうして散り行く覚悟を定めたその瞬間、僕は末期に及んで室内の異状を察知した……。
最早常軌を逸し狂乱するロイトフの背後で、暗闇の中で陽炎の如く揺らめく人影を見て取ったのだ。
*
ロイトフの背後で踊る人影は何者なのか? ……シドの救援? いや、彼の現在位置からすれば距離差、時間差としては有り得ない……。叉も背後に出現した、女性の輪郭を帯びた人影……。
先程気絶させた偽者がもう息を吹き返したと言うのか!? それとも、僕自身が既に心身の限界へ至り、朦朧とした意識から幻覚を視ているのか……。しかし視界の片隅では、未だ壁際で偽者の女性は昏倒した侭だった……。だとすればこの人影は……。僕には直感出来た。
気絶した偽者では無い!
彼女だ!!
紛れも無い僕の恋人、だ……!!
現状を認識し切れず僕は呆気に取られ後方を眺め続けていた。ロイトフは、決着を確信したかの様に毅然と僕へ歩を進める。その一歩一歩は恐ろしく緩慢な速度に感じられ、しかし近付くに連れ恐怖の色合いを増す様に反響する死神の接近を告げる足音だった。僕の放心状態を睥睨し、彼は安堵の喜色を浮かべている様にすら感じ取れた。僕が完全に観念しない迄も最早心身共に限界を来たし、糸の切れ掛けた人形の如く呆然自失としているとでも解釈したのだろう。事実、僕の体力は疾うに底を尽き身動きする気力も失い掛けていた。もう数度でも強烈な打撃を喰らえば意識は刈り取られ、為す術無くその侭敗北の眠りへと就いてしまうだろう……。
しかし、この期に及んで僕が余所目に気取られているとは、流石のロイトフも未だ気付いていない。背後の人影は気配を殺す様にロイトフへ追随し、不意打ちを掛ける為の間合いを計ろうとしている。
彼女の華奢な両手には、不似合いな程に武骨な得物が握られていた。きっと先程の爆破騒動で散乱した建築物の一部から拾い上げた物だろう、硬質な鉄パイプ……。彼女は御し切れない重量の為か、両手に携えた鉄パイプを殆ど床面へ舐めさせる様な状態で引き摺らせている。
彼女の両手は生まれ立ての子犬の様に、畏怖を湛え震えていた。重量に耐え兼ねているだけでは無く、まだ暴力への躊躇が滲んでいる様にも見受けられる……。ともあれロイトフが間近へと迫って来た瞬間、矢張り僕の意識の主眼は彼に移った。破れるにしても、自身の矜持を示す一撃だけでも見舞って倒れる心積もりだった……。しかし予想外の異変へ気取られた事で心身共に準備も出来ず、思いの他ロイトフは打撃の間合い迄接近して来ている。
この侭ではせめてもの意地を見せる反撃すら出せず仕舞いの侭、こちらが意識を根絶させられる打撃を喰らい雌雄が決してしまう……! 危機感は募るものの、高負荷の重力に支配されたかの様に僕の身体は愚鈍そのものだ。
不味い、喰らう、全てが終わってしまう……!
僕の焦燥を他所に、ロイトフは僕の息の根を止める最後の鉄槌を冷徹に振り翳す……。奴の拳がめり込んだ次の瞬間には、僕は苦痛を感じる暇も無く深淵な闇へと堕ちて行く……。
しかしロイトフが終止符を打とうと拳を振り上げた動作へ呼応するかの様に、背後の彼女は意を決した、と言う様な一種の息みを見せた。
一閃、彼女は自力で最大限迄振り上げた鉄パイプを、次の瞬間には重力へ任せる様に振り降ろす!
ゴッ、と生理的に不快さを喚起させる様な鈍い打撃音が鳴り響き、眼前の敵の事ながら思わず僕は顔を顰めた。
不意の痛烈な衝撃に堪らず両膝を突くロイトフ。そして反射的に後頭部を両手で抑え込む彼を見下ろし、彼女は渾身の力で追撃を加えようと振り被る。しかし鈍器の重量、女性故の非力さ、不慣れな暴力の為にその動作はどうしても遅々としてぎこちなかった。
状況を理解し切れず苦痛に眼を剥いていたロイトフだが、その間断の中で直ぐに気を取り直す。そして次の瞬間には自身を庇う素振りさえせず、即座に彼女へ両手を伸ばし易々と捻り上げてしまった。
矢張り奴は並大抵の者とは器量が違う。
しかし彼女の出現に呆然自失としていた僕だが、我へ返った後にはその間隙を見逃しはしなかった。ロイトフを仕留める千載一遇の好機だと分析する以前に、本能的に身体が動き出していた。
もう形振り構ってはいられない。眼前の強敵を倒し、組み敷かれる彼女をも救わなければ……! 言葉にならない野獣の如き咆哮を挙げ、僕は眼前の標的へと突進していた。
疾駆する中で狭まって行く視界……。
叉もコマ送りの様に過ぎ去って行く周囲の風景……。
その切り裂く風の中で、僕は無我夢中で『何か』を探していた、と思う……。
思考が纏まり言語化される以前の本能的な衝動、理解の枠外。
そして、僕は『それ』だと把握した上で掴んだ訳では無いかも知れない。獣としての衝動に支配され突進する僕は、横手で無造作に放置されていたその固形物を、具体的には何なのか判然としない侭、如何するか自分自身でも想像しない侭で拾い上げた気さえする。
僕は片手で引っ掛け上げたそれを、腕が千切れんばかりに最大限の膂力でロイトフの頭蓋へと叩き付けた……!
生理的に不快さを催す衝突音が叉も鼓膜を劈く。
……。
……乱れる呼吸の中、僕は放心した状態でその光景を見下ろしていた……。
床面に両膝を突いた彼女の許へ、しな垂れ掛かるロイトフの肢体……。彼が頭部に負った剥き出しの傷からは、生々しく深紅の鮮血が迸っている。夥しい流血は首から制服へ伝い始め、意図せずして彼を支える格好となった彼女の純白の衣服から床面迄をも染め始めていた。
僕を圧倒していたロイトフが、このたった一撃で眠り落ちたかの様に失神しているとは……。
暫しの放心状態からふっと我に返り自分自身の右手をまじまじと見張る。
そこで初めて自覚したのだが、周辺に転がっている物を無我夢中で拾い上げ僕が兇器に変えた代物とは、ロイトフ自身のヘッドギアだったのだ……。
彼が信仰し、崇拝し、実存すら依存させたその道具を……、彼の全人生を象徴する庇護と虚飾に満ちた仮面その物を、彼自身への素顔へと叩き付け、僕は勝利を手に入れたのだった……。
*
しかしロイトフを倒し余韻に浸るのも束の間の事だった。これ迄の人生で体験した事も無い様な他人の重傷を前にして、僕は再度我に返り始める。後から段々と込み上げる一抹の良心の呵責。
彼女も、僕へ何事かを語り掛けるよりも先に怪我人への応急処置を施そうと動転していた。先ず素人療法ながら出血を最小限に喰い止める為にと、彼女は躊躇せず自身のスカートの一部を剥ぎ取り、包帯の要領で彼の頭部へと巻き始めた。反旗を翻した体制側の要人でありここ迄の死闘を繰り広げた仇敵と言えど、何も生命迄奪う意思は無い。別状が無ければ良いのだが……。
そうしてロイトフの容態を案じていた最中、僕は彼の些細な異変を見て取った。意識は喪失した侭なのだろうが、ロイトフの顔から拭い取った流血の下……、一筋の悲痛な涙が染み出る様にゆっくりと頬へ伝わり落ちて行く様を……。
僕は暫し無言を湛える。そして僕は、彼がこれ迄に於ける人生の中で誰にも告白出来ず抱えて来た葛藤や煩悶を想像し、抱き締めるような気持ちで呟いた。
永遠に癒えない、生まれながらに背負った彼の痛手の為へと祈りながら―。
「解るかい、ロイトフ……。仮面を被り続ければ、泣き顔を隠し通す事も出来るだろう。しかしこうして、自分以外の誰かがお前の涙を拭ってやる事も出来ないのさ。そして何より、お互いが微笑み合う事もね……」
今は只、安らかに眠りへと就いていてくれ……。僕はそっとロイトフの両眼に伝う涙の雫を拭う。
……すると彼の乱れた呼吸は徐々に収まりを見せ始め、程なくすると丸であやされた赤子の様に安らかな寝息を立て始めた。それは丸で何かの呪縛から解放され、母親の腕の中で深遠な安堵を得たかの様に……。
医学に関しては丸で素人である自身の所見だが、この様子からすればもう彼が大事へと至る様な心配迄は要らないだろう。
僕は漸く胸を撫で下ろした後、きっと噛み締める様に内奥から湧き上がる声へ傾注した。
―きっとそうだ、僕はこう信じたいだけなんだ。
痛みで眠れない夜もあれば、痛みを伴って初めて何かに目覚める夜もある……。
痛みは何れ糧にも成れば、導きにも成り得ると……。
そして何由り、そうして生き抜くしか無い筈なのだと……。
*
ランドマークたる高層ビル内が炎上した事故を受け、内部の人間達も大方撤収し始めた様子だった。大勢の関係者達が避難を完了させた事で塔内の人気は希薄に成り行き、何時しか室内は禅寺の如き静謐さに満ち始めていた。
……最高層に位置するシティビューには、僕達二人きりだ。
砕け散った硬質ガラスの窓際から下界を見遣るに、機動隊と一般市民達に由る戦闘も一旦の終着を見せ始めている……。
(全て、全てをやり終えたのか……? いや、これからが始まりだと信じたいが……)
何故か、高層から見渡せる眼下の戦闘風景や喧騒も丸で残響の様に遠く感じる……。
既に甚大な爆破跡で廃墟と化した瓦礫の山中、僕達二人は放心状態で窓際へ座り込んだ。お互いが感慨に耽り続け、無限の如き沈黙の時間が流れ続けている。しかしそれは気不味さだけでは無く、これ迄の万感が募り口火を切る言葉が見付からない故だった……。
そして僕は何とか永遠の如き無言を断ち切る様にと、やっとの事でか細い声音を挙げ質問を投げ掛ける。
「……どうして、ここが解った? それにどうして、今更僕へ会いに来たんだ……?」
彼女は嫋やかな調子で受け答え始めた。その様子は彼女の心奥に於ける源泉が何なのか不明な程に、深玄で母性的な雰囲気を湛えているのだった……。僕達の関係は別離の途へ差し掛かっていた程、限界を来たしていた筈なのに……。彼女がこうも柔和な物腰で、情愛に満ちた暖かな匂いすら発露させているのは何故なのだろう?
「警察から、貴方を捜索し逮捕する上で有益な情報は無いか、と私のヘッドギアを精査する事になったの。
私自身の電脳に貴方を追跡する上で特筆すべき情報価値は見当たらない、と彼等は判断したけれど、その次には私自身と言う存在価値を利用する手段は無いものかと議論し始めた。
そして遂に私の偽者を用意しようと言う計画が立った時、一旦私のヘッドギアの電脳情報を他のヘッドギアへ転送する時間が設けられたの。その際、貴方がここを最終拠点として篭城している事は警察との遣り取りから自然に情報として入って来た……。
最初は警察の保護下でずっと自宅で待機させられていたのだけど、ホテルから警察、専門機関と往復移動する乗り換えの隙間を狙って飛び出す様に逃げ出して来た。そして街で身を隠し続け、貴方を助ける機会を探っていたと言う訳……。丁度どこへ行っても街中は暴動の最中だったので、警察の眼に引っ掛かる事も無く潜伏し続ける事が出来たわ……」
一連の丁寧な説明を受けても、僕の疑念は丸で潰えなかった。事の経緯そのもの由りも、彼女が何故僕を助けたいと思ったか、警察からの逃走を敢行する程の苛烈な動機とは一体何なのか、全く判然としない侭だったからだ。
そして僕とロイトフが激闘を繰り広げていた修羅場へと忍び込み、背後から鈍器で一撃を喰らわす等……。その献身的な迄の愛情や大胆な行動力等は、当時の凡庸な彼女からは想像も付かない急変振りなのだ。
「いや、しかし……。僕達は正直言って、ぎこちない状態に陥っていた筈だ。僕がこんな風に世間を混乱させる程の犯罪に走った事で、もう別れは決定的だと個人的には思っていたんだけど……。
そして何由り、僕に助力した以上、君ももう後戻りは出来ない。本当に、それで良いのか……?」
これが僕の正直な心中の告白だった。僕はあの犯行声明を彼女や政府へと送り付けた時点で、彼女は勿論友人から家族迄、全ての絆に別離を告げた心算だった。社会的地位や人間関係等を代償として全て棄て去り、孤立する事からが世界へ蜂起する為の第一条件の様に捉えて来たからだ。投獄の果てには、獄死や死刑、自刃迄をも覚悟していたものだが……。
僕と親交を続けるとすれば薄汚い大罪人の恋人と言うレッテルを貼られ社会的信用も失墜し、彼女自身も嘗ての僕と同様に友人や家族達と決別する必要性にすら迫られる。その後のうらぶれた逃亡生活や抵抗運動を想像すれば、彼女自身の生命すら危ぶまれるだろう……。何故彼女は、自らの危険をも顧みず僕との再会を果たそうと努めたのか……。
だが彼女は、そんな僕の切実な疑念に対して事も無げに答えた。
「あの声明や報道を受けた時、寧ろ初めて貴方と言う人柄や内心を知った気がしたわ……。この社会の機構が虚飾に満ちていると問題提起し、貴方は心も身体も本当の意味で素顔を世界に向かって曝け出した。そして社会に対する疑念や自分の価値観を証明する為に、独り命懸けで戦い始めた……。
その後、その姿勢に共感した人達が現れ始め、遂には政府が陰謀を張り巡らせている事迄も突き止め世間へと伝えるに至った……。
今、貴方の御蔭で大勢の人々が初めて曖昧な眠りから目覚めたかの様に、自身の実在を実感している。真の意味で生きている、と言う昂揚を生々しく体感し、社会へも自分自身へも目を逸らさずに真摯な闘争を始めている。そんな貴方の恋人で在ると言う事は、私に取って至上の喜びで有り最大の名誉……。誇りさえすれ、貴方に嫌悪を抱く事等微塵も在りはしない……! そう、只の一片も……」
その刹那、無線からシドの半ば興奮した呼び掛けが雑音交じりに反響した。
「―エスよ、応答せよ。生きているか! 大勢の人間の許へあんたの声明は届いた様だぜっ!! なあ、そこの屋上から街の光景が見えるかい?」
僕は涙で朧気に霞む視界を必死で拭い付け、誤魔化す様に笑い声を挙げる。そして独り言を呟く様に、やっとの事で微かな返事をひり付く咽喉の底から絞り出した。
「ああ、見えているさ、仮面を隔てずに、この景色が……」
容赦無く強風は吹き上がり続け、僕達の衣服を棚引かせる。僕がそうして感慨に耽っている中、彼女は何の前置きも無くヘッドギアへと手を掛け始めた。確かに今なら何者の規制も受けないが、一切の躊躇や逡巡の無いその大胆な手際から、逆に相対している僕の方が若干の戸惑いすら与えられてしまう。
彼女は思い切り良くヘッドギアを取り外すと、何の未練も執着も無い様に背後へと盛大に投げ捨てた。僕は息を呑んで目を瞠る。
素顔だ……。今迄2年間交際して来て、初めて間近で認識する恋人の顔。それは丸で、初対面の人間に出会う様な新鮮な違和感と感銘を僕に喚起させた。僕は自然と彼女へと手を伸ばし、強風で靡く彼女の髪を優しく、梳く様に撫で付ける。
「初めてお互いの顔を見るのね……。私の顔は、どう?」
「美人さ、飛びきりの美人に決まっているだろ」
反射的に突き出された台詞。誰とも比較した事も無く、出来る筈も無い。しかし陳腐なお世辞の類でも無かった。
比較する必要自体が無い、そう、君は少なくとも僕に取っては一番の―。
都市下全体から照射され続ける人工的なネオンライトの夜景、天空に座する満月が柔らかく放つ月光とが入り混じり、一際と映える様に彼女の素顔を照らし出す。
そして相前後する様に狼煙が挙げられたかの様な炸裂音がしたかと思うと、ほぼ同時に軽快で賑々しい音楽が鳴り響き始めた。街下の各所から、それを見上げた市民達の叫声や拍手が挙がりさざめきを立てる。
何事かと思うと、遠方で巨大な花火が連弾で打ち揚げられる様子が見て取れた。
僕達二人は一瞬気取られその光景に見入られた。しかし僕は口端を上げ微笑を浮かべると、何事も無かったかの様に直ぐ彼女へと振り向き直す。彼女は未だ遠方の事態を理解し切れず呆気に取られてはいるが、これは間違いなくシドの仕業の一環だろう……。
近代の花火は製作から点火迄がプログラム制御され、音楽演奏とタイミングを同期させた自動発射や遠隔操作も可能な様に設計されている。彼はパレードの最終日に発射される予定だった花火の機構へハッキングし、革命が成功した暁の祝砲へと代えて勝手ながら打ち揚げ始めたのだ。
全く以って彼らしい、仮面舞踏会の終幕を飾るに相応しい粋な演出だった。
遠い残響の様に花火の炸裂音は耳朶を打ち、闇夜の帳を背景に多彩で鮮烈な華を次々に咲かせては儚く散って行く……。
そんな塗り替えられた祝祭の典雅な情景を横目に、僕達は潤んだ眼差しで見詰め合う。
お互いに優し気な微笑を湛え、無言の侭、徐々に僕達の唇は距離が縮まって行く……。
―そしてその日、僕達は生まれて初めてのキスをした。