■義の背中 村を照らす光となりて
帰宅した与次郎は呆然としたままだった。あと少し、あと少し進めば木之本宿に出て、人にまぎれて逃げきれるはずだった。しかし、三成は捕らえられ、自分はなぜか密告のために動いていたことになっていて、ほうびを取らすと。まったく意味がわからない。
「お帰りやす。おとちゃん、どうしたん」
様子がおかしい父の姿は、トミを不安にさせた。こんな父を今まで見たことがない。
「おとちゃん?」
心ここにあらずな父に、トミはとにかくお茶を飲ませようとした。
「えらい早う戻ってきやんたけんど、おとちゃん、三成様は。ちゃんと木之本宿に行かあったんですやろ?」
すると、与次郎はゆっくりと顔を上げてトミの顔を見た。トミは驚いた。与次郎の顔は泣きはらしたあとがあった。
「あかんかったんや」
「え?」
「あかんかったんや、見つかってしもたんや。三成様は捕まってしもたんや」
弱々しい父の声に、トミは不安でいっぱいになり、与次郎の背中をいたわるようにさすりながら話しかけた。
「なんで。庄屋さんもちゃんと準備してくれやあったし、みな、お役人には気づかれんようにしててくれやんたやんか」
与次郎は、それを聞くと突然怒りの形相になり、手ぬぐいを首からむしり取ると土間に投げつけた。
「又左衛門はどこや。どこにおる!」
父のただならぬ様子におののきながら、トミは恐る恐る答えた。
「なんて、おとちゃん。うちの人は朝から畑に種まきに行ってやんすで」
その答えを待たずに、与次郎はすくっと立ち上がった。
「あいつが告げ口しよったんや。三成様を連れ出す頃合いを見計らって、どこにいるかわかる時分に役人が行けるようにしよった。三成様は捕まって、あいつは、わしが三成様を捕まえてさし出すために出かけたことにしよって、役人からほうびまでもらえるて言われた。ほんなもん受け取れるかい。三成様はまちがいなく打ち首の刑や。この上は、いっそわしもかくまった罪で打ち首にされな、この身が恥ずかしてかなわんわい!」
父の大声にも驚いたが、トミは、自分の婿が告げ口したことに、もっと驚いた。
「ほんな……まさか……まさか」
あまりのことで今度はトミが呆然とし、与次郎は「出かけてくる」と言い置いて屋敷を出て、その足で庄屋の家に向かった。事のすべてを話し、庄屋から村人にその話は伝えられることになった。
「なんでや親父殿。わしは何も悪いと思わん。あのお方は落ち武者や。徳川の捜しようがこんだけ厳しかったら木之本まで出たかて絶対に見つかってしまうわい。ほれに下手したら一家で処刑や。わしは親父殿とトミと、村のみなに災いが降りかかったらあかんと思て……」
「ほれで恩人を売ったんか。今の古橋が豊かなんはあの方のおかげやぞ。ほれを、恩を仇で返すようなことをしよって。わしがおまえを殺したい気分や!」
「なんやて。親父殿、何を言うてるんや。わしより三成様のほうが大事なんか!」
言い争いはやまず、とうとう庄屋が割って入った。
「与次郎。もうほのへんにしとけ。こいつにいくら言うてもわからん。飢饉の時、三成公に助けを受けたんは、こいつが婿に来る前の話や。よその人間に、古橋の百姓の気持ちはわからん。何を言うてもあかん。三成公は捕まってしもうたし、おまえの家族が無事やっただけでもよかったわい。三成公もほう思うてやあるやろ。『よう気張ったな、与次郎。おおきにな』て、きっとほう思うてやある」
庄屋はそう言うと、今度は又左衛門に向かって言った。
「おまえもよう考えてやったことやろ。けんども、古橋全部がほうしようとしていたことを、おまえがわからんかったことには、けれんした。古橋全部の気持ちに添えんということは、わしらはおまえとこれから同じ村の人間としてつき合うことはでけん。わかるか。三成公を裏切っただけやない。おまえは古橋を裏切ったんや。おまえはほうは思わんやろし、与次郎とトミを案じたんやろけど、おまえの考えは逆さまやったんや。もうこれ以上は何も言わんはかい、ほうびの金がもらえたら、トミとは離縁して古橋から出て行ってくれ。ほうびの金があったら、親元に帰ってもよそへ行っても楽に暮らせるやろ。この村から、近々出て行ってくれ。ほれでええな、与次郎よ」
庄屋の言い分に、逆らう者は誰もいなかった。トミはただ静かに涙を流し続けていた。又左衛門は、それでも自分の何が悪かったのか、まだわからずじまいだった。義父と嫁の命を救ったばかりか、ほうびまでもらえるのに、裏切り者呼ばわりされる意味がどうしてもわからなかった。腹が立った又左衛門は、ほうびが出るとすぐに古橋を出て行った。最後にトミに向けられた目は、冷たい冷たい目だった。それは、自分の言い分を聞くこともしてくれずに三成公を助けようとした義父と嫁、そしてかくまった罪から守ったのに自分を裏切り者にした村への恨みだったのかもしれない。
古橋は日常に戻り、その後、徳川家康が大坂城を焼き討ちし、淀殿と秀頼は自刃、豊臣の世は完全に終わり、永きにわたる江戸時代が始まった。
しかし、古橋の中では、このことでみながさまざまなことを重く受け止めていた。村の会合で、今回のように村の足並みがそろわないのならばと、この先よその村からは古橋に婿養子を入れないという掟ができた。
与次郎は居ても立ってもいられずすぐに出かけ、共に西軍として戦った小西行長、安国寺恵瓊らと共に三成公が町を引き回されるのに付き添い、途中で茶をさし上げたりしてその身を案じた。
六条河原で斬首された三成の首を見るに見かねて、夜の闇にまぎれて首を持ち出し、大徳寺に駆けこんで和尚に弔いを頼んだ。
三成の引き回しの刑から斬首まで、つぶさに見届けた与次郎は、最期まで立派に豊臣の世を讃える信念を持ったまま気丈にふるまった三成の姿を、守りきれなかった自責の念を持ちながらも誇らしく感じた。しっかりと両手を合わせて菩提を弔い、けっしてその姿を忘れまいと心に誓い、寺をあとにした。
「ほんでよいかい? わかったかい?」
「うん、ありがとうじいちゃん」
幸輝は、食べ終えたポテトチップスの袋とジュースのボトルを持って立ち上がった。
四百年以上も前の話。
名前が今も残る武将ならば、三成にとっては本望でもあったかもしれない。
聞きたいことを聞き終えて軽い足取りで去る孫の足音を背に、喜一郎は縁側へ向き直り、途中だった爪切りを再び始めながら、孫の幸輝も、三成のように義に生きる人になってくれたらと思うのであった。
諸説ある伝説、古老、次世代に伝え語る。