■オトチの岩窟

「トミ」
「へえ」
 与次郎は娘を呼んだ。
 与次郎には娘が一人いて、跡継ぎによその村から婿養子として又左衛門を迎えていた。夫のいる身であるから、相手が三成公と言えども、男の元へ一人向かわせるのはあまり気が進まなかったが、自分一人でかくまってお世話するより疑われにくいのではないかと考えたのだ。
 与次郎は三成公のことをトミに話し、毎日の食事をオトチの岩窟まで運ぶように頼んだ。トミはたいそう驚いたが、恩ある三成公、それも、父の幼なじみで縁のある人であるから、危険とは知りつつも父の頼みを喜んで引き受けた。
 又左衛門は、あまりいい顔をしなかった。又左衛門の気持ちはわかる。だが、与次郎は又左衛門を一生懸命説得し、今の古橋が豊かであるのは三成公のおかげであることを言い聞かせて、絶対に他言無用。世話はトミにさせるから、おまえは知らないことにしておくように。そうすればもしや徳川方に知れることとなった時に、おまえだけはよその村の出であるから知らなかったと言えば助かるはずだと諭した。そして、与次郎は念には念を入れて、あえてオトチの岩窟の場所を又左衛門には教えなかった。そうすれば、知らなかったという言い分に真実みが増すと考えたのである。又左衛門は、しぶしぶうなずいた。
 取り締まりはどんどんと厳しくなってくる。特に与次郎は幼なじみであるから、三成にかかわっているのではないかと疑いもかかった。しかし、与次郎屋敷にその痕跡は何もなく、うすうす感づいていた村人も、誰も徳川方に告げることをしなかったので、そのまま数日が過ぎた。
 それからというもの、トミは献身的にオトチの岩窟へ通い、三成にニラ粥を食べさせていた。「これが一番うまい」と、うれしそうに粥をすする三成を見て、トミは同情を禁じ得ず、必ず守りぬかねばと思った。山菜採りの姿をして、カゴの底にニラ粥を入れ、オトチの岩窟まで通う。
 ある日のこと、与次郎の家に役人がやってきた。
「この家は毎日山へ仕事に出るが、えらい精が出るものよ」
 一人留守番をしていた又左衛門は、役人にそう言われて縮み上がった。もしや、かくまっていることがばれたのでは。そう思えてならなかった。大事な義父と嫁を守らなければならない。何がなんでも三成公のことを知られてはならない。知られれば、義父も嫁も危ない。
「山かな」
 役人は、そうひとこと言って、与次郎の家を出て行った。その日、又左衛門は与次郎とトミに必死で頼んだ。
「親父殿、かくまうのはもう無理や。役人が山を疑い始めてる。三成様を徳川方に引き渡したほうが、みなが安心なんちゃうんか」
 しかし、与次郎とトミは激怒した。
「おまえ……恩ある方に対して何ということを! 三成様は古橋の恩人。大切にせなあかんお人や。今までどれだけあのお人に古橋が助けられてきたことか。頼むはかい、ほんなことは二度と言わんといてくれ!」
 トミも父と同じように、うなずきながら言った。
「ほうやで、あんた。恩あるお人をほんなふうにしたらあかんと私も思うで」
 又左衛門は、この二人の様子に、今まで抱えこんでいた理不尽な気持ちを一気にふくらませた。そこまでして守る義理などあるのか。みなの安全と幸せを考えて忠告した自分の気持ちはわからないのか。こんなにみなのことを考えている自分よりも、三成公の方が大切なのか。それに、トミは毎日三成公のところへ行って世話をするが、行っているあいだ何をしているのか。山へ出かける時の顔はどことなくうれしそうに見えてしまう。もしかして、夫である自分よりも三成公に気を引かれているのでは。
 又左衛門はおだやかならぬ気持ちをためこんでいった。できることなら三成公の居場所を徳川方に知らせたい。金も手に入るし年貢も免れる。逆に見つかれば古橋はつぶされてしまうほどの罰を与えられるだろう。古橋にとっては、三成公を徳川方に引き渡したほうがはるかにいいのだ。だが、よその村から婿養子に入った自分は、今、三成公がいるオトチの岩窟の場所を知らない。与次郎は決して教えようとはしなかった。
 又左衛門には、徳川の役人に密かに三成公の居場所を知らせることすらできなかったのだ。
 一方、与次郎は、又左衛門が話した、役人の「山かな」というその言葉が気になっていた。もしかしたらこの岩窟が見つかるのも時間の問題かもしれない。山狩りが始まるとここから抜け出すのも難しくなる。近いうちに木之本のほうからもっと北へ場所を変えたほうがよいかもしれない。
 与次郎は必死で考え、オトチの岩窟まで行き、三成と相談した。
「三成様、徳川の山狩りが始まるやもしれまへん。動けますか。木之本宿まで出てまえば人が多いはかいに、かえって人にまぎれこみながら北へ逃れることができるかもしれまへん。わしがうまいことお連れしますはかいに」
 三成は、それを聞いてじっと考えた。山狩りが始まれば与次郎の言うとおり、見つかるのは時間の問題である。そして、かくまったとなれば古橋の村人たちに大変な罰が下るだろう。自分がいつまでもここにいることは、確かにあまり得策ではないように思えた。
「与次郎、すまぬ。いろいろと迷惑をかけるのう」
 三成は与次郎に頭を下げた。与次郎は驚いて、三成よりももっと低く頭を下げた。
「今の古橋があるんは三成様のおかげですはかい。みながあんじょうええ暮らしができていることを、恩義に思うてますはかい、どうか頭を上げとくれやす」
 すると、三成はうれしそうに笑った。久しぶりに笑った。与次郎は不思議そうにそれを眺め、それに気づいた三成は咳払いで笑いを止めると与次郎に言った。
「いや、すまぬ。あまりに懐かしい言葉回しじゃ。このあたりの言葉は心が温まる。やわらかい心持ちが伝わってくるような言葉じゃ。まこと、よい言葉じゃ」
 三成の瞳は、慈しむようにほほえんでいた。与次郎は少しはにかんで、また頭を下げた。
「与次郎よ」
「へえ」
 もう三成の瞳は、どこか遠いところを見ているように、ぼんやりとしていた。
「もうよい」
「え、ほれはいったい」
「田中吉政、来ておるだろう」
「へえ」
 与次郎は、いやな予感がしてぎゅっと両こぶしを握りしめた。
 少し寒く感じる秋の風が、洞窟の中を通り抜けていく。
「わしを捕らえたと田中に申し出よ。わしを引き渡せ」
 それは与次郎には衝撃の言葉であった。
「なんちゅうことを。あきまへん。断じてあきまへん。落ちのびて機会をねらい、また徳川に挑むんですやろ。あなたはまだあきらめてやあれんはずや。ここであきらめてどうしゃあるんか。必ずうまいことしますはかいに、どうか気落ちせんといてください」
 与次郎の言葉は真剣だった。田中に引き渡すなどありえない選択だった。自分がまずそんな恩を忘れた不人情なことをしたくなかった。それに、その行ないは古橋村をも裏切るに等しいことだった。
「よろしいですか三成様。天気のよい朝に、あなたを俵に入れて山を下ります。家捜しは済んでますはかいに、もううちに探しには来まへんやろ。ほこで一日静かに待って、次の日の朝にまた俵に入ってもろうて、木之本宿へ抜け出ましょう」
 与次郎は、庄屋とも話ができているとつけ加えた。庄屋も、与次郎が三成をかくまっているのをうすうす感づいており、竜泉寺の和尚を仲介して与次郎に問いかけてきていたのだった。三成が三珠院の門をたたいた時に、三珠院の老院から竜泉寺の和尚に渡された手紙は、もう灰になっていたが、その中には与次郎一人でかくまうのもいずれは限界が来る、その時は庄屋にも力を借りるとよいと書いてあったのだった。与次郎は、竜泉寺の和尚から、庄屋の力を借りたい時にはいつでも申し出なさいと言われ、このたび、庄屋に三成を逃がすための力添えをお願いしたのだった。
「ほうやはかいに、三成様、必ず身を立て直して、再起しとくれやす。もう一気張りしとくれやす」
 力のある与次郎の言葉に、三成は胸を熱くした。まだできるか。そんな気がしてきた。深くうなずくと、三成は与次郎に庄屋への伝言を頼んだ。
「わしが再起した時には、古橋から琵琶の湖までの間の山を削り取り、まっすぐ平らなる道を必ずつけるゆえ、よろしく頼むと庄屋に伝えてくれ」
 与次郎は、三成の瞳に光が戻ったのを見て取ると、うれしそうにうなずき、一人、山を下りていった。  明日の朝早く山を下りる。そして、古橋を抜け出す。三成の気持ちは武将のそれに戻りつつあった。



「じいちゃん、三成さんは何日くらいオトチの岩窟にいやあったん?」
 この問いには、喜一郎は少し困った。
 はっきりと何日いたなんて聞いていない。もはやおとぎ話に近いようなことだから、旧暦の九月十五日過ぎから二十一日までのうちの何日間かということになる。「せっせと通った」なんて話を聞けば、少なくとも半月くらいは潜伏していたように思えるが、関ヶ原から走って古橋まで来て、三珠院に身を寄せたあとで与次郎に岩窟に連れて行かれて、となると、どう考えても四日ほどである。
「すまんの。わからん」
 喜一郎はそう答えた。
「ええええええ」
 幸輝はがっかりしてひっくり返ったが、本当にわからないのだから仕方がない。
「まあ、三日ほどちゃうか」
 びょこんと起き上がってきた幸輝は、「三日!」と声を裏返した。
「短かすぎんか。おれ、二ヶ月くらいやあったんかと思たわ」
「ほうやろ、昔すぎてええかげんなもんや」
 喜一郎は苦笑した。
「でもまあ、古橋が必死で三成さんを守ろう守ろうとしたんはまちがいないことなんや」
 喜一郎は腕組みをし胸を張った。自分の村の誇れるところ、三成公が頼った歴史ある村である。
「ほんでどうなったん」
 幸輝はポテトチップスを口に突っ込みながら続きをうながしてきた。喜一郎もポテトチップスを一枚取ってパリリとかむと、また続きを話し始めた。

古橋 童子
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古橋 童子

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