第十話 それぞれが抱えていたモノ
その日は、風の強い日だった。
美鳥は黙って俯いていた。俯いて泣きじゃくっているのは、達也だ。あいつ、あんなに泣くんだな。
『どっちだ?』
『美樹ちゃん。運動のできる子の方』
『あの元気な子か。お気の毒に……』
『陸上で有名高校、推薦受けてたんですって』
『そりゃ将来有望だったろうになぁ』
やめろ……。
『かわいそうに』
やめろ!
『け、啓一!』
川の流れも、雨も激しく振り始めていった。
『馬鹿な事はやめろ! お前まで死んで何になるんだ!』
すべて洗い流してくれそうだったから――『僕』は葬式の最中に、外へ出た。
向かった先は――。
『ほっといてくれ!』
気付けば、鉄橋、柵の上にいた。一歩踏み外せば増水した川に落ちる構図。ここまで無意識に走って来たらしい。
『美鳥ちゃんや達也君をこれ以上悲しませる気か!』
誰の声だろう、いちいち覚えていない。
『……でも!』
下唇を噛んで、これが夢じゃないと実感した。痛いよ。
雨も冷たかった。
美樹……。
『さ、もう泣くな。美樹にお別れを言いに行こう。な?』
言いたくない。でも、これは夢じゃない。泣いたって美樹は帰って来ない。せめて、見送らないと。
『――ッ!』
『しまっ……!』
景色が、反転した。
『啓一君が落ちたぞ!』
『キャーッ!』
『くそっ、誰か電話かせ! 早く――』
「……!」
鉄橋から落下した後、浮遊感に抵抗するように俺は体を跳ね起こした。
夢。幻覚。それは眠っていた脳がビクリと体を動かしただけの事だった。
「今の夢はなんだ?」
目が覚めてもしばらくしても、動悸が治まらない。
「……ふぅ」
ゆっくりと息を吐き捨てる。
美樹の葬式。嵐の夜。鉄橋の上、落下。
「嫌な夢……」
「あー頭いてぇ」
シャワーでも浴びよう。風呂も入らずに寝ちゃったし。
時刻は午前五時過ぎ。
学校に行くまですることはないのだから、俺は明るくなってきた外へ出てみる事にした。
後味の悪い夢を見た後だったけど、鉄橋に行けば何かわかる気がしたからだ。
「こんなに朝早く外に出るのは初めてな気がする……」
いやでも、昔は積極的に起きてたって言われたっけ。
どこか懐かしく感じてしまうのは、その所為だろうか。
「でも、悪くないかもな」
俺はおもむろに鉄橋の手すりに腕を預け、川の流れを眺め始めた。
こうして水の音だけを聞いていると、なんとなく落ち着いてきた気がする。
「啓一?」
「ん……?」
振り向くと、そこには私服の達也がいた。
「よう」
「どうしたの、こんなに朝早く」
「昨日すぐ寝たから、起きる時間も早まったんだよ」
「それで散歩?」
「ああ」
「おじいさんみたい」
「たつやー?」
「はは、ごめんごめん」
「お前、バイトは?」
「終わったよ。今から帰って寝るとこ」
「二度寝か」
「寝ないと体がもたないんだ」
「無理しないでくれよ。前にも言ったけどさ」
「心配してくれんの?」
「一応な」
「昔の啓一だって、いろいろ無理してたよ」
「そうだっけ。あ、記憶を失う前か」
「もっとも、そんな景色を見るだけのキャラじゃなかったけどね」
「そっか」
「啓一」
「ん?」
「いつまで自分の殻に閉じこもっている気?」
「え、達也?」
「閉じこもっているんじゃなくて、本当に思い出せないの?」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
「何。昔の事を話してほしいって言うから、話そうと思ったんだけど?」
「そうは言ったけど……」
「何から聞きたい?」
「…………」
突然そう言われ、俺は言葉に迷った。
何から言えばいい?
「昨日、思い出した事があるんだ」
「何?」
「俺達、四人だったんだよな」
「…………」
「これ、俺の妄想じゃないよな」
「ごめん」
「え?」
頬に強い衝撃。
地面に落下して、殴られたのだと気付く。
「いきなりだった?」
俺を見下ろす達也に、いつもと違う雰囲気を感じた。
「そ、そりゃあ」
「僕達もこんな感じだったよ。君に今までの記憶がないと告げられた時も……」
「美樹が、事故で死んだ時もさ!」
「…………」
「一度たりとも忘れた事はなかった」
「啓一はこの三年間、もう一人幼馴染みがいたなんて思いもしなかっただろうけどね」
「でも、思い出したんだよね?」
「……死んだ幼馴染み。美鳥の双子の姉。細かい思い出はまだだけど……俺の」
「そう。啓一の彼女だった人だ」
「……やっぱり、そうなのか」
「だったら、美樹の葬式当日。君がやらかした事は?」
「ここから、飛び降りようとした……」
胸がしめつけられるような思いだった。
記憶がなくなる前とはいえ、俺はとんでもないことをしていたんだと言う実感。
達也や美鳥に心配をかけた事。
「落ちたのは事故だって聞いてる」
「足を滑らせたんだ」
「へぇ。結構思い出してるんだ」
「でも、まだ肝心な部分が隠れてて」
「達也、俺が美樹の事をまったく思い出せずにいる事、どう思ってた?」
「どうって」
「大切だったんだ。今ならはっきりわかる。あいつとの思い出……夢でしか見た事ないんだ!」
「俺、夢で目覚める事があっただろ?」
「それ、きっと美樹の夢でしょ?」
「よ、よくわかったな」
「わかるよ。……正直、最初は啓一を薄情者だと思った」
「あれだけの思い出を忘れるなんてさ、おかしいよ」
「でも、啓一だって苦しんでたんだよね。その夢を見たあとに不安になるのが何よりの証拠だよ」
「よく思い出したね」
「手紙がキッカケになったんだと思う」
「手紙?」
「……俺と美樹は、何度か手紙でやり取りをしていたみたいなんだ」
「知ってる」
「知ってたのか!?」
「書いてるところみたもん。こっそりね」
「覚えてないけど、恥ずかしいんだが……」
「で、そのやり取りした手紙は全部読んだの?」
「いや、それが引き出しの中にさ、出しそびれたらしい手紙が一枚あったんだ」
「なるほど。それを見たんだね」
「どっかに手紙を入れた箱があるんだけど、思い出せなくて」
「それは僕も知らないよ。美樹と啓一の秘密だったんじゃない?」
「迷宮入りか……」
「本当はこういうのダメって言われてるんだよね」
「こういうのって?」
「美樹の話。君が自殺しようとした原因は美樹だから」
「だから、今まで隠してたのか」
俺がまた間違いを起こさないように……。
「そうだよ。でも、それだけじゃ美樹が浮かばれないとも思ってた」
「忘れられているなんて、切ないもんな」
「忘れている方も、そうだったんじゃない?」
「……。俺は、事故で記憶をなくしたんだよな?」
「そう。ここから落ちて、朝見つかったんだ。すぐに病院に運ばれて、数時間後に目が覚めたら」
「俺は、すべてを忘れていた」
「そして、美鳥は美樹がいなくなったショックで登校拒否」
「夏休みに入って、啓一が退院。美鳥に外へ出るよう説得したんだ。大変だったんだよ」
達也は、一度バラバラになった俺達と繋ぎとめてくれたんだな。
「僕も逃げたかった。美鳥みたいに自分の殻に閉じこもるか、啓一のように記憶をなくしたかった」
「でも、約束したんだ」
「約束?」
「美樹とね。亡骸の前でやった一方的な約束だけど……いろいろ美樹には世話になっちゃってたからさ」
「例えば、僕は美樹に料理を教えてもらってた」
「……お前の弁当、懐かしい味がするとは思ってたけど、まさか」
「美樹の味付けを真似ていたせいだよ」
「そうだったんだ」
「陸上も美樹に憧れて始めたんだ。というか、始めさせられた。中学生の時だったかな」
思い出を紐解いていくように、険しかった達也の表情が徐々に和らいでいく。
「達也君、あなたには集中力が足りないの。なんか運動でもやったら? 何がいい? ってさ」
「記憶を失う前の啓一にも言ったけど、僕美樹の事が好きだった」
「え!?」
「……ぷっ。あははははは!」
「な、なんで笑うんだよ」
「だっ、だって……っはははは。に、二回も同じような反応されたんだもん」
達也は一人、腹を抱えて笑い出した。何がおかしいんだよ。
「啓一、変わったけど、根本的には変わってないんだね。あははは!」
「…………」
「はあー。……うん、僕は吹っ切れたんだよ。一人相撲だったし。君が告白した後で、僕はそれを知らなかった」
「啓一の告白をオーケーしたんだって言われた時は、それこそ頭が真っ白になったって言うか、やっちゃった、って感じかな?」
「そう、だったのか」
「うん。陸上でも料理でも、僕は美樹の姿を追っていたから。彼女が、いなくなっても、僕だけは覚えてなくちゃいけないと思ってたから」
「達也。お前、強すぎるよ」
本当にそう思った。
「弱かったんだよ。泣き虫、昔の啓一より、女の子の美鳥より。強くなれたのはみんなのおかげ」
達也は袖で目頭をぬぐい、俺の目をまっすぐ見据えた。
達也の目に見えた一粒の涙は、笑いすぎて出た涙なのか、美樹を思ってのものなのかはわからない。
「啓一。約束して」
「え」
「記憶が戻ったら、一度でいい。絵を描いて」
「絵を、か」
「啓一の記憶が戻ったら、無理矢理にでも絵を描かせる。そう美樹に言ったんだ」
「美樹ね、啓一の絵が本当に好きだったんだよ」
「美鳥の絵もね」
「羨ましかったよ、二人が」
「え、どうしてだ?」
「僕には到底描けないものだったんだ」
「きゃ、キャンパス覗く美樹の顔、すごくかわいかったから」
「…………」
「でも、その可愛い美樹の顔は啓一に取られちゃった」
「取られちゃったって」
「悔しかったよ?」
「そ、その辺りはまだ覚えてないから」
「はは、もういいよ。過ぎたことだし、美樹に対する感情は憧れだったって気付いたから」
「これだけ話しても、まだ断片的でしかないんだよ?」
「ああ、まだ思い出さないといけないことがたくさんある」
「……達也、美樹の墓だけど」
「ん?」
「記憶が戻ったら、行かないか? 美鳥も一緒にだ」
「そうだね。ゆっくりでいいよ、美樹も待ってくれると思う」
「でも、今はその美鳥が心配なんだ」
「まるで啓一が入院した時みたいでさ……当分出て来そうにない」
「連絡は取れた?」
「一回だけ」
「本当か!?」
俺が電話しても出なかったのに。
「でも……」
「でも?」
「美樹おねえちゃんって、それしか言わないんだ」
「啓一なら心当たりあるかなと思って、声かけたんだけど」
「…………」
「啓一、美樹の事を美鳥に話した?」
「いや、この事を口にしたのは達也が初めてだ」
「本当?」
「ああ」
「なら、どうして今更美樹の事を?」
「…………」
俺は何も言えなかった。本当の事を、言うべきなんだろうか。
「学校行く時、美鳥の家行ってみる?」
「……そうだな」