織田と京極

予兆はあった。
永禄十年春、くすと万福丸は母と共に京極丸に預けられた。他に別の側室が生んだ次男も城下に移ったらしい。小谷城の本丸と京極丸は間に中丸を挟むだけの近い曲輪で浅井氏の主筋である京極氏を保護している。北近江守護という錦の御旗を他家に奪われないためでもあった。京極丸で侍女をしていたくすの母は今度は客分として扱われることになり京極氏と同じ席に座る自分に戸惑って病に倒れた。京極丸をあげて治療を行った。
京極氏の当主は高吉で、正室慶はくすの叔母であったので二人は毎日病床を見舞っていた、時々くすより三歳年下の男児も伴っていてくすと万福丸が遊び相手もした。近くにいるはずの長政は一度も見舞いに訪れないままくすの片親は旅立った。くすの記憶では梅雨の終わりの雷雨が鳴り響いた夜だったと思うが、それは高吉夫妻の慟哭と自らの涙だったのかもしれない。
九月に入り、本丸が騒がしくなり、華やかな行列が入って行った。高吉も本丸に呼ばれたらしく翌朝まで戻って来なかった。行列の正体は織田信長の妹お市が長政に輿入れしたものだった。国友村の鉄砲を通じて親密さを増し同盟の証としてお市が長政の後室に入ったのだが義兄となる信長に遠慮してくすたちが京極丸に移されたのだった。くすが母を亡くす遠因であったとも言え、万福丸は信長に対して強い抵抗を示すようになった。
子どもたちの感情とは離れたことろでは織田浅井同盟は順調に機能し、足利義昭を奉じた信長は長政と共に観音寺城を攻め、驚いた六角承禎は夜陰に紛れて城から脱出し、居城を空にした凡将として笑われることになる。これは信長が義昭に報告し必要以上に風聴させたことであったが、観音寺城で生まれ育った長政はこの城が居館城であり守りの城ではなく、六角氏は甲賀に逃げてゲリラ戦を行うのが定石であることを知っている。観音寺城落城後、信長が長政に南近江の支配を打診してきたが長政は甲賀での抵抗を危惧して断った。しかし信長は義弟が無欲であると誤解してますます信頼するようになってゆき、妄信的に長政を信頼したのだ。この後、長政は小谷へ戻り、信長は上洛し義昭を将軍とした。
信長も長政も将軍を後見する天下人に最も近い大名と目されるようになったがくすの暮らしは変わらない、いずれ長政の娘としてどこかの武将に嫁ぐまで京極丸で淡々とした毎日が続くと信じていた。お市が茶々を生むまでは…

茶々は、六角氏とギリギリの戦いをした浅井氏の苦労を知らない。ましてや伯父は将軍を抑えている織田信長なのだ。くすとは十歳の差があるが茶々が生まれた翌年にはお市にとって二人目の娘となる初も生まれる。茶々の記憶は初の誕生から始まるとも言ってよく姉妹の姉として妹を守る使命感を強めていく。三歳になった時、茶々や初には姉と兄がいて、くすと万福丸の二人は同じ城で過ごしていると教えられた。茶々が初を見ると妹は兄弟が増えたことに目を輝かせてまだ足りない語彙の中で会いたいことを伝えた。茶々は不満だったが妹の望みを潰すものでもなく初に同意したのだった。しかし茶々にとっては父に母以外の女性がいることすらが伯父信長への裏切りとも転換されて行く。お市と共に小谷城へ来た侍女たちが茶々へ信長の凄さを自慢し、そんな信長の血縁であることを最大の誇りとさせていた。侍女たちにとっては織田と浅井の友好のためであっただろうが女童には織田が浅井を養っていると信じたのだ。

その浅井氏が織田氏を裏切った。信長が長政に連絡せずに越前朝倉氏に向かって兵を進めてたことが浅井氏家臣団の問題になった。信長は大切な妹を嫁がせた無欲な義弟は、何よりも自分を優先してついて来ると信じた。しかし、浅井氏は初代亮政の時代から朝倉氏に助けられた恩があり、しかも六角氏ほど臣従を強要されない関係を喜んでいた。信長との関係は長政との個の繋がりであり家の問題ではない。隠居久政は家臣団を反信長でまとめあげた。最後まで反対したのは長政と赤尾清綱、遠藤直経、磯野員昌ら長政に臣従する家臣たちだけだったことも長政に不利になった。この問題が浅井氏の未来を考えたものではなく久政と長政の権力争いに変化しかけたのである。長政は家臣団に決定的な分裂が起こる危惧に負けて信長と決裂を選択した。
こうして、若狭から越前へと向かっていた信長は逆に越前と北近江に挟まれることになる。ここで金ヶ崎から琵琶湖の西側を京まで逃れる「金ケ崎の退き口」が行われるが、金ケ崎にいた信長ならば若狭から丹波経由で戻ればよいものをわざわざ危険な近江に入って逃れる理由は不思議ではある。信長は金ケ崎ではなく近江と若狭の国境付近疋壇城に居たとの説もあるが、もしかしたらまだ長政の裏切りを信じられず近江の情勢を自ら感じようとしたのかもしれない。そして長政の裏切りは本当であったことも理解したのだろう。無事に京に入った信長は小谷城攻めを決意した。

小谷城内にも変化があった。
京極吉高は嫡男高次を少し前に人質として信長に預ける。これは浅井氏の保護を離れて織田氏を頼る意思表示でもあった。すでに北近江での基盤が確定していた浅井氏にとっては祭り上げる必要がなくなった神輿が勝手に逃げて行ったことを喜び、この時点で正式に北近江の戦国大名になった。
京極氏が居なくなったことで京極丸には久政が入り、くすと万福丸は本丸の奥に戻る。ここはお市や茶々と織田氏関係者の領域になっていて、お市が優しく接しても茶々など他の者は二人に厳しかった。くすは静かにいなしたが万福丸は母を失ったときの感情が蘇り反発した。この状況は信長にも報告されるため浅井の男児は織田に仇為す存在と記憶されるのだった。加えて長政の裏切りである。表の政治と真逆に織田の影響が強い奥ではますますくすたちへの風当たりが激しくなってゆくのだった。

夏になり、二万の兵を率いた信長は五千の徳川家康軍を引き連れて小谷城近くまで軍勢を進めた。長政は越前に援軍を求めたが当主朝倉義景は動かす一門の朝倉景建が小谷城で一番高所にある大嶽に入った。このとき、信長に小谷城を落とす意思はなく、長政の離叛で信長の本拠地である岐阜城と京の間に敵対国がある危険な状況を回避したかっただけであり、信長の出陣を聞いて長政が謝罪すれは不問にする可能性もあったのである。しかし、長政が朝倉軍を城に迎えたことで戦は決まった。それならば、浅井領から東山道を奪わなければならならず、小谷城以北に浅井氏を押し込め、佐和山城を手中に収めなければ信長の目的は果たされないことになった。その為には小谷城を監視できる横山城を落とさなければならず、織田軍は小谷城に背中を向けて横山城を囲んだのだ。
大名は旗下の領主が攻められていたら援軍を出して救わねばならない。長政は初陣前に肥田城に援軍が出せなかったことを常にどこかで悔いていた。織田軍の横山城攻めは長政を小谷城から誘い出す策であることは誰の目から見ても明らかだったが出陣しなければならなかった。小谷城と横山城は目視できるほどに近いため両軍の動きは斥候を放たなくてもわかる。長政は兵の準備ができると朝倉景建に使者を送って城を出た。姉川北岸に五千で布陣すると朝倉軍も八千で後を追って近くの三田村館に着陣。
織田軍も長政出陣を受けて軍を反転させ、姉川を挟んで対陣する。浅井軍には織田軍が、そして朝倉軍には徳川軍が向かいあったのだった。この時点で浅井軍の士気は高かった反面小谷城では一番守りの堅い大嶽に入り、野戦の姉川でも三田村館に着陣した朝倉軍に戦う気持ちは低かった、むしろ犠牲を少なく帰国するだけが目的だったのかもしれず浅井軍にとっては戦う前にひとつの不安を抱えていたのだが、それに気付いていなかった。
両軍はしばらく睨み合っていた。先に動いたのは浅井軍だ。二万の織田軍に対し五千ではあるが浅井軍先鋒の磯野員昌は姉川を渡り織田軍に突っ込んだ。織田軍は大勢で少数の浅井軍を囲む為に左右に広い陣形を敷いていたために鏃のように前面に強兵を配置して突っ込んで行く磯野軍によって陣形が崩れて行く。これは初陣の長政が六角氏を破った野良田の戦いと同じだった。磯野軍が開けた風穴は信長本陣目前まで続く、ここで磯野軍は壊滅し員昌は佐和山城に戻って籠城準備に入った。勝敗に関わらず東山道の拠点を失わないためだ。長政は信長に向かって全軍を突入させた。混乱する織田軍は立て直しに時間がかかり浅井軍に押されて蹂躙されるしかなかった。
そして徳川軍も姉川を渡り朝倉軍に挑んでいた。士気が低く判断力がない景建を大将とした朝倉軍は有力武将が討たれた時点で退却を選びあまり犠牲もないままに越前へ戻る。これにより浅井軍の後方がガラ空きになりそこに徳川軍が突っ込んで長政の退路を絶った。織田と徳川に挟まれ、敵軍の中にいる長政は早急に小谷城への退却を命じ引き上げた。
遠藤直経が機略で信長の命を狙って失敗し討たれる。佐和山城に行った員昌と討たれた直経、二人が長政の側から消えることは姉川での戦いの一番厳しい現実である。勢い着いた織田軍は横山城を落とし羽柴秀吉に城代を命じて岐阜へ戻った。小谷城は喉元に刃を突き付けられた形になり、少し後になるが東山道を確保するため佐和山城を鹿垣で囲んだ信長に員昌が降伏して信長は岐阜城と京の間の交通網を回復したのだった。

くすは、小谷城の麓清水谷にいた。味方を支援する食事の準備や怪我を負った兵たちの手当にあたる為に少しでも戦場に近い場所に居たかったためであった。長政の娘となれば本丸で戦果を待つだけても良かったが、すでに分別がわかる年齢であったこと、茶々がくすを睨み続けていたこと、それを見る万福丸も茶々に怒っていたことを考えるとくすと万福丸が働くだけで和が保たれる。下働きの者たちも庶子姉弟の立場を理解し甲斐甲斐しく働くくすを受け入れていた。口に入れやすいように結び飯を何個も作る。戦の始まりが知らされ磯野の活躍を聞き勝利を信じていた運ばれる怪我人が少ないと感じたがこれは味方が怪我では退かずに死ぬまで闘ったからだったがくすや周りは勝っているからと信じた。鉛で弾薬も作っていない、織田の陣に深く入り込む乱戦であったためどちらの軍勢も鉄砲を撃てなかった。混乱により正確な情報が清水谷に入らない。お市や茶々はもっと情報に枯渇した。
朝倉軍後退の報が飛び込み戦況の不利を感じたくすは弟と共に本丸に戻ってお市に伝え、自らは戦場を俯瞰できる御花屋に駆け込んだ、そこには留守居役赤尾清綱が立ち尽くしていた。くすに気付き「御味方の負けでございます」と呟くとまた戦場に目を向ける。くすも清綱の隣から見つめると一軍が城に向かって駆け寄るが、後方の大軍は並び直すだけで留まっていた。織田軍に追われないまま長政は城に戻ったのだった。
御茶屋に隣接する桜馬場が賑やかになり、長政の姿をくすが捉え、本丸へ行く後に付いた。手前の大広間でお市が待ち受けそちらに誘った。大広間には城内に残った家臣らが並んで平伏しており上座に座した長政は「負けた」と一言発した。
どこに居たのか茶々と万福丸は大声で泣いた。くすはそんな二人を見るだけだった。横山城開城の報と織田軍が秀吉を残し撤退した伝わり戦が終わったのだとしることになる。姉川は河口まで幾日も血に染まっていた。幼い頃にくすが見た夕焼けに染まる琵琶湖と似て否る長政が嫌った光景があったのだ。
こうして、姉川の戦いは終わった。戦が終わると勝者が土地の領主や寺社に費用を渡して遺体の始末や供養をさせる。信長は横山城の秀吉に任せた。この時に地元領主石田正継にも協力を依頼しているため、秀吉はくすと同い年の利発な佐吉少年とも知己を得たはずである。
秀吉は信長の命令で虎御前山と宮部城まで幅の広い道を普請し小谷城側に一丈(約3m)の土塁を築いた。そして小谷側には草野川(姉川の支流)の水を引き入れたのである。それは若き長政を変えた肥田城水攻めを彷彿させる織田軍の水守りだったのである。くすは長政と共に本丸の上から人口湖を遠望した。くすは琵琶湖よりも近くでキラキラ光る水面に不可思議に吸い込まれそこに恐怖は無かった。しかし長政は自らが苦悩し飛躍する契機にもなった水守りが敵方の戦術となることで浅井長政という個性の全てを奪われたと感じていた。水守りによる逼塞感を長政は若い時と同じ逃げ方をし、お市以外の女性に男児を生ませ茶々の機嫌はますます悪くなりくすに当たり散らしていた。くすは受け止めるだけて怒りも避けもしなかった。
「このような幼児に言われ放題とは、あなたは浅井の恥だ!」と茶々が叫んだときも怒らずにいると茶々は異母姉を「浅井の恥」と呼ぶようになった。屑や恥と散々な言われ方のくすに笑顔を見せたのは次妹の初だった。お市は茶々の態度を見て敢えて近くにくすを置いて何とか茶々に慣れさせようてしたが、茶々は頑なになるだけであり初がいつも怒っている茶々よりくすに懐くと茶々はますます激昂した。
長政は何度も信長と戦う。戦場が小谷城の近くであることは少なく、猛将森可成を討つなど長政の勝利もあったが確実に浅井の版図は減って行った。

元亀四年、いずれ天正と改元される年に長政最後の子である江をお市が生んだ。江の懐妊に気付いてからお市は初をくすに預けるようになっていた。くす自身もう14歳でありいつ嫁いでもよい年齢だったため初で子育てを学ばせようとし、また初も同母姉より年の離れた異母姉が好きだった。江が誕生した後もくすと初は擬似母娘を続けている。
八月になり信長が突然小谷城を囲んだ。長政らが籠城を決意し城の門を閉ざして守りに着くと織田軍は急に消えて越前に侵攻し朝倉義景は追い詰められて自害した。信長は長政が救援に出る間を与えなかったのである。返す刀で秀吉を先鋒にして小谷城に戻って城を囲む。秀吉は清水谷から険しい山腹を駆け上り中丸に出て京極丸付近を占領、小谷城を長政がいる本丸と隠居久政が京極丸から避難した小丸に分断してから小丸を攻めて久政を自害に追い込んだ、そして信長に懇願し総攻撃を一昼夜伸ばして本丸に使者を送りお市たちを引き取りに出向いたのである。
お市は三人の娘を信長に預けて自らは長政と共に逝くと訴えた。しかし秀吉はお市が居なくなった後の三姉妹が母のように信長の政治になっても良いのか? とお市と長政に訴えた。長政も妻が生きることを願い秀吉に託したが、織田の血が入らないくすと三人の男児を密かに城から落ち延びさせた。次男は最初から城に入っていなかったので領内の福田寺に隠れて出家したが、お市は二人の男児をくすに負わせることになってしまった。お市と三姉妹が準備をしている隙にくすら三人は秀吉の登った方向とは逆の山に入って行く。お市はできうる限りゆっくりと支度をして時間を稼ぎ、日が落ちてから三姉妹と共に城を出た。このまま信長と会い岐阜に送られれば終わる筈だったのである。
しかし、茶々が信長にくすと万福丸という織田に仇為す子どもがいると話し、初が「くす姉さまはどこ?」と泣いた。翌日、長政は本丸を出て戦い、本丸が奪われたために赤尾屋敷で自害し小谷城が落城し浅井氏は滅亡した。
信長は事前に侍女たちから報告された情報や茶々の訴えを頼りに、秀吉に長政遺児の捜索を命じて岐阜に戻った。

古楽
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古楽

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