「ここは……。未だ、僕は生きているのか……?」
 思わず発した第一声。
「やあ、眼が醒めた様だね……。今の状況が解るかい?」
 混濁した意識の中で、近く遠く反響する様な、何者かの声が段々と現実感を伴わせる。母性的な程に柔和な声音を放つその男性は、染みの一点も無い、抜ける様に鮮やかな白衣を身に纏ってベッドに横たわる僕の寝顔を覗き込んでいた……。
 その制服を一見し彼の職業を察する事で、僕の脳裏では紐解く様に前後の記憶が蘇って来る。
「先ずは落ち着いて、このお茶でも飲むと良い……」
 艶然とした微笑みを湛えた彼は困惑を隠し切れない僕の眼前へ、女性の様な細長い指先からティーカップを差し出して来た。
 ふと、何かその場で息衝く様に生々しく紅茶の湯気と芳香が立ち昇る。
 僕が遠慮がちにその琥珀色の液体を啜ると紅茶の熱味は舌を灼き、思った以上に渇き切っていた咽喉を潤して行った。
 医師はその様子を努めて冷静に眺め、こちらが事態を把握し、遡って語り始める事を寛容に待ち続けている様子だった。それは恰も、信者が叫ぶ罪の告解を神妙に聴き入れようとする牧師の様に……。
 ……そう。自殺率が上昇し続けている社会情勢の中で、僕は御他聞に漏れず人生に行き詰まり絶望の淵で漂っていた。
 自殺願望は、日が傾くに連れて色濃くなる影の様に段々と輪郭を帯びて行く。しかし孤独や苦痛の只中で死に行く恐怖はこびり付いた黴の様に拭い落とす事が出来ず、心身共に躊躇い傷を増やして行くばかりの日々……。
 独りでは死に切れないと自覚した僕は、何時しか自然と心中してくれる仲間を欲し始めていた。そして現在ではネット上で氾濫している『集団自殺ツアー』の募集を見掛け、参加を表明したのだった……。
 震える指先で連絡を取り付けたものの、その後の手筈は順調だった。企画者が用意したバンに参加者達で乗り合わせ、人気無き山中で睡眠薬を服用してからの練炭自殺。共に死に行く仲間達が居る事で恐怖感は紛れる上に、例え翻意しようとした所で退路は無い……。在るとすれば、死だけが最後の逃げ道だった筈だ。
 しかし程無くして薄暗い周囲を見渡すと、先程対面したばかりだった自殺志願者メンバー達が大仰な医療機器に全身を繋がれ寝かし付けられている。何十人もが悠々と横たわれる程に広大で、消毒薬特有の刺激臭で満たされた殺風景な部屋。
 僕達は意識を喪失して行く途中、近隣住民にでも偶然現場を発見され救助されてしまったのだろうか? 状況を把握し切れず怪訝そうな表情を露わにした僕を見て取り、医師は疑念を解す様にと、殊更その場には似つかわしくない程の快活さで応え始めた。
「ここは何処か、不思議そうな顔をしているね……? 取り敢えずは安心して欲しい。他の者達は未だ睡眠状態だが、誰一人死んでいないからね……。ここは自殺未遂した者達を専門的に回収し治療に当たる特殊機関の一室なんだ。今迄自殺を完遂させずに全ての患者を社会復帰させて来た成果から、通称『死体無きモルグ』と呼ばれたりもする。フフッ、ちょっとこの呼び方だとおどろおどろしい気もするがね……」
 自嘲気味に笑う彼は自身の紅茶を徐に口へ含んだ後、打って変わった真摯な眼差しでこちらを見据え直した。僕も思わずはっと息を呑み居住まいを正す。
「さて、本題に入ろう。単刀直入に言うと数時間前、君達も矢張り集団自殺ツアーを企画し、密閉させた車内で決行した……。そうだね?」
 胸裏で何処か言い知れない後ろめたさが疼き、罪悪感の針が止め処無く奥底を突き刺して来る。
 ……今更、弁解する事も出来まい。僕は殊勝顔で頷いた。しかし予期した反応とは裏腹に、彼は僕達の動機を根掘り葉掘りと探るでも無く、自殺行為そのものに関しても侮蔑や批難めいた気色は一切浮かばせて来なかった。そして自身の弱さを激しく叱責されるかと怯えを隠し切れなかった子供の様な僕を横目に、彼は朗々と現況迄の説明を続けるのだった。
 ……機関の人間は自殺の名所とされる様な土地を見定め、民間人には気取られぬ様にその周辺で常駐し監視作業をしていると言う。そして、自殺志願と思わしき者達が現れれば即座に出動し、事態が明るみへ出る前に収束させていると言うのだ……。
 僕はその機関の手際や活動理由に感心し神妙な面持ちで聴き入っていた。しかし、国内の自殺率が上昇の一途を辿っていると言う時事的な報道は誰もがメディアで聞き齧っている筈だ。大勢の人間が救助されているとすれば、あれは何等かの情報操作なのだろうか? 不可思議な表情を露わにした僕を見て取ったのか、彼は興の乗って来た舞台役者の様にその華麗な独演を加速させ始めた。
「所で、死に行く者達は暗黙の了解として、お互いに詳しい身元迄は明かさないものだろう? 何故死を決意したか、過去の経緯は告白し合ったとしてもね……」
 話しが思わぬ方向へ逸れ始め眼を剥く。しかし彼は滔々とその語り口を止めず、程無くしてその事実に僕は言葉を喪った……。
「実は、この『集団自殺ツアー』を主催しているのは政府自身なんだ……。国民の自殺率は年々上昇し、高齢化社会に由る寝たきり老人は増える一方だが、安楽死に於ける是非は議論が紛糾し結論は導き出されていない……。人道的な見地からの自殺幇助は罪に問われず、尊厳死と呼称し安楽死を合法化している国家も海外には一部存在するが……。しかし、残念ながら国内では君達の期待に応えられる様な法的整備はされていないのだ。言葉は悪いが健康的な一般人に自殺されると、経済的観点から見ても今迄本人に施して来た保健、教育と言った時間や資金が全て無為にされてしまう。そしてその後、経済を循環させる歯車の一部品も減ってしまう訳だ。また、無理矢理生かしていても一部から反発の声が挙がり、何より本人達に意欲が無いので学校や職場等、どこへ行っても使い物にならない……。もう誰にも始末には負えないんだ。そこで、政府は健康な人間達が単に自殺し社会を停滞させるよりは、循環を促す為に寧ろ協力する方針を秘密裏に決定した。自殺する直前の君達から健康的な臓器、個人情報、人生背景等をその侭頂き、表世界と裏世界の両面で流通させる……。これこそが均霑を齎す画策と言う事なんだ」
  一通りの実情を聴き終えた後、僕は余りの衝撃に呆然自失としていた……。しかし、周囲で医療機器に繋がれ横たわっている仲間達の寝姿を見れば疑念の余地は無い。僕達は死に切れなかった……。
 そして生き永らえたと言う事実は、自分自身の鼓動や血脈から実感として次第に湧き始める。後悔と安堵の念が複雑に入り混じっていた。ここでの後悔とは、彼岸を渡り切れなかった事では無い。形はどうあれ未だ生き延びていると言う体感は、生命を享受している者としての喜びや希望と成って溢れ出して来たのだった。そうだ、一度死んだと思えばどんな事だって出来る、耐えられるじゃないか。今回の経験を転機にして、他の仲間達と共に僕はもう一度前向きに生き直せば良い……。
  希望を持ち直すんだ。
「僕達は運良く生き延びられた様ですね……。結局、自殺は馬鹿な真似事だったんでしょうか」
 そう何気無く発した言葉の刹那、僕は息を呑んだ。医師は返事をしないばかりか、陶器の様に滑らかで色白な頬を酷薄に歪ませ、僕を嘲笑っている事に気付いたからだった……。僕は刃物の切っ先を間近に向けられる様な慄然とした想いに駆られ、思わず背を反らしてしまう。
「……君、何か勘違いしていないかい?」
 先程迄見せてくれていた牧師の様な敬虔さとは打って変わって、その微笑みと声音には明確な悪意と軽侮が篭められていた。違和感を抱いた刹那、ふと意識が鈍くなって行く事を自覚する。自殺未遂を図った事での疲弊が残り、未だ目覚め切っていなかったのだろうか? 段々と筋肉が弛緩し、思考が朧気になって行く……。
 霞掛かった様な視界。今迄服用して来た睡眠薬や、様々な自殺の真似事をした時の気怠いあの感覚。

「情報を漏洩させる訳にはいかない……。ここは死体置き場に在る火葬場の先に設置された隠し部屋なんだ……。電波も全て遮断されている。しかし、体質のせいか様々な薬を常用し耐性が付いたのか、稀に居るんだよ。君の様に麻酔が効き辛く、思った以上の生命力で息を吹き返す人がね……。君の様な特異体質には、もっと濃度を高めた薬を服用させ時間を待つ必要が在った訳だ。そう、さっき飲ませた紅茶に混ぜてね……。そして、今度こそもう君が目覚める事は無い筈だ」
 彼は冷厳にそう吐き捨てた。
「ま、まさかっ!? い、厭だ! やっぱり死にたくない……!!」
 僕は消え入りそうな声で、夢遊病者の様に譫言を繰り返す。
「死にたくない? ハハッ、今更何を言っているんだい? それに、正確には死ぬ訳ではないんだよ。ここは『死体無きモルグ』なんだ。好く言うだろう、君の死にたい今日は誰かの生きたかった明日。君の身体やID等の諸々は、そんな恵まれない境遇で喘ぐ誰かの為に使われる。さあ、だからもう安心して眠るんだ……」


                   *

 何故か、自殺未遂者の増加率に抑制が効かない。医師は苛立ち紛れに机上で放置していた紅茶を飲み干そうとし、冷め切った事で助長されていたその苦味が益々癇に障る様で思わず舌打ちを漏らす。
 最近に成って上層部からも実態に関する研究の指示が……、否、有態に表現すれば批難さえ込められた性急な対処を厳命され、彼は柄に無く激情を露わにしていた。
 機関が急務として自殺未遂者達の動機を探ろうとしている事には、過去に類例を見ない事情に起因していた……。関係者達は一様にして信じられないと口を揃えるのだが、確固たる事実が統計として提示されているのだ。
 それは皮肉な事に、「集団自殺ツアーで募集した者達から摘出した臓器を移植され生き永らえた患者達もまた、新規ツアーの情報を嗅ぎ付け参加を表明して来る……」と言う衝撃的な循環の現象だった……。
 無論、政府としての緘口令は徹底されている。ツアーと言う一種の罠に誘われた自殺志願者達と、その臓器提供を受け健康的な生活を取り戻した患者達とでは、経歴上は全くの無関係と精査の上でも結論付けられた。性別、年齢、全国各地の住所等、どの観点から調査しても一切の接点は無い筈なのだ。
 しかし何故、臓器移植が成功し一命を取り留めた者達すら、苦悩の末にこの集団自殺ツアーへ参加して来るのか。この方策にシステム上の欠陥は無かった筈なのに……。医師は溜め息交じりに文献を開いた。


                   *


【輸血や臓器移植で人格が移る?】

「―臓器移植の手術を受けて以来、趣味嗜好や生活様式が一変する患者の事例が多数報告され学界から注目を浴びている。変化した患者達の趣味嗜好等は、臓器を遺して行った提供者(ドナー)の生前と酷似していると言うのだ。
 例えば運動に苦手意識を持っていた過去から一転し活発に活動する様になる、不得手であった筈の家事を自ら積極的に従事する様になる、興味の希薄だったジャンルの音楽を愛聴する様になる、と言った生活上の変化が顕著に見受けられるらしい。
 それは生前に於けるドナーの人物像を髣髴とさせ、恰もドナーが受領者(レシピエント)の肉体を獲得する事で蘇生したかの様な錯覚さえ覚えてしまうと言う……。
 そう、丸で移植された臓器に細胞レベルで本人の人格形成を担う趣味嗜好、行動様式、人生経験迄もが記録されている様なのだ。
 現在、上述した様な一連の臓器移植に纏わる人格や記憶の転移症例が多数に及んで報告され物議を醸しているが、矢張りそれ等の逸話を裏付ける科学的根拠が存在する訳ではない。寧ろ一聴するに突拍子も無い『記憶転移説』には、大勢の科学者達が「ホラー映画の影響を受け過ぎた俗説」と揶揄し反論しているのだ。
 彼等はその原因を『移植手術に伴う強度の薬物使用による精神的副作用』、或いは『ドナーの存在や自分自身の人生経験を通し、死と言う現象と間近に接して来た恐怖心から来るトラウマ、臓器を提供して貰った事への敬意や罪悪感から端を発した心理的現象である』と主張している。
 しかし、主流を占める懐疑論者達もこの臓器移植患者の一部に発生する記憶転移現象に、仮説だけでは説明し切れない何かが在る事を認めざるを得ない様子だ。
 何故ならば、近代的医療現場では臓器移植手術の際、ドナーの個人情報がレシピエント側に伝わらない様にとプライバシー保護を徹底している。相互への配慮としてドナーの詳細は秘匿されているのだが、それでも何故かレシピエントはドナーの魂が転移したかの様に故人の特性をなぞり始める……」
 医師は腹立し気な様子を抑え切れず文献を乱雑に放り投げた。
 レシピエントが自身の生命を掬ってくれた臓器提供者に関心を持つ事は自然な心理であり、健康を取り戻した患者がその後、独自にドナーの生前を調べ始めると言った事例は多々見受けられる。無論、血液や臓器自体に人格や記憶の因子が介在している事等は在り得ない。故人の経歴を概観した患者が暗示的な状態に陥り、ドナーの真似事をしているだけでは無いとでも言うのか? 医師自身はこの仮説に対して懐疑的と言うよりも、オカルト染みた迷信とさえ断じ一笑に付していたものだが……。

 その刹那、不意に彼の脳裏で閃く記憶の断片。

 ―そう、あれは何時だったか……。

 麻酔が効き難く最終的には生き延び様と抵抗して来た青年。捕食される間際に恟然とする小動物の様な彼を恙無く寝かし付け、対応した一件を思い返す。
 振り返って見ると、それ以降から不思議と彼の様に予想外の生命力で息を吹き返す自殺未遂者達が続出し、その度に同様の『処理』を施し続けて来た。
 そこで上層部からも疑念が提示された様に、その件数の頻度から気掛かりになって調べてみると、彼等は以前何等かの怪我や病気で臓器移植手術を経験している者達ばかりだった。
 生きる意志の有る者達が、結局は自殺志願に廻る……? 不可思議に思い更にその手術内容を詳しく調べると、医師は或る符号に気付き驚愕の色を隠せなかった。最も注目すべきは、彼等へ臓器を提供した者のIDだ……。
 そのIDから経路を辿ると、新しく押し寄せる自殺志願者達は皆、麻酔が効かずに目覚め抵抗しようとしたあの青年からの臓器を受領していたのだ……!
 ここは以前から、関係者達の間では「死体無きモルグ」と通称されている……。安らかに棺桶へ入る者は居らず、誰かの一部となって延々と廻り続ける円環……。しかし、全く半死人と言う奴は死人よりも性質が悪い。医師は独り、悪態を吐かずには居られなかった。

 ―苛立ち紛れの物想いに耽っているのも束の間、この医務室への来訪を告げる様にスタッフが部屋の外で扉を遠慮がちに叩く音が耳朶に響く。

 今日もまた新しい患者達がこの部屋に届けられたのだ。

 カルテを覗くと、最早見慣れたドナーのIDと姓名。

 医師は憂鬱な表情で、上質のティーセットに茶葉を用意する。湯気を湛えた淹れ立ての紅茶の脇に添えるのは、砂糖、レモン、ミルク……、そして最後には取って置きの隠し味である強力な睡眠薬。今や常連と成った客人へ振舞う為の手慣れた段取りだった。
 そして現世の中で輪廻する「彼」ともう一度対峙する。雛鳥の様に目覚め立ての「彼」は現状を把握し切れず、途切れ途切れの声で誰へとも無い独り言の様な疑問を呟くのだ。医師に取っては最早挨拶代わりに過ぎない、その台詞を。

「ここは……。未だ、僕は生きているのか……?」

 丸で繰り返される映画フィルムの様に、「彼」とここで出会うのは、もう何度目なのか……。

OSAMU
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OSAMU

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