美也子

 手鏡を拾った次の日に、確か俺は学校に盛大に遅刻してしまったんだっけ。目が覚めたら時計がもうすぐ九時を差そうとしていて、母親が作ってくれていた朝飯もロクに食わないでマンションの階段を駆け降りた後に急いで走って行って、肩で荒い息をしながら学校に着いた時にはもう九時半くらいになっていたかなぁ。先生にこっぴどく叱られたからよく覚えているよ。英語教師の若干イントネーションのおかしい怒鳴り声があまりに大きくて耳が痛くなったんだし。何言ってるのか終始よく分からなかったんだよなぁ。後ろの席の女子数人が俺を指さして笑っていてかなり恥ずかしかったのを覚えているよ。
 殆ど受けてないに等しい一限目の授業を受けた後の休み時間に、俺は喉が渇いたから校庭近くにある自販機に寄ってコーラを買う事にした。……うんまあ、空腹の時に炭酸飲料なんか飲んだら普通気分悪くなるよなぁ。我ながら馬鹿なことだと思うよ。でも、その時は何故か飲みたいと思ったんだ。
 コーラを買う為にポケットから財布を取り出し、百六十円を取り出して自販機に入れようとした時、白くて小さな手が俺の手とぶつかったんだ。誰かと思って見てみたら、美也子だった。
 美也子はこの近所ではここの自販機でしか買えない、限定販売のペットボトルの紅茶が好きで、よくここに来て買っていると聞いていた。だからあの自販機で美也子に会った時も、別に不思議だとは思わなかった。
 美也子は少し珍しそうな顔をした後、俺の手を押しのけて硬貨を突っ込み、紅茶を買ってスタスタと去って行こうとしてたから、慌てて引き止めたんだ。そしたら美也子は不機嫌そうな顔をしてそこに立ち止まった。
「……何よ? 私急いでるから後にしてくれない?」
 知ってるか? 不機嫌な時の美也子ってめちゃくちゃ機嫌悪いんだぜ。それこそまるで、親の仇でも見るかのような殺意全開の目でこっちを睨みつけてくるんだ。美也子のあの目は怖いと言うよりは冷たいな。付けいる隙が一分たりとも存在しない、ただ威圧するのみな目線。あの目を向けられて少しも動揺しない人を、俺は一度も見たことがないな。
 ……逆らっても意味ないと思ったし、もう時間も無かったから昼休みにもう一回来てもらう事にして俺は教室に戻った。
 コーラを買い忘れたことを思い出したのは授業中だったな。うっかりしてたよ、本当に。授業中にこっそり買いに行こうかとさえ思ったね。それくらいにその時はコーラが欲しかったんだ。
 結局俺がコーラを買いに行けたのは三限と四限の間の休み時間だったな。……ああ、空腹に炭酸が染みて実に素晴らしい気分だったよ。一体どういうふうに素晴らしかったのか、時間をかけてゆっくりじっくり説明して上げたいくらいにな。まあそんな顔をすんなよ多分嫌だろうから語らないよ安心しろって。
 昼休みになって自販機に行くと、自販機の前には弁当が入ってると思われる小さなカバンを持った美也子が、イライラとした様子で携帯を弄っていたな。時々聞こえる舌打ちの音でかなりビビったね。おっかないったらありゃしない。
 美也子がこちらに気付き、無言でツカツカとこちらに早足で近づいてくるのをビクビクしながら見ていたね。おっかないったらありゃしない。
 美也子は俺から少し離れた……大体三歩くらいだったかな。その辺りまで離れたところまで歩いてきて「……何の用? 私、友達と一緒に弁当食べる約束しているんだけど」と冷たく言って来たな。美也子にも迷惑だと思ったし、俺もさっさと学食でパンを買って食べたいと思ったから手短に済まそうと思い、昨日の出来事を話すと、案の定興味を持った美也子はまるで掌を返したように態度を変えて見せるように頼んできたな。まあ分かっていたことなんどけど、あまりにもコロッと変えてきたもんだからかなりビックリしたね。まるで最初からそう分かっていたみたいじゃないか。
 美也子に急かされながら、俺はブレザーの内ポケットから例の手鏡を美也子に見せたんだ。美也子もこの手鏡が気に入ったみたいで、キラキラと目を輝かせながらその手鏡を覗きこんだまましばらくじっとしていたな。
 __まあ、誰も信じないとは思うけどさ。あの鏡には人を惹きつける『何か』が確かにあるんだよ。人を惹きつけ、籠絡して、逃げられないようにする、麻薬みたいな『何か』があの手鏡にはあるんだ。信じたくないなら信じなくてもいい。アンタが信じようと信じまいと、それが事実なんだから。
 美也子は、ずっと手鏡を覗きこんだまま動かなかった。そうだな、例えるならまるで魂だけが、鏡の中に吸い込まれているみたいだったよ。じっと鏡を見つめたまま、瞬き一つしない。三分くらい経過しただろうか。美也子の口は半開きになっていて、涎が一筋零れ落ちた。周囲も次第に美也子の異常さに気付き、ざわめき始めていたな。一方俺はというと、何度呼びかけても何度手を振ってみても全く反応を示さない美也子に脅えていて、何もできないでいたな。それくらいに、あの時の美也子の様子はおかしかったんだ。
 美也子がなおもじっと鏡を見つめ続けるもんだから、とうとう俺は我慢できなくて、美也子から鏡を取り上げて大声で叫んだんだ。
「おい美也子! お前どうしたんだ!? 気味悪ぃよ!!」みたいなことを叫んでいたと思う。『思う』って言っているのは、その時訳が分からなくなっていて色々なことがごちゃまぜになっていたからなんだ。何をどう言っていたのかは今でもよく覚えていない。ちゃんと説明してやりたいけど、覚えてないんだから許してほしい。
 俺が叫んだ後、途切れ途切れの記憶ではあるけど、確か美也子は暫くぼうっとした顔で俺を見つめていた後に、にたぁーって……頬を目いっぱい釣りあげて、目尻を思いっきり下げた不気味な笑顔で涎を垂らしながら俺を見ていたんだ……。ああ、今考えても恐ろしいよ。さっきの冷たい顔なんて目じゃない位の、「人間とはこんな顔ができるのか」と思えるほどの物凄い形相だったな。
 美也子はその顔でまた暫くの間俺の顔を見た後で……ええっと、どんな感じだったかな。確か「ああじゃばじゃば。けてけて、がががやゆいぱ、だいこん。とおりゃんせとおりゃんせ。みなみなたらおおめ!!!! ああああああああああああああああああああだああああああ!! ああ!! うわあああああああああ!!」みたいな感じのことを絶叫し始めたんだ。ああ、今考えても一体何を言っているのかさっぱり分からないな。あいつは一体何が言いたくてあんなことを言っていたんだろうな。分かるなら分かりたいよ。
 俺はびっくりして、そのまま尻餅をついてしまった。それを見た美也子はまるで野獣のように俺に飛びかかって押し倒して、俺の手から鏡を毟り取ってそのまま学校の外に走り去って行ってしまったんだ……。まるで何かを求めるように、まるで何かに導かれるかのように。美也子は走り去って行ってしまったんだよ……。
 俺を含めた他の皆は唖然としたまま、美也子が走り去るのを黙って見ていたよ。ああ、誰も美也子を止めることは無かったね。きっと止めようにも止められなかったさ。
 五分位経った頃だったかな。昼休みの終わりを告げるチャイムが機械的に鳴り響いて、我に返った奴らがパニックになっていたな。泣いている奴もいたし、ずっと叫んでいた奴もいたなぁ。集団ヒステリーってやつだ。一人がパニックになれば他の誰かも釣られてパニックを起こす。まあ羊の群れみたいなもんだよ。
 まあもしも人間の集団が一個の群れなんだとしたら、あの時そのままぼうっとしたままだった俺ははぐれ者だよな。あの時俺は、なおも状況が理解できていなかった。頭の中がただただ「?」で埋め尽くされていたんだ。何も状況が飲み込めない。何も解決策が見つからないという焦り。真っ暗な洞窟の真ん中にいきなり放り出されたような気分だったよ。
 ……まあ今考えてみれば、全て俺の所為だったんだがな。俺があの手鏡を拾ったから。俺があの手鏡の話を美也子にしたから。俺が美也子にあの鏡を見せたからああなったんだ。あの時、齧りついてでも美也子を止めていたなら、美也子はああならなかったのかもしれない。
 __もう、悔やんでも悔やみきれないなぁ……。すまない、少し休ませてくれ。喉から言葉が出て来ないんだ。
 少しだけ。本当に少しだけでいいから、休ませてくれ……。

七ヶ瀬駿河
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七ヶ瀬駿河

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