3話 虚ろなる加害者
八尋の家の前にはサラリーマンの行列が続いている。駅の近くであるために仕方のないことだが、さすがは都内と言うべきだろう。その流れに沿って八尋は駅の方へ進み、学校へと近づいていく。既に越してきたときに位置は把握しているので迷う心配はない。
右を見ても、そして左を見ても、道をゆく人々の様子はまったく変わりなく、朝見たニュースなど無かったかのようだ。忙しない日本の大人たちには、自身に関係のない世界情勢など気にしている余裕は無いらしい。八尋たったひとり、自分だけが意味のない懸念を抱いているような気がして、彼は少々愕然とした。
特に体の調子におかしな所はない。むしろ入学という出来事に対して高揚している。ゆえに足取りは軽く、誰も気にも留めていない朝の出来事などは即座にどこかへと吹き飛んでいってしまった。
そうして駅を越える。
ここでようやく八尋と同じ制服を着た人々がチラホラと見られる様になる。その隣に大人が居るのは新入生、居ないのが在校生。そんな感じで彼らは2つに分けられるだろう。
とはいえ八尋のように、1人で学校へと向かう新入生も居るものだから簡単には決めつけられない。
なんにせよ彼はちょっとした後ろめたさから、他の人々と視線を合わせないようにタッタと学校へ一直線に向かった。
「ふむ……」
昇降口の前……そこには紙が貼られていて、八尋はそこで自分のクラスを確認している。
少しばかり早かったのか、周りにはそんなに人が居ない。一組から十二組まで、広々とした壁に貼ってある紙を大きく横移動しながら眺めていっても嫌な顔をされることは無いのだ。何故か2ヶ月前に使用した受験番号で書かれているがために、じっくりと自分の番号を見逃さないようクラス分けの表を眺めてみるも、中々見つけることは出来ない。
それもそのはず……
「あった」
探していた番号は最後、一番後ろの十二組の欄にあったからだ。
しかし問題なく自身の向かう先を確認できたわけで、もしかしたら忘れられているのではないかという不安は払拭された。こういう最初の時期はあり得もしない不安が付き纏うものだ。
ここで1つ深呼吸。高鳴る鼓動を抑えこむ。
それから指示に従って、八尋は一度校舎の中へと入る。さすがは私立高校というだけあって、非常に綺麗でしかも広い。なれない間は迷ってしまうこと請け合いだ。今も廊下に案内が貼られていなければどこへ行っていいものかわからないことだろう。
そしてシンプルな矢印に沿って進んだ先は講堂だった。まるでコンサートでも出来そうな、どこかの文化ホールのような様相をしている。その光景に圧倒されながらも、八尋はふらふらとその中へと入っていく。そして大量に並ぶ椅子の列の後ろに、また1つの紙が設置されているのを確認した。
それが最後の案内となり、内容は座る席についてだった。
「え、ここかよ」
八尋の席は一番後ろだった。それを知った彼は少しばかり顔を歪ませる。
一番後ろということは、後から入ってきた者たちの目に留まることになるわけで、しかも後方は保護者席だ。明らかに一番ハズレの位置だと言える。
しかしこればかりはどうしようも無いわけで、なんだかんだ言っても従わざるを得ない。
またもや1つため息をつきながら、八尋はゆっくりと指定された席へと着いた。それから視線をホール全体を見れるように動かしてみる。
まだまだ空席が90%以上はあるだろう。保護者席も一番前の列が少し埋まっているばかりだ。一番後ろの席に居るお陰で、ホールの様子を確認するのは非常に簡単だった。視線はそのまま時計へと向かう。
「完全に早すぎた……」
小さく呟きながらズルズルと姿勢を落として、体の半分近くが椅子から放り出されている状態になる。
時計によると今は8時。入学式が始まるまでは後1時間もある。家をでる時の丁度いい時間とは何だったのかと思いつつ、これもまたいつも通りの事だと小さく笑みがこぼれる。
八尋は何をするのにも、必要な時間を計算するのが苦手だった。遅れたら……との不安により、約束の時間よりも大幅に素早く行動してしまうことが常である。確かに良いことであるのかも知れないが、1時間も余ってしまうと少々無駄な時間を使っているとの考えも生まれてしまうだろう。
だが今は……中学生ではない。
「こんなときの……スマホだよね」
校則でもなんら問題はないために、ズボンのポケットに忍ばせておいたスマートフォンを取り出して電源を付ける。
始めるのは最近八尋がハマっているゲームだ。
そうしてそれから暫く。……周りに人が増えてくるまで、八尋はゲームの画面と1人にらめっこしていた。
□□□
〈学校長式辞〉
入学式は予定通り始まった。式次第も順調に消化され、今はその中程……いわゆる校長先生のお話が進行を始めたところだ。
既に何も考えていない八尋の隣に座るのは、右に同じクラスのお淑やかな女子、左に隣のクラスのイケメン男子。式中に声をかけるわけにもいかず、未だどちらとも会話は無い。
堅苦しい挨拶から始まり、なにやら長くなりそうな校長の言葉を聞き流しつつ、八尋は何となく天を仰いだ。
――ん?
そしてとある1点に視線を集中させる。……というより、させざるを得なくなる。
明るい木の色で覆われているはずの天井……その中に、なにやら黒くくすんだ1点があるのだ。もちろん、汚れというわけではない。なにせそれはゆっくりと動いているから。
輪郭はユラユラと一定でなく、水を入れすぎた墨のように黒は薄い。まるで影のようだ。
――大きく……? いや、下がってきてる?
問題なのは、その黒がだんだんと肥大していっていることだろう。最初は天井にあるまま大きくなっているのかとも考えられたが、どうやらその黒い影はゆっくりと高度を下げているらしい。そのまま行けば、新入生が座るエリアのど真ん中に落ちることは簡単に想像できる。
そこでふと、八尋の頭のなかで朝の光景がフラッシュバックした。
見た目麗しかったゾンビ……真っ白な歯と真っ赤な血……異常な光景。
強烈な悪寒が走る。その途端、ただのホコリであるかとの楽観的な予測は完全に打ち砕かれた。
顔がある。
これまたゾンビのときと同じような美麗な顔立ち。違うのは、それが日本人らしい作りをしていることくらいだ。
目は虚ろで、どこを見ているのかはわからない。しかし、そこから放たれる雰囲気はひんやりと冷たく、そこに視線を合わせてしまった八尋の体温が急速に下がり始めたような錯覚を得た。
その姿はまるでゴースト。
動けない。
その恐ろしさに、八尋は筋肉1つ動かすことすらできない。
幸い、その虚ろなゴーストが目指しているのは八尋では無いらしく、高度を下げる方向を変えはしなかった。
しかし、さすがにゴーストの位置取りは最初より低くなって、他の人々もその姿に気が付き始める。点々と空へと顔を向け、次第にザワザワとした喧騒が湧き上がってくる。前で滑らかな演説を披露していた校長もその会場の変化に口を閉ざす。そしてまっすぐに向けた視線の先にある影に視線を留めて、首をかしげた。
と、会場の全員が、不思議な影に気がついた頃……人の形をしたゴーストは緩慢な動きを完全に止めた。当然人々は、その不思議な影の動きを伺う。
果たして何人の人がゾンビの話を知っていて、あのゴーストに危機感を感じているものかはわからない。例え知っていたとして、八尋のように動きを止めてしまっているのなら意味は無い。そう考えてみると、未だ誰も席を立たないこの状況は少々マズイと言える。
動けない八尋は早くなる自分の鼓動を感じながら、ゴーストの一挙手一投足に意識を向けざるを得ない。
そして、ようやくゴーストは動いた。
しかしゆっくりだ。
先程と同じように緩慢な動きで空中を下る。
しかし今度は、その視線が目指す先がハッキリしている。
その凍えるような目はしっかりと、八尋の方へと向いていた。
――動け。
胸が痛い。心臓がはちきれそうな程に鳴動している。
――動け。
死が近づいているのがわかる。
――動け!
ひときわ大きく願った3回目。ここでスッと、脳がクリアになった。
慌てていたときの視界の狭さが嘘のように、世界が鮮やかに彩られる。
心臓の鼓動は小さくしぼむ。まるで無くなってしまったかのように。
そして、ゴーストは一瞬だけ止まった。しかし直ぐにまた動き始める。
ふよふよと八尋の方へ。でも狙われているはずの彼は、不思議と落ち着いていた。
間もなくしてゴーストは動きを止める。今度は先ほどのように躊躇った様子ではなく、確かに獲物を見据えた確固たる意志による静止だ。
位置は、八尋の前に座る男子の対面。
こうしてみると浮いている分頭が高くなり、目の前の男子はゴーストの顔を見上げる形となる。八尋の方から窺えるゴーストの顔は冷たい。男子は背しか見えないために表情は伺えないが、きっとそれはそれは恐怖によって顔を歪めていることだろう。
ゴーストは力なく下げていた腕をゆっくりと持ち上げる。その先は男子の胸のあたり。
ここで一拍。
そして半透明な腕が男子の胸に突き刺さった。
近くにいる人々の息を飲む声が聞こえる。八尋からはしっかりと確認することは出来ないが、確かにゴーストの手は男子の胸の中に埋まっているのだ。それは見ているものたちに恐れを抱かせるには十分な材料となりうる。
もちろんそれだけで終わるはずもなく、結合部から小さな光の粒が漏れ出してくる。その色は血と錯覚してしまうように濃い赤。昨日、世界を覆った緑の粒子に限りなく似ている。
「ひあ……うぅ……」
静まり返るホールの中に、男子の小さな呻きがよく通る。しかし、ゴーストの手にかけられている彼に手を貸す者は誰もいない。ただひたすら黙って成り行きを見守っている。
それを良いことに、ゴーストは緩慢な動作のまま……ゆっくりと手を引き抜いた。
その動作に引かれて、男子の内部から、それこそ血のように粒子が勢い良く吹き出す。
ただ八尋は、たった今引きぬかれたゴーストの手に視線を注目せざるを得ない。
何か結晶のような物が握られているのだ。そして粒子はそこから滲み出しているように思える。
まじまじと見ている間も無く、前に座っていた男子の体がゆっくりと傾いていく。その向こう、両手で結晶を大切そうに持っているゴーストはそれをゆっくりと口へ運んでいる。その姿はまるで、魂を抜き取って咀嚼しているよう。
ドサリと、男子の体が地に伏せた。その顔は苦痛に歪み、開いたままの目は白く染まっている。
そこでついに、静寂が弾けた。