■法華寺三珠院

 足が思うように動かぬ。三成は、腹具合の悪さと走り続けた疲労で精根尽き果てていた。途中で石田村にも行こうかと思ったが、すでに徳川の追っ手の者たちが張っていて、近づくことすらできなかった。
 古橋村に着いた時、三成は幼少のころの懐かしさを胸一杯にわき起こらせ、母のゆかりの法華寺三珠院へ向かった。古橋村からは少し山の中に入る。
 三珠院の老院である善説は、やっとのことで扉をたたいた男に、落ち着いたほほえみを見せて中へ入れた。その男の顔には、善説にとって忘れることなどないおもかげが残っていた。その男は佐吉、いや、今は治部少輔三成公。
「よくぞここまでまいられたのう」
 老院は三成にとりあえず茶を飲ませ、静かに休ませた。三成は、老院に何かを言おうとしたが、老院はそれを手で制すると、心配は無用と言うかのように静かにうなずいた。
 老院は寺男を呼ぶと、こう告げた。
「竜泉寺の住職に手紙を渡してほしい。身元のわからぬ男を一人あずかり、ここは山深くじゅうぶんに持てなすことができぬゆえ、引き渡したい」
 寺男は、ちらっと三成を見やると、何も言わないままうなずいて、老院が書いた手紙を持って山を下りていった。
 竜泉寺とは、古橋の集落内にある三珠院の末寺である。
「私はあなたのことを存じ上げませぬ。仏様がここへ招かれたのだということです。あなたは心配せずとも、仏様がお守りくださるでしょう。竜泉寺の住職は、きっとあなたの望みをわかるはず。動けるようになるまでは、ここで休んでいかれるとよい」
 老院はそう言って、庫裏へ下がった。三成は、追われる身である自分をこころよく受け入れ、力になろうとまでしてくれる老院の心づかいが胸にしみた。しかし、老院の言葉から、もうすでに古橋村へも徳川の追っ手が来ていることを悟った。
 こんなところにまでも。
 くやしさで、三成は歯ぎしりした。
 再起して必ず徳川の横暴を止めねばならぬ。秀頼様が危ない。なんとしてでも、少しでも早く、立て直しを図らねば。
 そんなことを考えながら、長く走り続けた疲れと体調の悪さから、三成は少しばかり眠りについた。まずは体調を整えねばならぬと。



「じいちゃん、竜泉寺は知ってるけど、三珠院て、おれ、知らんで? ほんなとこあったん?」
 幸輝は不思議そうに喜一郎の目をのぞきこんだ。喜一郎は深くうなずくと幸輝の顔に自分の顔を近づけた。
「ある。いや、あったんや。己高山よ、あそこの頂上近くまで登ると、鶏足寺跡があるやろ。今の鶏足寺と違うで。今のは前は飯福寺ていうたんや」
 幸輝は初めて聞いた寺の事情に目がさめたような顔をした。
「ほんでか! あそこ、鶏足寺、鶏足寺て言わあるで、なんでおんなじ名前の寺が二つあるんかと思てた!」
 喜一郎は、孫のこういう何かを知りえた時の明るい顔は好きだ。
「ほうよれ、お坊さんが修行しゃある寺が、ほれはもう数えきれんくらい己高山にはあってな。己高閣が建ったあるとこの横の道をずっと山に入っていったところに、法華寺三珠院があった跡がある。三成さんは、ほこで寺小姓して修行してたいう話になってるけどな。米原のほうにある観音寺かもしれんという話もある。小さい時は観音寺にいて、途中で三珠院に移ってきやあったちゅう話もある。ほんまに四百年前に行ってみんとわからんことだらけよれ」
 喜一郎の話を聞きながら、幸輝はだんだんとまじめな顔つきになってきた。それを好ましく思いながら、喜一郎はさらに話をすすめた。
「ほれにな、寺小姓て、いうたら修行しながらお世話する小間使いみたいなもんや。石田家は小そても豪族やった。寺小姓として入らあったんか、豪族の子としての修行、勉強をするために入らあったんかも、ようわからん。関ヶ原の戦いで勝った家康は、まだ日本全部をまとめてたわけではないし、豊臣がまだその時は上司やはかいな、三成さんをとことんしょうもない人間に思わせるために寺小姓て肩書きを変えてしもたんかもしれん。なんや、じいちゃんもようわからんのよ。わしのじいさんに聞いた話はもっとさらっとした話やったけど、今になっていろんな人が三成さんのことを調べてやある」
 幸輝は喜一郎の話を聞きながら、ちょっと退屈そうにした。そこは聞きたいことではなかったらしい。本当かどうかわからないという話は、さっきも聞いたからだろう。
「じいちゃん、ちょっと待ってて。ジュースとポテチ取ってくる。おなかすいてきた」
 幸輝が立ち上がってそのまま走り去る後ろ姿を見て、喜一郎は、やれやれ、子どもなんてそんなものだ、もう来ないだろうとため息をついた。が、予想とは違って幸輝は本当にジュースとポテトチップスを持って戻ってきたのである。


古橋 童子
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古橋 童子

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