16

 

 三度の山道、それも今度ばかりは底の知れぬ井戸のような山道が、灰島新の目には映っていた。いくつかの市街、いくつかの田園、いくつかの県境を越えてきたはずで、車は相当な距離を南下したはずだった。途中、意図せず眠ってしまったために曖昧であるが、12時間は経過しているように思われた。少なくとも、逃避の眠りよりも前に日は没していた。

 外の景色に反して、車中には動きがほとんどなかった。ショウジと言ったか、助手席の男と、運転手の男がこれまで発した言葉といえば事務的な二言三言程度で、イヤホンをしたマネキンが2体そこに置いてあるかのようだった。時折、ショウジは身に付けたハンズフリーに向かって事務的な二言三言を吹き込んでいたが、内容はよく聞き取れなかったし、そこで敢えて耳をそばだてることもしなかった。

 新はひどく疲れていた。今朝までの機械的で汗臭い怠惰な地獄からの解放と、まだ見ぬ新たな地獄へのドライブが、輪を掛けてひとりぶんの頭に重くのしかかっていた。毎日決まった時間に寝起きしていたにもかかわらず襲った眠気は、自衛の本能から来たものであっただろう。いくらか回るようになった脳味噌で振り返るうち、新のもとに忘れていた尿意がやってきた。

 「すみません、トイレ、どこかで……できませんか」

 返事はない。聞こえているのかいないのかさえも定かでなかった。新の声帯は今日最初の長丁場をぎこちなく終え、小さな咳払いを残して再び沈黙した。運の良いことに、尿意もそれに倣う放物線をゆるやかに描き、とりあえずは鎮まっていった。あまり配湯(はいゆ)に手をつけなかったのが幸いしたようである。

 新は、後ろ手に拘束された腕が痺れないよう体勢を変えた。線香のような匂いが染みたシートに身体を預けると、自ずと顔が窓のほうを向いた。気付けば、窓に反射した輪郭の不確かな瞳の奥に、実感と麻痺が宿っていた。そう、これまで通りだ。これまで通りおまえは無実の罪で死刑を控えていて、これまで通り孤独にその日を待つのだ。独房の場所が変わるから何だ。おまえはまだ死んじゃいないから、小便だってしたくなる。無意味にマスをかいたってそれまでだ。なんなら不治の病で寝たきりの人間よりよっぽど自由だと——。

 いや、それはさすがに安直ではないか。「あなたを殺します」と宣告されたのだ。この状況でそう考えていられたらどんなに良いだろう。くそ。くそ。

 車は橋に差し掛かったようで、窓外を異様に高く造られた欄干が流れ始めた。欄干の向こうは暗黒である。

 「まもなく到着です。執行官は監督官の指示に従わなければなりません」

 唐突にショウジが声を発した。しかし言葉の大半は咀嚼を待たずに耳から耳へとすり抜けていった。

 「え、あの、執行官っていうのは、なんですか」

 またも返事はない。新は、ショウジが「監督官」と名乗ったことを覚えていた。「執行官」ではない。今の言葉もこちらへ向けられたものに聞こえた。おれのことを「執行官」と呼んだ?

 思う間に橋は終わり、点在する街灯をいくつか過ぎた。そして、しばらくぶりの対向車が1台。シート越しにショウジの影が身動きした。やがて車は山間の国道を脇に逸れ、路上に散乱した枯れ枝や砂利石を踏む音と共に停車していた。

 あれ、と新は声を出しかかった。目的地ではないらしい。

 前方は行き止まりになっていて、フロントガラスの先に舗装の途切れた道を塞ぐ鎖が照らし出されて見えた。そこにぶら下がった看板の警告は「立入禁止」である。また、新の数メートル左に並ぶ看板は赤地に白い文字の「銃猟禁止区域」と、退色したリスのキャラクターが描かれた「山火事注意」である。後方の国道と合流する地点には「その他の危険」のエクスクラメーション・マークもあった。

 ショウジは改めて通信先、そうでなければ運転手に何事か呟いたのち、車を降りて外から後部座席のドアを開け放った。もしや、また別の車に移らなければならないのだろうか。

 「執行官は、降車して監督官の後に続かなければなりません」

 短い沈黙。新はショウジの人相をやっと認識した。昔ならロンパリと言うのか、つまりは斜視の男であった。そのショウジも運転手も、再びマネキンのようになって動かない。このまま自分が動かないでいれば、いつまででも沈黙が続くのではと思われるほどだ。

 もしくは、強制的に従わされる。新は降車し、歩き出したショウジに続いた。それ以外の手立てはついに思い付かなかった。

 近付くと、風化した「立入禁止」の看板には小さく「私有地につき」とあった。が、ショウジはそんな文言など見向きもせずに、鎖を跨ぎ暗闇へと沈んでゆく。常に開かれた場所を歩いてきた新は初めて脚の重さを思い知ったが、運転手の無表情に背を突かれ、境界を越えていった。

 みるみるうちに一変した。車内から見えた周囲の様子は、管理された広い道路を背にしていることもあってか、さほど深くない雑木林を新に想起させていた。しかし明かりが失われるにつれ、枝葉は鬱蒼と繁り、根系は躓きを誘う、黒い山の夜が塗り込められていった。春だというのに、首元を過ぎる風は朔風のごとく冷たい。

 夜と同じ色の喪服を見失わないよう、新は懸命になって土を踏んだ。枝や茎、蜘蛛の巣や羽虫を払うためには腕を使う必要があったが、尻の辺りで手錠が擦れて鳴るばかりだった。少しして、見失いつつあったショウジがいるはずの前方から、別の金属音が鳴った。同時に薄弱な黄色味がかった光も点灯した。頼るべき音と光のもとへ急いだ新は、木々の間を縫って左右に延々と続く、錆びきったフェンスの前に飛び出していた。

 高さ4〜5メートルはあろうフェンスの頂上には非常に刑務所的な有刺鉄線が光り、網には目の高さを中心に点々と、その内外から言語もまちまちな警告文が結び付けられている。新が全景を認めるまでに、懐中電灯を手にしたショウジはフェンスの一角に造られた扉の南京錠を解き、さらに奥へと沈潜していった。もはや振り返ることすら恐ろしく、新もそれに従った。監視カメラの下、四角の穴をくぐり数歩。振り返ると、内側へ通告する「通常法規適用外」の文字である。後だろうと先だろうと、後悔とショウジ以外の何者かが立つよりはマシに思えた。

 道はいっそう道らしさを失って続く。階段と呼ぶにはあまりに粗末な石片の足場を、新は斜面に突き刺された金属棒とその間を渡る藁縄だけを手掛かりに四苦八苦下っていく。新がショウジに追い付いたのも、橋から見たあの暗黒の底へやってきてしまったことに気付いたのも、やっとの思いで斜面を下りきったあとのことだった。

 「速やかに房へ向かいます。通常は照明が点灯しています」

 言いながら、ショウジが土臭い地面を懐中電灯で示した。他は見渡す限りの真っ暗闇である。ただ一つ、遥か右方俯角気味に人工的な灯りが白っぽく見えたが、何の光かまでは判らなかった。示された道のりを行くうちに、光は進行方向に移動した。

 房まで続くとされる道は決して広いとは言えず、凹凸と、草や泥の塊が足の裏を苛む悪路だった。さらに幅の狭い道が間隔を置いて左右に枝分かれしており、それらの間に畑や田圃らしき土地がある。全体が緩やかな下り坂になっていて、水の流れる音もどこからともなく聞こえてくる。ただ、頰まで肌を粟立たせる、どろりとぬるい空気が常にまとわりついていて、経路を愚直に進む間じゅう、新はいるかもしれない誰かの視線に背筋と首筋を強張らせていた。わずかに、ショウジから父や兄の匂いすら感じた。

 1年ほど前、織田が教えてくれた父の死因は自殺であった。寡黙ながら社交的で、威風堂々たる法律学者。その父が自殺したなどという話は、亡骸を見たわけでもない息子にとってまず信じがたい話だった。父の友人でもあった織田の口から「転居後は投石などの被害もなくなった」と聞いていただけに、その死の報せは陥穽(かんせい)となって新を呑み込んだ。それからすぐ、母と伽那も行方不明になったと聞く。

 「到着です」

 ショウジの声が立ち止まったので、新も立ち止まった。が、白い灯りは近づいてこそ来たものの、依然として遠くに見えたままである。ショウジがこちらの背後へ回り、二重になった鍵の一方を解錠しながら言った。

 「以後執行官は、手錠の前面拘束が許可されます。開錠後は速やかに両腕を」

 ふうっ、ふふううっ。

 強い衝撃が加わり、身体が横にすっ飛んだ。ショウジが突き飛ばしたのだ。

 「ううううあ!!」

 寸前まで目の前にあった暗がりから腕をめいいっぱい振り上げた男が現れ、ショウジに向かって突進していった。一心不乱の様子で手に持った何かをショウジへ叩きつけようとする。

 「ああ!ふ、うううっ」

 ごきり、と骨肉が鳴り、突進男は蹴り潰された左の下腿から倒れて膝をついた。ショウジは闘牛士の体捌きで男をいなしながら一方の手で左腕をひねり上げ、もう一方の手でその頭頂部にくぐもった音を炸裂させた。

 パン。ショウジが腕を放すと、男はそのまま俯(うつぶ)せに倒れて動かなくなった。ショウジは淡々と減音器のついたニューナンブM60を喪服の内に隠し、男が潜んでいた暗闇の中へ向かった。土に尻を置いたままの新は、ショウジが独房のありかを示す電球を点灯させるまで、横たわる中肉中背をただ呆然と眺めているだけだった。

 ぱっ、と視界に光が差した。その眩しさへの順応が始まると、次第に眼前の施設の姿が明らかとなった。木造2階建てのボロアパート。目に映る印象だけで言えばそうなる。ショウジは、上階へ向かう階段のそばで電球の光を受けて立っていた。電球のほかに通路を示す蛍光灯が点いていることから見ても一応の管理はされているらしいが、この世の熱を感じないその外観はまさに廃墟であった。
 
 「どうぞ、こちらへ!」

 廃墟と屍体を見比べ、新はショウジの元へ逃れた。ショウジは手錠を掛け直したのち、襲撃者または次なる襲撃者に怯えたままの新を2階へ促した。ショウジのオックスフォードは動かない。

 「行けって、ことですか」

 「執行官はこれまでと同様に、独房内および部落内にて刑の執行まで待機しなければなりません」

 部落、とは確か集落とか村とかそういったものとほぼ同義ではなかったか。やはりここはフェンスの内側に掲示された看板の通り「通常法規適用外」の「涌沢(わくさわ)村・音無(おとなし)部落」なのである。

 「いまの……あれ、もういないですよね、ああいうの」

 人ひとりが目の前で死んだらしいというのに、新にはその実感がなかった。それよりも、我が身に危険が及ぶのかどうかが問題であった。見ず知らずの人間が訳の分からない死に方をしたところで、いつぞやのランニングウエアがトラウマのように思い出される程度なのだ。

 「ええ。当面は」

 なぜか気味の悪い薄ら笑いを浮かべながら、ショウジは初めての返答をした。その言葉に飲み込めない何かを感じながらも、「部屋」というものを間近にして蘇った尿意と疲労から、新は赤錆色の軋む階段を一段一段上がっていった。最上段に足をかける頃には、そこから続く共用の短い廊下が現れ、並んだ5部屋のドアを照らす蛍光灯の不快な明滅が、新の顔にも注いでいた。

 「これ、どこに入ればいいんですか」

 振り返るが、階段の下にショウジの姿はなかった。見回してみても、生きているものの姿はどこにも見当たらない。死んだ男の姿すら、ほとんど闇に溶けてしまっていて判然としない。進むほかないのだ。

 可能な限り死の恐怖から離れるため、新ははじめに階段から最も遠いドアノブを回そうとした。ところが、何かに引っ掛かって動かない。鍵がかかっているのかもしれなかった。仕方なしにひとつ隣のドアノブを引いてみると、どうやらこちらは開くようである。

 開けて、新は思い知った。間違いなく、ここは独房だったのだ。どこからかぬるい風がやってきて、住んでいた誰かの汗と脂と涙の臭いを顔じゅうに吹きつける。

 手元の突起を押し込むと奥の天井から垂れ下がったオレンジ色の電球が点き、便所と浴室らしき設備が居室とは別に、より出入口近くにあることが分かった。拘置所の独房よりも間取りに余裕があり、見える居室もさほど狭いものではない。が、その代わりに、目に入るもののほとんどがその耐用年数を数十年単位で超過したような有様だ。

 畜生。

 新は鍵の壊れたドアを閉じ、嘔吐に似た嘆息をつき、土足のままで反りかえった床板を踏んだ。糞尿飛び散る和式の便所でようやく用を足し、居室の隅のささくれ立った藺草(いぐさ)に腰を下ろした。どんな毒虫、どんな穢れがあるか分かったものではないため、立てた片膝の上で両腕を手錠ごと手前に返し、そこに額をのせる形で目を閉じた。検察庁で身に付けた眠り方である。電球は消せなかった。

 膀胱が空になった安堵からか、張っていた糸がふつと緩んだ気がした。ぷつと切れたのかもしれなかったが、いまの新にはどうでもよかった。何にせよ、恐ろしく長い一日が終わり、永遠かもしれない眠りの世界へもうじき落ちていくことができるのだ。

 おやすみなさい。などと呟くこともできずに、新は気絶のごとく思考を失った。

 

竹橋 夢仁
この作品の作者

竹橋 夢仁

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