8話 世界に慈悲あらず

 大きいがゆえに強い存在感を放っている八尋の家。接する道に人影はなく、不気味な静けさが漂っている。

 外の恐怖に怯え、家の中にこもってしまった人もいることだろう。もしくは家族の通勤を見届けて、何も知らぬまま再び眠りに着いた者もいるかもしれない。そのどちらを選んだとしても、結果的には正解だった。
 なにせ住宅街にはゴーストすら居ないのだ。

 彼らは大勢の人々がいるほうに惹かれ、人が居なくなってしまった平日昼間の住宅街には見向きもしなかった。気持ちとしては誰かと共に居たいと思うだろう。混沌としたこの状況であれば1人は不安だろう。だが今回、その選択は悪手となった。

「さて……」

 家の前へと辿り着いたところで八尋は一度立ち止まった。そこで何となく自分の体を見下ろすと、ほどなくして顔を前へと戻す。自身の体に白い光が纏い付いていることを確認したのだ。

 いつ霧散するかも解らない光ではあるが、少なくともこれがある限り八尋の力が無くなることはない。逆に言えば、その光が無ければ八尋はただの人間でしか無い。ただひたすら逃げまわり、それでもゴーストに捕まってしまう人々と同じだ。

 ――外から観た限りは……大丈夫か。

 朝、出て行ったときから変わらぬ家の様子に、ひとまず八尋は安堵する。学校からここに来るまで30分ほど、ずっと家に残った母親の身を案じていたわけだが、考えもなしに突撃するほど今の八尋の思考は鈍っていない。白い光が冷静さを与えてくれているからだ。

 ゴーストには壁など意味を成さない。どこに傷を着けることもなく建物の中へと入ってくることができる。平穏な住宅街ではあるが、もしかするとそこらの家の中は悲惨な状況になっているかもしれないのだ。

 だが行かないという答えは無いわけで……八尋はすぐに一歩を踏み出した。
 いつもより重く感じる扉を慎重に開く。朝、鍵を閉めるのを忘れたことを知って、背筋をひんやりとした電流が流れた。が、そんな物はこの際気にしてはいられない。

 靴を脱ぐことはなく、八尋は土足のまま家へと侵入した。
 日差しが届かないゆえに暗い廊下、その木製の床を踏みしめて、歩く。目指すのはすぐそこにある母親の寝室兼仕事部屋だ。食事以外で中々自室より出てこない彼女は、間違いなくそこにいる。

 玄関からリビングの間、白い扉の前で八尋は再び動きを止めた。そのドアノブに手をかけてゆっくりと開いていくと、部屋の中を満たしていた光が廊下へと漏れ出してくる。腕を前へと押していくごとに段々と光の筋は大きくなっていき、扉が半分ほど開いたところで……

 部屋の中から、白い光を押しのけるように緑の粒子の奔流が溢れ出してきた。

 八尋は即座に扉を開く。全力で開け放たれた扉は大きな音を立てて静止した。
 そして部屋の全体が彼の目に入ってくる。

 母親の性格をよく現し、しっかりと整頓された綺麗な部屋。壁際にシンプルな椅子と机が置いてあり、その上には商売道具のノートパソコンが開いたまま置かれている。そして広い部屋の中でも結構な存在感を放つのが、1人で使うには大きすぎるベッドだ。

 八尋の視線は部屋の中を余すところ無く彷徨って、そしてベッドの上で止まる。
 部屋は緑の粒子で満たされていた。それは昨日の、世界を覆った粒子よりも薄く、細かい。今、八尋に纏わりついている粒子の色違いといって遜色はないだろう。

 その粒子が色濃く漂っているのが、ベッドの上だ。同じ部屋の中であるはずなのに、なぜかそこだけ色が濃い。よくよく見ればその色の濃さは、人型を取っている。

「おい……」

 緑色の粒子……ではない。緑色の陰が、ベッドの上で水平に浮かんでいる。
 陰の手はその正面、ベッドの方へと伸びていて……そこには当然、眠っている八尋の母親がいる。

 母親は微動だにしない。それもそのはず。緑色の陰、ゴーストの手に、同じく緑色の結晶があるのだ。更には母親の胸から粒子が噴き出している。
 学校でゴーストにより1人の男子から引きずり出された結晶と色だけが違う物。それを見ただけで、八尋はここで何があったのかを瞬時に理解した。

 だから足に力を入れる。そして世界の動きが遅くなる。
 八尋の目の前で、ゴーストの腕がゆっくりと口元へと向かっている。結晶をその身に取り込もうとしているのだろう。これまで見てきたゴーストたちと同じように。

 一歩、そして二歩。八尋がベッドへ近づくたびに結晶も口へと近づく。
 後二歩。それだけで母を襲ったゴーストに触れられる。しかし、それでは間に合わない。結晶は今にも、半透明なゴーストの口の中へと吸い込まれようとしているのだ。

 思い切って八尋は床を蹴りこんだ。
 ベクトルは上方向にも働いて、八尋の体が持ち上がる。
 彼はゴーストへ飛び込んだ。半透明なゴーストに触れられるとは思えないが、飛び込まずにはいられなかった。決して冷静さを欠いたわけではなく、これは反射的な動きなのだから仕方がない。理性の働く隙もない行動だった。

 時間が引き伸ばされてゆっくりと動く視界の中で、八尋はまだ残る冷静さを振り絞って手をゴーストの口元へと伸ばす。
 その手が、ゴーストの陰へ消える寸前の結晶に触れた。触れられた。

 飛び込んだ勢いに押されてゴーストの半透明な手から結晶が飛び出していく。そしてコトンと、澄んだ音を立てて床を転がった。それは白い壁まで行ってようやく動きが止まる。

 しかし八尋の体は止まっていない。思いっきり飛び込んだエネルギーが結晶を弾いただけで消えるはずもなく、少し体を丸めた彼は肩からゴーストへとぶつかった。予想とは違って通り抜けることはなく、まるで人間に突撃したときのような衝撃と、体の柔らかさを感じる。

「ぐ……」

 予想外の痛みにうめき声が漏れ、そのままベッドを通り越して床へと落ちた。ゴーストは無言のまま、体当たりの衝撃をモロに食らったことで壁をすり抜けて視界の中から消えていく。

「っく……」

 肩が割れそうな痛みに包まれながらも八尋はすぐさま立ち上がった。視界の端で捉えていた結晶の方へと視線を向けて、壁で止まっているそれを見つけると飛びかかるようにして手にとった。それからは一瞬で動きを切り返すと、ベッドの上で横たわる母親の元へ急ぐ。

 結晶を抜かれた彼女は、苦悶の表情でこの世を去った男子生徒とは違って、眠っているのと何ら変わらない表情だ。ともすれば目をこすりながら今にも起き上がりそうなほどに穏やか。しかし確かに心臓の動きは止まっている。

 ――でもこれを抜かれて死んだのなら、戻せばなんとか……。

 母親の中から抜き取られたのだろう結晶を、今度は逆に胸元へと持っていく。そこから出てきたのであれば戻すことも可能なのでは無いかと、そう思うのは自然な思考の流れだろう。

 だが、いくら結晶を胸に押し付けても、柔らかな抵抗が返ってくるだけ。例えば八尋の手が、人体に傷一つ着けること無く体内へ侵入できないように……結晶も母親の体の中へは戻って行かない。

「そんな……」

 八尋の頭の冷静な部分では、すぐにここを離れろと囁いている。もう母親は助からないと、去っていったゴーストが戻ってくると、そして死体となった母親が……立ち上がると。

 学校で見た男子生徒がゾンビ化するまではあっという間だった。それを考えれば、目の前で横たわる母親が命のない人外となって立ち上がるまでも長くは無いだろう。それを踏まえて、彼の極限まで冷静に保たれた頭がはじき出した答えだ。

 一度、しっかりと母親の顔を見る。
 数秒して彼は視線を切った。
 結晶は持ったまま、身を翻して部屋から出る。
 ゆっくりと扉を閉めたとき八尋は、頭の中と同じように、これ以上に無いくらい冷めた無表情を作り出していた。

相羽 桂
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相羽 桂

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