夕暮れの百合
__それから、数日が経った。警察や自治体の人がずっと美也子を探していたけど、美也子はまるで神隠しに遭ったかのように見つからなかった。
一方俺はというと、何もする気が起きなくなっていて、学校を休学していた。ああそうそう、今でも休学はしてる。もう何もしたくないんだ……。やりたいことなんて言ったら、今こうやって身の周りで起こったことを話すことだけどな。これが終わってしまえばもう本当に何もすることなんてないよ。
俺は美也子のことを説明したけど、当然鏡を覗きこんでおかしくなっただなんて誰も信じないんだよなぁ。たまたまタイミングが被っただけだってことになったよ。罪を償いたいと思っても、それを罪として認めて貰えないだなんて……。世の中は理不尽だと思うよ。無実の人を冤罪で刑務所にぶち込むくせに、真犯人を捕まえないんだぜ? どうしろってんだよ。
……ああ、そういやここ数週間の間水と少しの食事以外は何も口にしてないな。あの時もっと遅れてでも朝食をしっかり食べておくべきだったよ。
警察は結局のところ捜査をもう断念しているよ。見つからないからって訳じゃない。……見つからないままの方が、まだ良かったのかもしれないけどな。
美也子がいなくなって数日経ったくらいの時、美也子はふらっと俺の家にやってきたんだ。髪はボサボサになっていて、体中から嫌な匂いが漂って、目はかなり虚ろだったよ。服にはいたるところに……何て言ったっけ? くっつき虫? アメリカセンダングサ? だかが付いてたよ。とにかく、その時の美也子の様子は異常だった。
ボソボソと小さな声で「かがみ……かがみ、のぞく。かがみ、きれい。すごい。きもちいい」と唱え続ける美也子の肩を掴んで、俺は何も言わないで泣いた。誰がどう見ても分かる。
__美也子は、鏡に毒され切っていたのだ。心を失い、完全な鏡の虜、いや奴隷となっていたんだ。……美也子は、鏡に魂を吸い取られていた。本当に吸い取られていたかどうかは知らないが、そうとしか思えなかったんだ。
「ねえねえ、きみも、のぞいてみない? きもちいいよ?」
美也子はそう言いながら鏡を取り出して、俺に押しつけてきたよ。俺はその手鏡に行き場の無い怒りを覚えて、美也子の手からその鏡を毟り取って思いっきり玄関の床に叩きつけたんだ。完全にやつあたりだったよ。鏡を壊したら元に戻るなんてどこのお伽噺だよって話だよな。ああ実にバカバカしいよ。
美也子はそれを見た後、その場に座り込んで破片を集め始めたんだ。集めたって戻らないのにな……。それでも必死に集め続ける美也子を、俺はじっと眺めていたよ。
美也子は集め終わったあと、突然ボロボロと泣き始めたんだ。もの凄い悲しそうな顔をして、大粒の涙を目一杯に溜めて泣いていたんだ。
その後、美也子は破片をそっと俺に手渡してふらふらと外に出て行ってしまったんだ。「私にはもう何もない」って背中で言っているみたいだったよ。俺は美也子を呼びとめようと思って声を掛けたけど、美也子は全く意に介さない様子で歩いて行っていた。俺は暫く動けなかったんだけど、あることに気が付いて弾かれたように走り出したよ。
俺の家はマンションの五階。美也子は階段の手すりから身を乗り出そうとしている。
状況は、すぐに頭で理解できたよ。美也子は、死のうとしていたんだ。何でなのかまではよくわからなかったけど、それだけ分かればその時は十分だったんだ。
俺は美也子のところまで走った。緊張で脚がもつれながらも走ったよ。あの時くらいじゃないかな、全力で走ったのは。
__だけど。
美也子まであと数十センチってところで、美也子の姿が見えなくなったんだ。それこそまるで消しゴムで消したかのように、フッと。
耳に焼き付いた、消える間際の「さよなら」という声。肌を焼く日差し。工事現場の機械音。全てが遠く感じられたよ。
美也子の姿がが次第に小さくなっていって、地面に叩きつけられるのを俺はただじっと見ていたよ。折れた首は百合の花弁のように、飛び散った血はべっとりとした百合の花粉を想わせるように思えた。思わず花に例えてしまうくらいに、『それ』は現実感がなかった。美也子が死んだのを見ていたのに、どうしてもテレビドラマを見ているような感じがして仕方が無かった。
__俺は、美也子を救えなかったんだ。
その思いが後から押し寄せて来て、俺は喉が破れそうなくらいに叫びながら泣いた。悲しくて悲しくて、頭の中がぐちゃぐちゃになって吐いた。頭がはちきれそうだった。
美也子がおかしくなる中で、俺は何もできなかったんだ。