Little Crown Ⅲ-Ⅲ
最初、見間違いか?と疑うような容姿だった。
言葉にしてみるとすれば、それは等身大の伸びた影のよう。
バグ。
世界が言っていたファンタジーの存在に、思わず口角が吊り上がる。
「来てみろよ。試してやる」
見えているのかいないのか、オレは挑発のためにかかってこい、と右手で誘う。
ジリ、と。空間を侵食するように影が伸びる。
伸びた影を懐に入る形で避け、拳で殴りつける。
と、その拳は影に直撃するでもなく、当然のように空を切った。
「……ま、そうなるか」
無意味と知りつつ、拳を何度か影のいる位置に振るうが、やはり効果はなさそうだ。
ピリ、と。静電気のような痛みが腕に走り、咄嗟に影の懐をすり抜け、開いていた教室に身を隠す。
幸いだったのは、バグと呼ばれているあの存在が意外にも動きが鈍い、ということだった。
なんだ、と思って腕を見てみても、傷はない。
「アイツに触れられた瞬間、麻痺みたいな痛みがあったな……交戦は避けるべきか」
直接の物理攻撃は無意味……となると、対抗する手立ては限られてくるだろう。
いくら動きが遅いとは言っても、教室に入ってしまえば袋のネズミも同然だった。
「まったく、できの悪いホラー映画でも見てる気分だ」
ジリ、ジリ。と、そいつには壁なんて障害物にもなることはなく、こちらに近づいてくる。
さっきのお返しと言わんばかりに、無数の影を伸ばしてくる。が、拳の速度に比べれば遅い。
攻撃の間を縫うように避ける。
ほぼ限界まで身体を折りたたみ、出口である扉へと一直線に向かう!
「っ!」
ドクン、と。
背中に伝ったのは、なにか底知れぬ恐ろしい直感だった。
それは理性などからはかけ離れた、動物そのものとしての本能。
全細胞が警告している。その一瞬の硬直を無理矢理に引きはがすように、全力でその場から飛び退く。
「……なっ!?」
そうしてようやく、バグが教室の扉を塞いでいたことに気づく。
それも、教室全体を覆うようにして、バグが世界を侵食していたのだ。
窓は、と後ろを振り返ってみても、そこに広がるのは闇よりも深い暗闇。
床、天井、そして壁に至るまで……ありとあらゆるものが、闇に溶かされていく。
「万事休す、か……?」
だがそれでも、希望は捨てない。
何か、何かないのか……!
侵食は着実に、それもこちらを飲み込むように続いていく。
と。その視界の端に、何か不自然なものが見えた気がした。
「まさか」
それは、一筋の光明と言って差し支えない。
この状況を打開する、千載一遇のチャンスだった。
その肉体は目に見えても触れることは叶わず。
その存在が世界を飲むように闇へと染め上げたとしても。
「悪いな――水守宗司ってヤツは、ねちっこいほどに諦めが悪いんだ!」
机をジャンプ台に、黒板に張り付いている磁石を握りしめる。
そして、バグの本体を目掛けて、一気に殴りかかった。
もちろん、そこに手ごたえのようなものはない。
だが。
ジ、ィ――。
ノイズに似た耳鳴りに、そちらへ振り返る。
「お前は知らないだろうが、磁石ってのは電磁を勝手に捻じ曲げる。お前が電気的なものなら、なおさらその影響を受けるんだよ」
握りしめていた磁石を放すと、リノリウムの床に反響して甲高い音が鳴る。
バグの腹に空いていたのは、穴。
それを修復するようにノイズのようなものが走っているが、恐らく構成データのようなものだろう。
だが、それさえ根こそぎ磁石に吸い寄せられれば、自壊するのは当然のことだった。
「――!」
声にならない悲鳴を残し、バグは空気に溶けるように四散する。
それは蛍のように美しく輝き、数秒と経たずに朽ち果てていった。
残された教室は散々に荒れ果てていたが、そこにバグの痕跡はなんら一つさえ存在していない。
「普通なら、空気で流れてしまうようなデータの塊なのか……?」
ふと手放していた磁石を見ると、そこには結晶のようにこびりついた石のようなものがあった。
それは、消える寸前のバグのように光り、どこか物悲し気な雰囲気を漂わせている。
「こいつは……」
「動かないで」
おっと。
そういえば、もう一人ばかり客がいたのを忘れていた。
油断したな、と大人しく手を上げて、抵抗する気はない、とアピールしてみる。
「手の持っているそれ……こちらに投げて」
「…………これか?」
バグの残骸がこびりついた磁石を人差し指と中指に挟んで、確認をとる。
かすかに、そいつは首を振ったように見えた。
さて、どうやって度肝を抜いてやろうか。