堤防からそれを見ていた。
まるで芋虫だ。

一両のジーゼルは、鉄橋を渡っていく。

ととんて…とん
ととんて…とん

日はずいぶん前に沈んだ。
海は穏やかな波間に月光の影をちらつかせ、河から流れこんでいるさまざまなものを吸っている。

少年は涙をぬぐった。
そうして堤防の上にひざっこぞうを抱えて座っている。

ととんて…とん
ととんて…

芋虫の歩く音はずいぶん遠くへ行ってしまった。
あとは波の音が星とともにあるだけ。


「ここで何してる」

頭上から声が降る。
ふと見上げると、浴衣の童女が宙に舞っている。

「君は天使かい」
「天使だって。ははは。そんな風かい。
天使はな、もっと儚げさ。おれほどずうずうしくもずるくもない」
「では誰」
「なんと言えばいいものやら。妖怪。化け物。マア何だってかまわない。
そら、そこに地蔵があるだろう。こういうものがある場所は、おれとしては行き来しやすくってね」
「地獄から来たの」
「ふふふ。そんなに次元の違うところでもないさ。時間軸はさほどずれていないはずだがね。
ところで坊や。先ほどからずうっと泣いて、何か困ったことでも起きたのかい」
「母さんに打たれた」
「打たれた」
「そうさ。ぼくはただ母さんに花を贈っただけなんだ。けれども贈ったその花を、母さんは食べてしまった。
なんてことをするんだよと、ぼくは怒鳴った。そうしたらば急に、母さんはぼくを右手で打ったのさ」
「おやおやそれは災難だったね。でもそんなことは、実はたいしたことでもないのだろう。
お前の母さんは本当のところ、恐ろしいのか。優しいのか」
「優しいに決まっている」
「そうさね。坊やはなんにも間違っちゃいない。ここはいい場所だ。静かで、清らかで、ほの暗くて。
でもねえ。ちょっと問題があると思わないかい」
「なんだい。そんなことはちっとも感じない」
「そうか、坊やは自分で気がついていないのだね。よく見てごらん。海の上では月がああやって光を反射させているのに、
空といったら何がある。冗談みたいな星があるきりだ」

少年は耳を覆った。

「ぼくは何にも悪くない。だってもういやだったんだよ。一体何年そうしてきたと思っているんだ」

お遊戯の張りぼてがびりびりと音を立てて崩れていく。
ワイヤでつるされた星は床に落ち、墨で塗られた暗闇は引き裂かれ、海はみるみるうちに蒸気になっていった。

少年は青年となり、青年は壮年となる。

「母さんはここ何年も寝たきりなんだ。介護介護で頭がおかしくなる。
全部のチューブを外して、そうして俺も薬を飲んだ。もう死んでいるに決まっている」
泣きながらそう叫ぶ男は白髪の頭をかきむしる。

「おいおいあせるなよ。お前はまだ間に合うんだよ」
「なんだってんだ。お前は何だ」
「そして勘違いもしている。お前がチューブを外すほんのちょっと前のこと。お前のおふくろはもう死んでいた。
ほうらほら。こうして話している間に、もうきなすった」

童女が顔をやる。
その先には、男が少年だったころの母親の姿。

手には、溢れんばかりのコスモス。

白。
桃。
紫。
綿菓子のように繊細な葉が優しげに空間を埋めている。


坊や。お花を食べてしまってごめんねえ。
でもちゃんとこうしてぜんぶ持って行くから、許しておくれね。
長い間、ごくろうさま。ありがとう。

「ねえねえ、そこのおふくろさん。その花のうち一輪を、おれにくれやしないかい」

にっこりわらうと母親は紫のそれを童女へ手渡す。
そして、さようならと一言いうと、その場からふうわりと消えていった。

「おお良かった。これでおれの仕事は終いだね。じゃあな」
「おい俺は。俺はまだ生きなくてはいけないのか。生きる価値があるのか」
「生きる価値」
「そう」
「馬鹿だねえ。そういったものはお前が決めることじゃあないんだよ。そら、月が出た。あれはほんとの月だからな。
まあそう抗わずに、死ぬまで生きなせえ」

童女は助走をつけると、地面めがけて飛び込んだ。
「アッ」
地が割れる。

俺のまぶたが開く。



童女は水瓶を覗いていた。
「ふん。ああしていながら、あいつは相当生きるだろう。
ああ、ずいぶん遠くの星に行ったからな。なんだか眠くなってきやがる」


水瓶の中に紫のコスモスが一輪ゆらりゆらりと浮いている。
その水紋は空から映った二つの月を一瞬大きくゆがめはしたが、やがて消え、じきに元のとおりになったのだった。

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