13話 心の移り
真っ暗だ。住宅街に、もう電気は通っていない。
だが静かというわけでも無かった。飼い主が逃げて、残された犬たちが夜にも関わらず喧しく吠えている。この異常な現実に彼らもようやく気がついたのだろう。とはいえ気がついたとしても、首輪を付けられてしまったペットたちはただ死を待つのみ。
なにより八尋は他の者に気を取られているわけにはいかないのだ。きっと人間たちが夜の闇に恐れをなして隠れているだろう今のうちに、生きていけるだけの食料を獲得せねばならない。犬の遠吠えはゾンビたちの気配をかき消してしまうだけで、決して歓迎されたものではなかった。
更には夜陰に紛れてしまって、半透明なゴーストたちの姿を見ることは難しいはず。そこで彼は考えた。
「これなら……大丈夫そうだ」
最初からささっていたハンドル横の鍵をまわす。ほんの少しの駆動音がして、それはすぐに落ち着いた。
道に残されていた車の一つ。コマーシャルで静音を売りにしていた車に乗って、八尋はエンジンをかけたのだ。自然とアクセルを踏むと、暗い道では危険だという問題が出たのが納得できるほど、確かにこの車は驚くほど静かに進み始めた。
もちろん高校生になったばかりの八尋は運転などしたことがない。細い道はもちろん、大通りでも今はたくさんの無人車が立ち往生しているために動かしにくい。
ただぶつかっても文句を言われることは無いために、八尋はそこまで気を張ること無くスピードを出せる。目指すは家から少し離れた、あの男たちの仲間が歩いては辿りつけないような大型ショッピングモールだ。
時間にしてみれば19時。夜明けまではまだまだ時間はある。
歩くよりはやい速度で動いていれば、ゴーストもゾンビも追いかけてくることはできないはず。男たちがどこにいるのかはわからないが、とにかく見つかりたくはない。ライトも付けず、せっかくの隠密性をしっかり活用するため、できうる限りゆっくりと車を動かす。
これに期待するのは足の代わりではなく、むしろ手の代わり。荷物をたくさん運ぶことだ。
「本当にだれもいないな」
無音の車の中で、八尋は思わず呟いた。
信号も無く、ただハンドルを握ってアクセルを踏んでいるだけの現状に気が緩み始めている。確かに敵の心配が無いのだから仕方のないことではあるが、いささか早過ぎではなかろうか。
それにはやはり、新たな力を手に入れたことが関係しているのだろう。
力があれば、安心が生まれる。
一度、おじさんたちの力によって様々な物を奪われて、自分の無力を痛感した後の今だ。現実から剥離した力も疑問なく受け入れていることにも気が付かず、決して勝てるともわからないのに、八尋はとにかく浮かれていた。
母親を失ってから初めて得た物だからだろう。だが確かに、悲しみを紛らわせるのには最適な要素ではある。白い粒子の影響か、冷静な部分が抜けない頭には特に。
そんな八尋にとってみれば、目的地まではあっという間だった。
月明かりすら届かぬ立体駐車場の2階に、車を停める。
エンジンを止め車を降りると、ドアを閉める音が大きく響き渡った。それでも続く音が生まれることはなく、不気味な雰囲気に満ちている。
開店前に今の混乱が始まったようで、他に車は停まっていない。閑散とした駐車場を、不思議な気持ちで横切って、ショッピングモールの入り口へ辿り着いた。
「開かない……」
まずはその前に立ってみるも動きはない。電気はもう通っていないのだから当たり前だ。
こんどは控えめに付いているくぼみに手をかけて自動ドアを横に引っ張ってみる。
「んぐっ……」
八尋は思いっきり力を入れたもののピクリとも動かない。やはり開店する前にゴーストたちの被害が広がって鍵がかかったままになっているのだろう。
「ふぅー」
大きく息を吐きながら、八尋は思念を集中させる。
八尋の肌に触れていた空気が、ゆっくりと流れを変えた。春の夜になびく風がじんわりと彼の頭のなかに地図を描き始める。
進むべき方向を示された空気たちは、集まり、渦巻いて、八尋という指導者の指示を待つ。
そして、手が振られると、圧縮された空気の塊は真っ直ぐ前へと突撃して、大きな音を立てながら行く手を阻むドアを打ち破った。
粉々になった透明な破片がチャリチャリと軽い音を響かせながら落ちてゆく。それを確認したところで、八尋の体を中心に漂っていた緑の粒子がフッと消える。
「よし」
八尋は確かに今、自分の意志によって力を使った。その御蔭で、自分の頭のなかにもたらされた情報が正しいものだったと知る。確かな自身を得て、透明な部分がごっそりと無くなり、ドアとしての役割をはたすことのできなくなった枠組みをくぐる。
廊下を通って、動いていない近くのエスカレーターを降りると、そこは食料品売場だ。
そこで働く人々が逃げた後がくっきりと見て取れる。そんなものを気にすること無く、右手と左手に一台づつカートを握って中をまわり始めた。
さっきと同じように、水や保存食を中心にカートへと放り込んでいく。光の届かぬスーパーマーケットは真っ暗なわけだが、そこは淡く輝く粒子の出番だ。緑色の光に照らされて、八尋は何も気にすること無く物資を物色できる。
2つのカートを満杯にして、八尋はようやく満足した。今は多少の疲労を感じてエスカレーターの陰に置かれていたベンチに腰掛けている。
「こんなに良い所……倉庫も考えれば結構行けるか? むしろここに越してきても良さそうだ」
言葉使いが変わっていることにも気がつかず、八尋は周囲を見回しながら言った。
いちいち物資を運んでいる余裕があるのなら、むしろここで暮らしたほうが安全なのではなかろうかと、そう判断するのは自然なことだろう。
「でも他の奴らも来るよな……」
コンビニなどでは食料の保存量などたかが知れている。無くなれば、こんどはこのように大きな場所を狙ってくることは想像に難くない。そうなったとき、住処を荒らされてしまうのは少々気に食わなかった。
「よし」
足に力を入れ、2つのカートに手をかけて立ち上がる。休憩は終わりだ。
さすがに物資の満杯となったカートを2つ一気に上階へ持ち上げるのは不可能なので、1つずつ、さらにエスカレーターを1段ずつ登っていく。一応、空気に寄る補助を着けることで重さは半減しているので、体が悲鳴を上げるようなことはない。
1つのカートを一番上まで運び、カートごと車へと詰め込んでからもう一度戻る。
そしてもう1つのカートに手をかけ、エスカレーターを登り始めようとしたところで、八尋は突然その陰に姿を隠した。
――何か動いてる。
空気を操る八尋には、その動きがわかる。何か物があるのなら、その場所は空白となって八尋の脳内マップに現れる。そのマップの空白がゆっくりと動いていた。それも1つだけではなく、少なくとも10を越える数で。
それを把握した八尋の耳に、小さな喋り声のような物が届く。
キィキィと甲高いその音は、少しずつトーンの違う音の応酬がなければ言葉だとは思えなかっただろう。少なくとも聞く限りでは人間の使うような言葉では無い。
近づいてくるものだから動くわけにもいかず、カートの陰からエスカレーターの陰へと移動して粒子を消すと、八尋はその動く何かを待った。
ほどなくして、真っ暗になった空間の中にオレンジ色の明かりが灯った。それは幾つもの小さな足音と共に八尋の方へと近づいてくる。そしてエスカレーターの陰から八尋がひょっこりと顔を出し様子を伺うと……
そこにいたのは、化物だった。
毛のない頭、シワのよった額、つり上がった目に鋭い耳。背は低く、サメのように尖った歯が、骨ばった手に掴まれた松明の光に照らされている。ひときわ目を引かれるのは個々で形状の違う、そのつるりとした頭に生えている角。
一言で表わすのなら『小鬼』。
醜悪な笑みを浮かべながら、獲物を探すかのようにしきりに鼻をひく付かせている。
その中の一匹が、八尋の隠れるエスカレーターの方を向いて、指をさした。すると小鬼たちの集団はまっすぐ八尋の方へと歩いてくる。
獲物を探すかのように……ではない。獲物を探しているのだ。八尋という、生きた人間を。
慌てて八尋は首を引っ込める。その体から、じんわりと白い粒子が漏れだし始めた。それによってパニックに陥る寸前だった頭が、一気にクリアになった。走り出しそうだった体の震えも止まり、次これからするべきことを見つけるために思考がまわる。
その間に、徐々にその量を増やしていく白い粒子が小鬼たちの目に止まった。彼らのキィキィという声が大きくなって、獲物を発見した喜びを示し始めると、八尋はゆっくり立ち上がった。