5話 日常は彼方へと消えて

 ただ、外に出たからといって油断するわけにはいかない。その程度の考えくらいは今の八尋でも持ち合わせていたために、彼は素早く頭を左右に振る。
 裏口というだけあって人影は無い。長方形の網目で造られた緑のフェンスと、学校の敷地内を隠すように木が立っているだけだ。が、その視線を上へむけると空には数体のゴーストが漂っていることが確認できる。

「やっぱり、世界中が……」

 ちょうどホールから抜けだしてきた人の塊を見つけ、そちらへ向かっていくゴーストは、幸いにも八尋たちの方を見ていない。その御蔭で八尋が動きを止めていても何ら問題は無かった。

 キリリとした表情で、頼りがいのある男子だったはずの八尋は、今やどこに居てもおかしくはない気弱な男子へとなり変わってしまっている。気弱、というよりは通常の高校生ならば当然の反応かもしれない。

 ただしかし、その変化は彼の落ち着きを頼りに付いて来た少女にとって、見過ごすことの出来ない大問題なのである。

「あの……これからどうするんですか?」
「えっ、と。どうしましょうか。取り敢えず近くの建物に……いや、でも意味ないのかな」

 助けが来ないことは決定的に明らか。どこかへ逃げるにしても、物質を透過してくるゴーストには壁など意味を成さないだろう。
 さてこの状況、どこへ逃げるべきか。

「あ、母さん……」

 自らのなりふりを決定する前に、八尋の頭には家で寝ているはずの母親の姿がよぎった。夜通し働き、その疲労を寝ることで癒やしている途中の彼女は間違いなく世界の情勢に気づいてはいない。

 あの最低な父親と縁を切った八尋にとって、母親はたった一人の家族だ。現在の状況で心配にならないはずが無いというもの。そしてその考えが浮かんでしまえば、今度はそれを振り払うことが出来なくなる。八尋の頭のなかは母親への心配で覆い尽くされた。

「僕は一回、家に帰るよ」

 それでも、自分を頼ってきた少女を放っておくわけにはいかない。絶望的な状況に晒され、その中からでも何とか助かった事を考えれば、少女と八尋は同じ境遇だ。なにより、自分を頼ってきた女の子をこの無法地帯に残してはおけない。

 決して特別気が強いわけでも無く、ただほんの少しだけ優しい八尋は震えそうになる声を押し殺して、なんとか平常を装った声で言う。その言葉に、少女は少しばかり俯いた。なにやら考えている様子である。
 そして数秒、それから少女はゆっくりと顔を持ち上げてくると口を開いた。

「おい! こっちだ! 助けに来たぞ!」

 しかし、その小さな口から声が発される前に、横から突き刺さるように鋭い声が2人の元へとやってくる。切羽詰まったような男の声と、それに付随して微かに人々を誘導するような小さな声。そしてパニックに陥った人々が漏らす歓喜の声。
 さっきの声の主は確かに、人々を救いに来た者のようだ。

「あっ! 助けてくれるそうですよ! 行きましょう!」

 この絶望の中で差し込んできた光は、少女にとって大きな希望となっただろう。ただ生き残りたいだけの彼女が、別に今日知り合っただけの何も知らない男子生徒に着いていく義理は無く、既に気持ちは助けに来た人物たちの方へと向いている。今となっては頼りのない八尋にかけた言葉は、最後の慈悲のようなものだ。
 今にも走り出しそうな少女。その姿を見て、八尋は少しうろたえた。

「いや、僕はちょっと……」
「じゃあ私は行きますよ!」

 最初の頃は大人しそうに見えていた少女は、八尋の言葉を最後まで聞くこと無く走りだす。その顔はホールから出てきたとき八尋の変化を見た絶望的なそれとは打って変わって、満面の笑みで彩られた輝く笑顔だった。

 八尋はそんな彼女の動きを見ていることしか出来ない。どうせ止めても自分には守れないし、自分のわがままに彼女を巻き込むわけにはいかない。

 しかしあの助けに来たという人々は、どこか胡散臭い。半透明なゴーストたちをどうやって打ち負かしているのか……裏口から出てしまった八尋に、それを知る術は無いのだ。声だけは聞こえるものの、救助隊の姿は全く見えないのだから。

「いや……でもこんなことしている場合じゃないな」

 ただ今は、少しでも速く家へと戻りたいところ。そこで八尋は、建物の影へと姿を消す名も知らぬ少女から視線を切ってフェンスへと向ける。わざわざ表門へと回っているより、そこから乗り越えてしまったほうが明らかに速いのだ。

 緑の細い線から灰色の地面へと足を着けると、一気に蹴り飛ばす。
 上空を漂うゴーストなど遅すぎて話にならない。時折徘徊しているゾンビも同じく、ただひたすら全力で駆けていれば捕まることはない。

 むしろ問題なのは、パニックに陥っている人間たちの方だ。
 そこかしこから車のクラクションが聞こえてきて、中には既に追突し終えて動きを止めている車もある。全ての公共交通機関機関が停止しているようで、10分ほど走って辿り着いた駅には大量の人が殺到して凄まじい罵詈雑言が飛び交っているようだ。

「邪魔だ……」

 八尋の家は、その駅の向こう側。人によって埋められた空間を押しのけて進もうにも、パニックになって暴力的な集団の中を進むのは躊躇われる。駅を目の前にして八尋は、そのロータリーで人がひしめく様子を見るしか無かったのだ。

「くそ……」

 地を走る線路が行く手を遮る。駅が近いがゆえに踏切の無いこの辺りは、向こうへ渡るのに駅を通るのが必須となる。むしろ駅さえ越えてしまえば、家にはもうすぐたどり着くのに……歯がゆい思いで八尋は立ち往生していた。

 しかしどうしようも無い。
 たった一人の力では、あんな人間たちを退かすことはできないのだ。
 だが……それが異形の生物だったのなら?

 人を狙っているらしいゴーストたちが、このような人の密集している絶好の地を逃すはずはない。

「おいあれ!」

 偶然、八尋のすぐ横で天を指差しながら叫ぶ男がいる。八尋も自然とその指に釣られ、天を仰ぐ。その驚きようからして、この辺りには見受けられなかったゴーストが来襲したのかと身を硬くしたところで……しかし今回は、その予想が完全に外れた。

 ウオオオォォォォン

 と、いななくような声を上げて、巨大な金属の塊が落ちてくる。その白い金属からは無数の影が突き出していて、中にはいくらかのゴーストが居ることがわかる。

 その金属とは飛行機だった。
 天を行く飛行機が運悪くゴーストの標的となり、機長か誰かが被害にあったのだろう。そして操作が不可能となった飛行機が推力を失って落ちてきた。その落下点が、人のひしめく駅。

 八尋の頭上をうなりが通り過ぎ、それにそって八尋の頭は駅の方へと縦回転する。
 それなりの速度が出ていたらしい飛行機は、その速さを保ったまま、まずは駅の前で落ちてくる飛行機を発見して逃げようとした人々を容赦無く轢き潰す。
 まだ、その塊は速度を落とさない。

 コンクリートの地面の上で火花を散らしながらスライドしていった飛行機は、そのまま駅の入り口に突き刺さった。大きな駅はその衝撃で一気に崩れ、丸く滑らかな形となっていた飛行機の最前面はぺしゃんこに潰れる。
 果たして、そこにいた人々はどうなったのか……想像する必要もない。

 地面に落ちた衝撃で漏れだした燃料に、火が着いたから。駅にあった全てが爆散して火の中に包まれてしまった。

「えっ……」

 飛行機の被害を受けなかった全員が、その光景に動きを止める。
 やかましく響いていたクラクションも、怒声も、全てが消えて、聞こえてくるのは勢い良く燃える炎の音だけだ。

 そのオレンジ色の中から、ニュッと影が出てきた。
 そこで静止していた人々の時間が戻ってくる。

 大勢たまっていた人々が全て消え去り、そしてゴーストが現れる。生き残った人々は精神的にも大きなダメージを受けたことだろう。

 先程までは何とか平静を保っていた人々も、半狂乱となって散り散りに走り始めた。未だ車に乗っていた人に限っては、歩く人々などを無視して自身が助かることだけを考えている。
 世界の崩壊は止まらない。

相羽 桂
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相羽 桂

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