0 その男
粘着質な水音が近付いてきたら、決して足を止めてはならない。
振り返っていいのは、水音が止んだ時だけだ。
忠告を無視すれば、お前もその水音の仲間入りをするだろう。
中央大陸の西に位置する小さな国、パルス共和国。魔導機械工業で栄えるこの国の王都で、いつからか、その噂はまことしやかに囁かれ始めた。
水音。その音は、深夜どこからともなく聞こえてくるという。子供を寝かしつけるための戯れ言と受け取った人々が、一人消え、二人消え……噂が広まるのと同時期に、行方知れずになる人々も増えていった。
人々は日が暮れると、家の中に閉じ籠る。例え、壁を何か粘着質なものが這っていくような音がしても、決して窓や扉を開けて確認などしない。ただじっと息を潜めて、夜明けを待つのだ。
そんな、夜の帳の降りた王都の路地裏。足を引きずった猫の他には誰もいないが、微かに酒臭く、月の光もささない薄暗い石畳の道に、足音が響いている。足音、と呼ぶには、奇妙な音だった。靴や裸足で歩いているような音ではなく……言って見れば、骨を打ち付けて歩いているような、人の気配。
その謎は、妙な音を立てているその人物の足を見れば容易く解けるだろう。骨を外からはめ込まれたかのような両の足と左腕。そして、斜めに顔を切られたかのような、左眼を通る傷跡。一度見れば、その姿を忘れることはできないはずだ。
男の名前はニスタ。災厄の男として指名手配を受ける、重罪人だ。
男は上半身には何も身につけず、鉈のような大剣を肩に担いでいる。その男の左肩が、蠢いている。人の顔だ。筋組織の剥き出しになったような肌の上に、苦悶に呻くような顔が浮き出ている。よく見れば、それが意思を持った何かの寄生した痕だということが分かるだろう。その痕は腹にも、右目にも見て取れる。
「誰だ? 誰だ俺を呼ぶのは?」
楽しげに口元を歪め、ニスタは路地裏を闊歩する。
「愉快だなぁ……こんなに"太陽"の綺麗な日は、殺さなくっちゃあいけねえなぁ?」
その背後から、ぬちゃり……と粘着質な水音が響いた。