若き能力者

 アデルがそう錯覚していたのも、ほんの刹那。追っ付け正確に視認したときには、青年は敷地を数歩ほど出た位置に佇んでおり、その足元に、彼の三倍はあろう虎が大きな氷塊をくわえ込んで平伏していた。
 悶えていた、と表現した方が正しいだろうか。
 顎が外れそうなほど開いた口を、一つの氷塊が埋め尽くしている。口内を占領している異物を吐き出そうと、虎は必死にえずいているが、どうやら牙が食い込んでしまっているようで叶わない。

「──ッ……?」

 いまいち状況を理解できず、当惑するアデルの視線が、青年と虎とを、幾度となく往復する。それとは対照的に、青年は冷徹なほど鋭利な眼差しで、虎を見下ろしている。ところが、全体的な表情に負は見られない。間もなく、青年は口を開いた。

「すみません。この村に着くまでに、見つかったんです。振り切ったつもりだったんですが、野生の動物だけあって、どうやら足跡を辿ってきたようです」

 魔力を使用した場合、それによって生成した物質や、魔力による物質への作用が消失した後も、その場には魔力の残滓が長いあいだ残る。また、例外なく、生物の体内からは、常に魔力が微量に流れ出ている。いずれも希薄であるため、肉眼では不可視。
 青年の言う足跡とは、後者。
 勘の鋭い人間ですら、感覚的に捉えられるのは、せいぜい魔力の残滓。野生の動物や魔物は、これを遥かに上回る勘を持っている。
 青年がこの村を目指す道中で遭遇したこの虎は、生きの良い餌を執拗に追い掛け回してきた一匹。
 田舎の娘といえど、アデルにもある程度の教養はある。彼の説明を聞いて、状況を把握こそするものの、それでも腑に落ちない事象には疑問符を投げかけざるを得なかった。

「その、氷は?」
「防衛のために、咄嗟に僕が」

 なにも、一切の見当がつかなかった訳ではない。それ故に、アデルにとって、確信に足る材料だった──青年の返答は。

「──あなたも、能力者なんですね」

 この世において、能力者の定義はただ一つ。
 魔力による物質の生成が可能である事。これを創造と呼ぶ。
 一般的に、魔力の活用は物体に依存している。例えば、自身の肉体強化や、小石を浮かせて放ったり、あるいは内部で魔力を膨張させて破壊を行ったりなど。
 人類の大多数は、創造を不可能としている。反し、創造が可能な人間は、総じて能力者と称されるのである。
 生み出せる物質は個人によって異なるが、全ての能力者を集めれば、魔力から作り出せない物質はほぼ存在しないと言われている。
 瞬く間に、虎の口内に巨大な氷を生み出した青年。
 状況的にも、その氷の正体は魔力としか考えられない。
 加えて、本人の証言から導き出されるのは、彼の能力者という名の肩書きだけだった。

「そうです。僕は魔力から氷塊を生み出せます。能力者の、れっきとした一人として数えられています」
「……吃驚しました」
「僕はまだ普通です。才能じゃなく、努力で行き着いた節はありますが」

 創造の得手不得手は、生まれ持っての才能に左右される面が大きい。訓練で地道に創造力を養うには、並々ならぬ努力が必要となる。実際の所──生涯を費やしても、会得できない者の方が大半である。
 アデルは、彼を二十歳手前と見た。少なくとも、自分より数個ほど上。彼はその若さで、能力者としての地位を確立し、しかもそれは努力の賜物なのだという。
 謙遜こそすれ、彼は十二分に才のある存在だといっても、それは過言ではない。アデルの正直な感想は、この通りだった。

「それより」

 前置きの次に、青年は脇で未だもがいている猫を一瞥する。
 彼が自身の魔力から直接的に生み出せるのは、あくまで氷塊だけであり、水ではない。しかして、氷と水は、状態変化による関係がある。青年は、氷塊を生み出す段階で、露点や沸点を操作することにより、状態変化を容易にすることなどが可能である。つまり、彼の生み出す水の定義の決定権は、彼に委ねられるのである。
 依然、虎の口内に居座っている氷塊。青年は、己の能力的な限界まで温度を下げて、硬度を高くすることで、虎の咬合力でも砕くのが困難な代物を生み出した。おまけに、氷塊は、奴の口に余るほど大きい。もはや噛み砕けはしないだろう。
 青年はさっさとアデルに視線を向け、台詞を紡ぐ。

「流れでお聞きしますが、能力者として驚かれるのはむしろ、アデルさん──あなたでは?」
「……それ、は」

 青年の問いかけに対し、アデルは言葉を詰まらせる。彼女の俯く様子を見て、青年は声を和らげた。

「ああ、別に咎めるつもりはありません。あなたの能力の特殊性は誰しもが認めている。無論、僕もです。ただ、憧れているだけあって、言及せずにはいられなかった」

 アデルには、創造力は微塵も無い。
 火を生み出せた親に羨望し、練習した時期はあった。創造したいがために魔力を繰り出す己の傍で、ひとりでに浮いたり転がったりする宝物を見てからというもの、夢を夢として割り切ることを覚えた。
 しかし現在、アデルは能力者として、世に名を轟かせている。
 それというのも、彼女が物質をただで操るわけではないからである。
 アデルが物質を操る上で必要としているもの──それは魔力に加え、アデルと、彼女に操られる側との相互の信頼関係。これは、人は勿論、有機物に拘った話ではない。
 例えば、アデルが能力で扉を開けようとしたとして、扉にも自我が存在するという前提の下、能動者であるアデルが、受動者である扉にとって、自ら開いて迎えるに値する存在であれば、扉はアデルから与えられた魔力を以って開閉を行う。
 無生物は、基本的に魔力を持たないため、動力には全面的にアデルの魔力が用いられる。これが生物の場合、受動者がアデルの能力による制御を許容しさえすれば、アデルの魔力が、受動者の魔力にも作用し、互いの魔力を以って受動者を動かすことができる。これはいうなれば、物質に依存した魔力の利用において、最小限の魔力消費で、物質の制御が行えるということである。本来ならば、物質を操作するためには、おしなべて受動者を己の魔力のみで支配しなければならない。その例外に位置するアデルの能力の強みとは、ここにある。
 いまや土の中で眠るアデルの親は、アデルのその特質さを能力として見出せば、彼女に村長を引き継がせると共に、その能力で万物を裏切ることを禁じた。親は、危篤時の遺言でも、これを娘に説くことを忘れなかった。
 現在──アデルは、親の教えを信条に、家紋を守り続けている。
 これもまた親から受け継いだ、村民の信頼の下で。

「あなたは無能力者でもなければ、能力者としても一線を画してます。物を操るだけなら僕にも出来ます──しかし、あなたの場合は、ただ魔力で相手を捻じ伏せるのとは訳が違う」
「……能力者だなんて。信用が無ければ、何の役にも立たない力ですから」
「だから、その首輪があるんでしょう?」

 青年は、アデルの首輪を指差す。
 無論、結晶の正体も、噂話の一部として語られている。
 能力の弊害として、受動者の信用を得ない限りは、アデルは物を操ることができない。しかし、この結晶を使えば、その限りではない。
 この結晶には、アデル・リトラの大敵である不信を撥ね除け、物を支配する力がある。

「確かに、この子の力があれば、小さい物なら、新品でも多少は操れます。……でも、それだと、無理やり動かすのと変わらないんです。それに──」

 先程の謝罪が効いたのか、首輪の一部としておとなしくしてくれているその子をそっと手で持ち、見つめるアデル。

「──私がこの子を使うたび、少しずつ、この子が小さくなっているような気がして」
「その内、消えて失くなるとでも?」
「……いえ、きっと私の杞憂に過ぎないんです」

 その心配の源は、結晶によって操った物質への申し訳なさ。
 アデルとこの結晶の出会いといえば、それはアデル自身の記憶にも無い。少なくとも、アデルが物心を覚える頃には、彼女の首元は、既に結晶の特等席であった。
 一番に自分を慕ってくれている存在。
 アデルも、結晶をそう認識し、首輪を肌身離さずにいる。昔から、今に至っても。
 無機物でありながら、アデルに対してのみは、自我と悪戯好きという一面を持つ結晶は、時おり定位置を離れて、持ち主とのかくれんぼを楽しむ。その度に、アデルは困らされ、しかし、いずれは必ず帰ってきてくれる自分だけの家族との関係を、特に重要視してきた。

「貴方はその内ではないと言ってくれましたが、私を能力者として快く思わない人はいます。いくら中身が違うと主張したところで、物を操っているという行為は周りと相違ありませんから」

 アデルは徐に少年の傍まで歩み寄ると、その隣に屈みこみ、虎を見据える。
 能力もあって、幼少期からたくさんの観察を行ってきたアデルは、相手の心理を読み取ることに長けている。そんな彼女からすれば、虎がとっくに戦意を喪失していることは一目瞭然だった。震えながら、怯えたように青年を見つめるその瞳は、まるで得体の知れない何かを見るようだった。
 アデルは、結晶を用いて、氷塊に多量の魔力を流し込み、砕いた。
 体内の魔力が枯渇した場合、筋肉が働かなくなり、その者はその場に倒れ込むことを余儀なくされる。魔力は呼吸さえしていれば徐々に回復する。ある程度、魔力が回復し、身体が動くようになるまでの間、本人の意識は覚醒したままである。敵に囲まれた状況で、魔力を使いきった後の結末といえば、想像に難くない。
 魔力による破壊活動は、相当な魔力の消費を伴う。
 氷塊を壊してからも、存分に動く手を見て、アデルは安堵する。
 一方、虎はといえば、行動を大いに制限する錘が無くなった途端、脱兎のごとくアデルの家の裏山へと逃げていった。

「さすがですね」

 青年の賞賛に、アデルは首を横に振る。

「私が何かしたわけじゃありません。最近の動物は臆病ですから、ちょっと怖がらせれば、大抵は逃げ帰ってくれます。それだけです」

 アランと対峙した猪のように、空腹のために我を忘れるような動物もいるが。
 氷塊から首輪へと収束する結晶片を眺めるアデルに、青年は問いかける。

「臆病の原因を、アデルさんはどう見られますか?」

 結晶片が結晶に戻るのを見届けてから、青年に向けられたアデルの表情は、微かに不機嫌を訴えていた。

「その質問は、意地悪だと思いませんか?」
「あなたがそう思うからには、意地悪なのでしょう」

 でも、どうしても答えて頂きたい。青年は、目でそう迫る。
 それを見てからというもの、しばらく顔を伏せるアデルの様子が、青年には思い詰めたように見て取れた。
 どこまでも律儀な少女は、やがて顔を上げ、震える小声で答えた。

「……魔物の存在だと、思います」

見習い孔子
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