Peace6:少女の思い出

駄目だ…どんどん記憶が消えていく。まるで記憶にかかった白い霧が濃くなっていくような感覚。
長い海に架かる橋の下。ポケットから出した赤いスマホの入ったジプロックを傍らに置き土を掘る。塩水で湿った土もある程度の深さを掘るとその湿り気を無くしていた。ジプロックをその穴に置き急いで埋め直すと、手をはたいて土を落とし立ち上がる。
追っ手は全員“居なくなった”はずだが直に応援が来るだろう。早く立ち去らなくては。橋の下を出るとポツリと雨粒が頭に落ちてきた。空を見上げるといつの間にか月が見えなくなっていた。地面にくっきり残ってしまっている自分の足跡を処理しなくていいのはだいぶ助かるのたが、傘もないのに雨は次第に強くなっていく。
するとふと自分の名前を思い出せなくなっていることに気付いた。というか何のためにスマホを埋めたんだっけか。誰から逃げていたんだっけ。
『駄目だ。とにかく全部忘れる前に遠くに、遠くに行かなきゃ…』
記憶がさっきよりも早いペースでどんどん消えていく中で『遠くに行く』という自分の意思なのかすら定かでは無いものを抱え、もうどしゃ降りと言えるまでに強くなった雨の中を進む。この橋の先はどこに続いているんだっけ。服がどんどん冷たい水を吸って重くなる。
『すまない火花、夕闇…私は━━━━』
冷たい。暗い。記憶が泡のように、消えていく。目の前がぼやけていく。
薄れる意識の中で一瞬■花と夕■が笑っているのを見た気がした。■■と■■は私の、なんだったっけか。
「━━━━━━━━ っ!!?」
跳ね起きたアメは自分の首筋に汗が伝ったのを感じた。以前と似た感覚。以前より強く幾分か“黒い”感覚。夢じゃない。間違いなく自分の消えた記憶の一部だ。
私は何を忘れてるんだ?正確的には私の記憶には“何が入ってる”んだ?とても大事な何かを、人を、思い出しかけた気がする。
二度寝できるような気分では無かったし、どちらにせよあとものの十分程で目覚ましも鳴る。目覚ましのアラームを切ると朝ごはんを作るために台所へ向かった。
「私は、黒夜さんと一緒にいるべきじゃないのかもしれないっ…」


いつもの工場が今日は少し違うのは爺さんがサンドバッグを何処かからか調達してきたからだ。なんだか段々アメの訓練が護身術から逸れている気がするのは気のせいだろうか。
「だからさ、爺さんは何かねぇのかって。アメのことで気づいたこと」
「何かも何もねぇよ。ったくしつけえな」
爺さんが俺と同じようにアメの作ってくれたおにぎりにかぶりつく。
「なんでもいいんだよ。ちょっとしたことでもいいからさ」
「あるとすりゃ…アレだ」
爺さんの視線の先にいるのは、サンドバッグに蹴りやパンチをしているアメだ。その動きは初めてここに来た頃に比べ格段にキレも強さも増している。
アメの足や拳が当たる度に、決して軽くは無いはずのサンドバッグを吊るその鎖が大きく音を立てていた。
「アレ?」
「見りゃわかんだろ。あの嬢ちゃんの上達っぷりが何なのか」
俺にだって十分過ぎるほど分かっていた。アメがどんどん強くなっているのは単なる上達などではなく“昔の感覚を取り戻しつつある”からだということくらい。元々強いのはなとなく察していたが、あの様子だと下手すりゃ元は俺より強いかもしれない。
「別に元の強さなんてこの際どうでもいいんだよ。問題は強さの系統だ」
「系統?別にそんなの関係」
「あるんだよ。簡単に言うと二つ」
爺さんがのりのついたツナマヨおにぎりとのりのない塩むすびを手に取る。爺さんは「制圧と」俺の前にツナマヨ「殺しだ」自分の前に塩むすびを置いた。
「おい、どういう意味だそれ。アメが殺しでもしてるって言いたいのか」
爺さんは答える代わりに自分の前に置いた塩むすびを頬張る。
『害虫は確実に仕留めて駆逐します』
その時俺は何故かふとゴキブリ事件のことを思い出した。
段々とそれぞれに関係がないと思っていたアメに対する小さな謎の数々がそこに集約されていく。
ファイトでの殺しを話した時のあの瞳は自分も殺しをしてきたから。謎の知識や技能は証拠を残さないようにするためか殺しに使うから。ロックのかかった政府データは政府に目を付けられているから。土に埋まっていたスマホは何かのデータを隠すため。たった数秒でホルスターに気付く観察眼は相手の武器を見極めるため。
そしてあの身のこなしは今まで人を━━━
否定しようとする俺の意識とは裏腹にどんどんと頭の中で色々なことが繋がっていく。アメは、本当に人殺し…なのか?
「そんなはずは… そうだ!条件反射で分かるってんなら、最初に爺さんと会った時殺しにかかるはずだろ?」
爺さんは俺の反論にため息をついて塩むすびを飲み込んだ。
「馬鹿言え。ありゃ実戦経験あってそれなりに強い奴じゃねえと即死だぞ。俺だって反応があと数コンマ遅れたらやばかった」
「は?」
「首折られかけたんだよ、あの嬢ちゃんに。護身術とやらを習っただけのいわば“素人”がとっさに攻撃してた奴を例えまぐれでも首折りにいけるわけねぇんだよ」爺さんが首の後ろをさすった。
首を折られかけた?そういえば確かにあの時首の方から着地していた気がする。
その時のことを思い出そうとした俺の思考はアメの俺を呼ぶ声によって唐突に遮られた。
「お腹減りました… ツナマヨ残ってます?」
疲れた様子で寄ってきたアメにツナマヨのおにぎりを無言で差し出す。
「ツナマヨには目がないんですよ。昔から好きで」
俺から受け取ったおにぎりをアメは本当に嬉しそうに頬張った。見れば見るほどアメが人殺しなんて信じられない。
「嬢ちゃんちょっと聞きたいことがあるんだが」
爺さんが突然口を開く。何を言う気だ?
「端的に言おう。お前さん俺のとこに修理依頼がきたべレッタ直したろ」
アメは一瞬キョトンとした顔をすると苦笑いをした。
「いつもの恩返しになればいいなと思いまして」
「銃の名前が見ただけで分かったのはまあいいとしても、簡単に修理までやってのけるとは。お前さん…こっちの人間だろ」
アメから表情が消える。
「人殺し、だろ」
「ひと、ごろ、し…?」
「おい爺さんっ!アメ気にすんな。いつもの趣味のわりぃ じょうだ━━━」
アメがまたあの時のように何かを探るように視線を宙に彷徨わせる。
「わ、私、はっ」
「アメ…?」
アメが突然「うっ!!」と短く呻き声をあげると頭を抑えてしゃがみこんだ。息が少し荒くなっていき瞳が目まぐるしく動く。
「アメ?アメ!?」
肩を掴んで呼びかけるが完全に意識がこちらに向いていない。


『胸のホルスターなんてまるでまともな刑事みたいだよな』
金髪でスーツ姿の火花が、自分のホルスターに目をやる。普段からホルスターを使ってはいるが、今日は珍しくスーツスタイルだしそう感じるのだろう。動きやすく多少は作り替えられていても、やはりスーツというのはいつもより窮屈だ。
『まともな刑事ねぇ… そもそも私達みたいな人殺しに“まとも”なんて言葉似合わないだろ』
呆れたように笑うと火花は一瞬びっくりしたような顔を見せたが、すぐにくしゃっとした笑顔になった。
『そうだな。俺達がまともなんて言ったら今すぐ隕石でも落ちてきそうだ。でも俺達がこうして“仕事”をすれば世の中の役に立てるんだから頑張んなきゃな!』
『頑張るってんならそろそろ前線でやれるようになって欲しいもんだ』火花に軽くデコピンを喰らわせる。
『いてっ。■■がバケモノみたいに強いんだから別に俺が前線できなくたっていいだろ。ほんとは一人でも殺れるくせに寂しがり屋なの?“ゼロ”のNO.1の■■さん?』
『なっ!!るっさい!人をいじる暇があんならさっさと仕事に行くぞ!夕闇も待ってるんだから!』
『はいはい』
自分の耳が赤くなっているのを感じながら夕闇の元へと向かった。今日は私の好きな満月だ。
これは、私の記憶…?


「仕事、火花、満月、“ゼロ”、私は…人殺し…?」
アメは途切れ途切れにそう言うとその場に倒れこんだ。
「アメ!アメっ!おい爺さん、どうしてくれんだ!」
アメをお姫様抱っこの要領で抱えあげる。ただ気を失っているだけらしい。
「…なあ黒、嬢ちゃんをちゃんと守ってやるんだぞ」爺さんがすっと立ち上がり軽くお尻をはたく。
「はあ?たった今アメに余計なことしといて何をっ」
「もうしばらくここには来なくていい。わしはちょっと用事ができたからしばらくの間出掛ける」
「爺さん?」
なんだか爺さんの様子がおかしい。爺さんがしばらく工場から離れるなんて俺が知る限り初めてのことだ。アメと何か関係があるのだろうか。
「いいか、嬢ちゃんをちゃんと守ってやるんだぞ。何があっても」
工場の奥に消えていく爺さんを見て、俺は何故かとてつもなく嫌な予感がした。
腕の中のアメが少しだけ震えている気がした。



半袖のTシャツに短パンという寝巻き姿で部屋を出た。深夜の街は不気味なほど静まりかえっている。
『よっ。またコンビニか?』
アパートの階段を降りようとすると階段の下ににやにや笑う夕闇がいた。腕まくりした白シャツに黒のズボンといういつもと同じ格好をしている。手には小さなレジ袋を提げていた。
『この時間からとか太るぞ』
『るっせ。仕事すると甘いものが食べたくなるんだよ』
カンカンとかわいた金属音をたてながら夕闇が階段を上ってくる。
夕闇の家は私の隣。三つならんだ部屋の真ん中だ。一番階段から遠くにある部屋に住む火花はきっともう寝ているだろう。昔から3人の中で火花だけが夜更かしが苦手だった。
『どうせ火花は寝てるだろうしさ、2人で食わないか?』
夕闇が提げているレジ袋を軽く持ちあげる。
『シュークリーム買ってきた』
部屋に戻ると夕闇は慣れた様子でテレビの前のソファーに座った。レジ袋からガサゴソとシュークリームを取り出している。
『■■今回の仕事も順調だったらしいな』
『当たり前だ。こんな仕事…』
『“朝飯前だ”だろ?』
夕闇が私より一足先にシュークリームにかぶりつく。
『なっ…!!』
私が淹れた珈琲を受け取りながら夕闇が笑って『ごめんごめん』と謝った。
『優秀な■■殿の口癖だからな。ハッキング専門の俺でもそれくらいは…いってぇ!』
軽口を叩く男にデコピンを喰らわせると『ばぁーか!』とニヤニヤ笑いながら言う。
『それくらいで威張るんじゃないよ。ほんとお前ってのは物好きだな』
ため息をつくと夕闇の隣に座りシュークリームに手を伸ばした。冷たくて甘いクリームがとても美味しい。
私達はよくこうして夜に二人でのんびりと談笑をしていた。大体は今夜のように 夕闇がうちに来る。私が夕闇の部屋に行くことはめったに無かった。
『なあ■■、俺達が仕事するようになって何年経つ?』
『なんだ藪から棒に。私達がちょうど十三の時からだからもうすぐ五年目じゃないか?案外長いもんだ』
『そうだな。俺達は長いこと“ゼロ”の、正義ために仕事をしてきた、そう思ってた』
夕闇が急に真面目な顔つきになる。
『夕闇?』
『もしさ、もしだ。俺達が餓鬼の頃から信じてたものが間違ってて、俺たちのしてきたことが…大きな間違いだったらどうする?』
夕闇の真っ黒い瞳が哀しそうに光る。
『正義のためでもなんでもこの手が汚れてることに変わりはない。もう綺麗になんてならないなら、このまま三人で汚れた道突っ走るだけだ。だろ?』
どこか遠くを走る車の音がやけに大きく聞こえた気がした。
『お前らしい答えだな ━━━月影』



眠りから目を覚ましたアメの傍らには椅子に座ったままベットに突っ伏して寝ている黒夜の姿があった。
「思い出した… 全部」
目から溢れ出した綺麗な水滴達はアメの記憶を覆っていたものを洗い流した。パタパタと小さな音をたてて布団に水玉をつくりながら。
「スマホを見つけなくては…あれの中を見られたら終わりだ。あと自分の仕事着も」
アメは黒夜を起こさないようにそっとベットから抜け出した。
「“There’s no place like home” 魔法は終わり」
アメは自分の靴を手に取るとため息をひとつついた。
「さあ、仕事の時間だ」

黒猫鬼灯
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黒猫鬼灯

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