浅井の家

永禄二年(1559)近江国の湖東と呼ばれる地域の真ん中辺りに宇曽川が流れていた。
東山道下枝の関辺りから川を利用して琵琶湖に出て堅田や坂本に運んだ荷は逢坂の関を超えて都に入った。
東山道から琵琶湖を渡る湖道は数多く存在し、湖上には多数の舟が往来していたが、下枝を含む広大な地域を支配した高野瀬氏は帝に瓜を献上するほどの実力者でもあったのだ。
この高野瀬秀隆が南近江守護大名の六角義賢を裏切って、突然浅井氏に合力すると宣言した。しかし浅井氏は若い賢政が父の久政を竹生島に幽閉して家督を継いだばかりであり、まだ初陣も済ませていない状態だった。
秀隆は、宇曽川沿の肥田城に籠る。兵力は千にも満たなかった。これに対し、義賢が守護大名の威厳を守るためにも出せる限りの兵を集め一万五千を引き連れて観音寺城を出た。
肥田城において北の守りにもなる宇曽川は途中で大きく蛇行するためよく氾濫する。肥田の町は自然と土塁に囲まれる輪中様式になっていたが、六角出陣の報を受け、秀隆は常識外れの策に出た、土塁の内側に宇曽川の水を引き込んだのだ。
歴史的に「肥田城水攻め」と呼ばれている戦いは、六角義賢が肥田城の周りに土塁を築いて水を入れたとされている。しかし、十倍以上の兵力で平城を攻めるために水攻めをする必要性はない。しかも六角氏は京などにも敵を抱え、家臣の蒲生家から借金までしている。小さな戦に金などかけられないのだ、その状況で力攻めで落とせる肥田城を水攻めにする必要はなく、肥田城水攻めの真相は高野瀬秀隆による水守りだった。
秀隆が、賢政にどこまで期待して徹底抗戦を表明したのか賢政にもわからない。しかし、これほどの期待を託されたならば応えなければ武士ではなく、今後自分を頼る者も居なくなるに違いない。賢政はすぐに兵を集めるよう重臣たちに図った。
これに異を告げたのは佐和山城主磯野員昌だった。久政が竹生島から戻り、賢政に反発する家臣が久政を担いで新たな反乱を起こすことを案じたのだ。
員昌の言に異を唱える力を賢政は持っていない。小谷城からは眺めることも叶わないながらも常に南方を機にして、高野瀬秀隆の武功を期待した。
六角軍が肥田城を囲んだ報と秀隆の水守りの奇策が同時に賢政の許へ届いた。水により肥田城の周りは沼地の程を示し、六角軍は攻めあぐねている。瞬時に決着がつかない方法で援軍が到着するのを待つのが秀隆の狙いである。自らが試されているのだろうと感じながらも何もできないまま鬱々と過ごす賢政を見て、傅役でもある赤尾清綱は浅井氏が保護している主家京極氏に仕える侍女を一人預かってきて、賢政の世話をさせた。
賢政は、まだ数えで十五歳。常に自分に仕える女人を放置できるほどの分別はない。ましてや最近まで六角氏の重臣平井定武の娘が正室として嫁いできていたが、お互いが若すぎることと浅井家臣に芽生えつつあった反六角の思想から平井の娘は婚礼の直後に幽閉され夫でも見舞うことが許されなかった。
久政から家督を奪ったのちに、そのまま観音寺城へ送り届けたが、夫が反旗を翻し実家に戻された者に再嫁の声がかかるとも思ない。一人の娘を不幸にした責めを賢政はその後に女人に近付かないという戒めで自己満足の贖罪に浸っていた。
しかし、幼い頃から教育を受けている傅役は賢政の好みを的確に判断し近付けた。賢政は肥田城に出陣できない苛々さえも新しい女人に吐き出しそして包まれた。
同じ頃、肥田城を囲う六角軍は攻めあぐねた後にただ肥田城を囲うだけになっていた。しかし動かなくても兵糧などの金がかかる。季節は春から梅雨に入って行き、兵たちに厭戦気分が蔓延し始めていた。義賢は二千の軍勢のみを肥田に残し自らも観音寺城へ戻っていた。
そして、磯野員昌は周りに判るように大袈裟な軍令を発して佐和山城に兵を集めさせていた。
賢政は肥田城と佐和山城の報せをまとめながらも、それまで抑えていた欲が一気に吹き出し肉欲に溺れていた。

梅雨が本格的に始まり、小谷城が雲の中に隠れる朝、女人を残したまま寝所から出た賢政に清綱が駆け寄ってきた。
「殿、肥田城から六角が兵を引きました」
賢政は、目を見開いて清綱に詳細を促した。
報告では、梅雨により増水した宇曽川が例年の如くに暴れ川となり、肥田城を取り巻く水と混ざったらしい。その水は内側から土塁を攻撃し、遂に外に向かって決壊。城を囲う六角軍はこの激流に巻き込まれて死者も出し、厭戦気分に驚きも加わり逃げ出したらしい。
「その様子は富士川の戦いでの平家の様であったとのことですぞ」
富士川も宇曽川も見たことはないが、大軍が無様に逃げる様子はさぞ滑稽であるだろうな。と賢政は考えたが同時に何もしなかった浅井氏に落胆しただろうとも思った。
しかし、半月後に戦勝報告にやって来た秀隆は賢政に深々と頭を下げ、「殿が佐和山城に兵を集め下さったおかげで城の者共の士気が下がらずに済みました」と礼を述べた。
「我は何もせず、女に溺れていただけであったが、周りは都合よく解釈するものだな」
賢政は自らの屑振りに失笑した。

肥田城水攻めが終わった後、浅井賢政を信じた高野瀬秀隆の言により北近江は浅井氏の支配基盤が強固となり、多忙を極める様になった賢政が女人に関わる時間がなくなっていた。
夏のある日、女人の懐妊が告げられ、翌年春に女子が産まれた。賢政は己が屑の時に出来た子として、戒めも込めて「くす」と名付けたが、その意味はくす本人すら知らない賢政のみの想いであった。

この年の五月、尾張国で織田信長が今川義元に勝利したとの衝撃が全国に伝播した。
賢政は信長の勝利について調べさせると、尾張を統一したばかりの信長と、駿河、遠江、三河の三国を支配する義元だが経済的には然程の大差がないことが判明した。浅井が抑えている北近江も米原、朝妻、塩津などの良港を監視し最低でも日本経済の四分の一が領内で動いていた。六角氏の様に四方に敵を作れば幾ら金があっても足りないが、浅井は北の朝倉氏に臣従に近い形で同盟を結んでいる。信長は国の広さではなく経済こそが戦の強味であることを賢政に示した。
「織田信長のようになりたい」
賢政は、信長を目指す意思表明として名を「長政」と改名したのだった。
そして、長政に信長と並ぶ舞台が用意された。六角義賢が、肥田城での雪辱を晴らすために再び兵を挙げたのだった。

今回の義賢の目的は肥田城を抜いて佐和山城を落とし、勢いがつけば小谷城すらも囲むものであり、長政にとっては初陣でありながら最大の危機と言っても過言ではないものであった。くすの誕生により竹生島から父久政を呼び戻し、隠居としての助言を得ようとしたが、久政は越前の朝倉義景に援軍を求める策しかなかった。しかし朝倉氏は一向一揆との戦いに疲弊し、近江にまで援軍を出す気力はなかく長政は単独での戦いを強いられることになる。
覚悟を決めた長政が出陣を宣言すると、今度は家臣たちも反対はしなかった。
「決戦は、肥田城の南方、野良田である。いざ出陣!」

永禄三年八月、浅井長政初陣。
宇曽川の北岸に布陣し、肥田城の高野瀬秀隆と密議を重ね、六角軍の到着を待った。
昨年を超える二万五千の兵を率いた義賢に対する浅井軍は一万程度、倍以上の敵を相手に野戦を行うために長政は宇曽川を堀に見立て守るのが常套手段だったのである。
数日後、六角軍が姿を現し宇曽川の南岸より少し南の野良田に布陣した。背後に愛知川が流れていて中国の兵法書ならば背水の陣を嫌うところだが、夏で川の流れは小さく気になるものではないらしい。そもそも義賢の出陣がこの時期になった理由も前年梅雨の失敗を学んでのことだった。
両軍の戦いは宇曽川を挟んでいる。水量の少ない時期とはいえ先に川を渡る方が水に足を取られて不利になる。常識的に考えると大軍で目的地も遠い六角軍が先に動くはずだが、六角軍は微動しなかった。
長政は、敢えて先に動くように前線に命じた。先鋒の百々内蔵助が二千の兵を連れて川を渡ろうとした。
六角軍は、第一陣の蒲生定秀や進藤賢盛らが一斉に矢を放ったが百々軍は各々に盾になる物を準備していたため矢の効果はなくすぐに白兵戦に移行するが、弓隊が引き槍隊が進む時間は百々軍が川を渡るに充分な余裕となり、百々軍の渡川は後軍投入を容易にした。
長政自身も本陣をほぼ空にして宇曽川南岸に到達し、六角軍本陣がある野良田のみを目指してのみの集中攻撃を命じた。信長の桶狭間での策をそのまま使ったのだった。
六角軍も浅井軍に向かって一斉に兵を向けたとき、ついに浅井軍先鋒の百々内蔵助が討死した。六角軍の中には勝利を確信する空気も流れ始めたが、肥田城から五百の軍勢が飛び出して六角軍を襲った。
肥田城は宇曽川南岸の軍事拠点であり戦いの前は六角軍も警戒していた。しかし乱戦になると肥田城への警戒は緩くなり内蔵助討死による緩みを高野瀬秀隆は感じとっての行動だった。
浅井軍に向いていた六角軍は、すぐに高野瀬軍に対応できず、一時的にでも感じた勝利の安心感の後に死の覚悟も持てず、総崩れとなったのだった。
長政は初陣にして野良田の戦いに勝利して、北近江の雄として名を高めた。そしてこの戦は「近江の桶狭間」とも呼ばれるようになり、今度は織田信長が浅井長政を意識するようになったのだった。

野良田の戦いの後、六角義賢は家督を息子義弼に譲って隠居し、承禎と名乗る。義弼は性格に難がある人物で重臣たちは隠居した承禎の意見を隠居前と同じように求めていて、義弼は若い家臣のみを大切にした。ここに六角氏の内紛のタネが生まれ、六角氏が浅井氏に手出しできる余裕がなくなる。
浅井氏も越前との同盟関係が続いているために、敵は南の六角氏と東の斎藤氏となり斎藤氏は信長との戦いに集中していることから、領内に平和な時間が訪れ、長政はくすとの時間を過ごせるようになっていた。

三年間、この平穏は続いた。
長政は娘の成長に夢中で、あちらこちらに連れて行った。くす自身もだんだん記憶が残りつつある時期に父の愛情を一身に受けていたことになる。
長政が特に好んだのは寒い時期に今浜の湖岸まで馬を走らせ、暖まった体を湖風に当てながら鳰を眺めることだった。淡水を好む渡り鳥であり、冬になると琵琶湖や三島池など浅井領内に数多く飛来した。古来より琵琶湖を「鳰の湖」と呼ぶこともあった。長政はくすを抱きながら鳰を指差して「見ろ」と促す。
湖面に浮かび泳ぐ様子に人に見られているという警戒心もなかった、それはこの場所が安全であることも知っているからかもしれない。戦が続けば食料も減り、湖面の鳥など一番に狙われる、長政が北近江にもたらしたものは人だけではなく鳰すらも守っていると幼い脳裏が必死に出した答えだった。
向こうの山に夕陽が沈み、湖面を走る船の影がだんだんこちらに伸びてきた。水鳥たちも体より大きい黒い帯が夜への合図であると知っていて、敵に襲われない巣に戻り始める。少し遅れて「我らも戻る」と従者に告げた長政は馬上の人となった。
今夜は小谷には戻らない、近くの下坂氏の居館に入った。
後年、くすが知ったことだが、鳰は渡り鳥ではなく琵琶湖に常住しているらしい。父が冬と夏で毛並みが変わることを勘違いしていたのか? はわからないが、鳰を見るのはいつも寒い冬だったことだけは間違いなかった。


翌朝、長政らは国友村へ向かった。20年ほど前に種子島に持ち込まれた鉄砲を時の将軍足利義晴が国友村へ譲り鉄砲作りを命じた。それまで作っていた刀とは勝手は違ったが刀匠の技を用いた鉄砲の性能は伝来した物を越えていて、信長は桶狭間の五年前には五百丁を用いて村木砦で戦っていた。
その信長から鉄砲購入の依頼が届いている。友好関係を結ぶ吉兆ではあるが長政自身はあまり鉄砲を知らない。領内で生産されているものはどれほどの価値があるのか知らなければならない使命感に駆られ、国友視察を計画した。
村は、田園の中にぽつんとあった。周囲を高い土塁に囲まれていて、まだ然程近寄ってもいないうちから村より迎えの者が走ってきた。村人は長政を領主とは知っているが将軍より託された鉄砲技術を守る工夫を怠ることはなかった。村の中にはたくさんの土塁が作られている。鉄砲は火薬を扱う為に万が一の爆発があったときに被害を抑えるためらしい、長政のために試射も行われたが同行したくすは鉄砲の音以上の大きな声で泣いた。村の子どもたちはそんなくすを珍しそうに見て笑った。
恥ずかしさに顔を赤くしたくすは次の試射からは泣かないようになる。これが後に我が身を守るとは思いもよらなかったであろう。
視察を終え夕刻に小谷へ戻った長政は、くすを抱えて上げて城内の桜馬場から琵琶湖を見た。昨日は浜辺から見た落日を高地から見る。湖面に伸びる影は見つからず湖の色がだんだん橙に染まり、血の様な色に滲み、そして黒から闇へと変わって行った。「琵琶湖をあのような色に染めたくない」長政はくすにしか聞こえない声で呟いて、くすを下ろすと一瞬だけ怖い顔になった後、口角を上げて微笑んだ。

くすが幼児から童女と成長する頃、母は男子を生む。万福丸と名付けられたが長政はすでに元服後の名前を「輝政」と決めていた。琵琶湖の「輝き」と浅井氏の偏諱「政」を合わせたもので近江に根付く願いが籠っていた。

古楽
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