鐘の音

ゴーン…ゴーン…
参勤交代で彦根に戻っていた直滋は(気にしてはならない)と自らに言い聞かせた。
だがやはり何かが違う。鐘の音は江戸でも聞く、参勤の道中でも耳にする、家光の上洛に従った時は雅で澄み切った音色に癒された。そんな都の音に比べている訳ではないが、雑音が籠ると言うべきだろうか? それとも音が一寸の差で二重に聞こえると表現する方が良いだろうか? 耳を澄ませて気にすると含まれてはならない響が邪魔をしていた。
ゴーン…ゴーン…
 美しくない、悪くすれば不快感すら込み上げてくる。耳を塞いでしまいたい。しかしそれでは何も解決しない。直滋は目を閉じて次の鐘の音に集中した。


 寛永十二年(一六三五)直滋は二四歳で正室を迎えた。相手は井伊直勝の娘お信。十八歳の新妻は直滋にとって従妹であり、同時に大好きな伯父との絆をより深める鎹でもあった。
婚礼が終わり家光へ報告をすると「そなたの奥方の顔を見てやろう」と将軍の彦根藩邸御成りを一方的に決めてしまった。
十二月二二日、彦根藩上屋敷は長い一日となった。将軍の為に贅を尽くしたもてなしを良しとする直滋と、質素倹約を旨とする直孝の間では御成りが決まった時から言い争いは絶えず、家臣が制止に入りやっと落ち着くのが日常茶飯事になる。
最終的に直滋の「元老である井伊家が、将軍家に対し質素なもてなしをすれば、諸大名も将軍家を蔑み謀叛の原因にもなります。父上は太平の世を終わらせるお積もりか」との言葉で直孝が引き下がり、以降は直滋の指揮の下で藩を挙げて考えられる限りの贅を準備した。
この一件から「やはり御世子様は武門の名家井伊家のお子である、大坂での殿を見ているようであった。そう言えば殿が初陣なされたのはちょうど今の御世子様と同じお歳の時であった、そろそろ家督を譲られる時期やもしれぬ」との噂が藩内で囁かれ始めた。
御成りは成功の内に終わった。余所では目にしないような珍品、近江米を使った上品な酒は将軍といえども初めて口にする物も多かった。
特別の御意でお信が家光の御前に出て挨拶をすると、同行した友矩に「あれが余から直滋を奪った痴れ者よ」と言い大声で笑った。
お信は返答に窮する様子もなく「上様よりのありがたい賜り物でござりました」と返し夫婦仲の良さを示した。
「若殿だけではなく、若奥様も聡明であられる」この場に同席した藩士は次代に対して大きな期待を膨らませた。
 直孝が次に紹介した人物は、この日の為に彦根から呼び寄せていた作之助だった。庵原の教育で立派な男子に成長した息子を、将軍に拝謁させ井伊家に直滋以外後継ぎも存在すると天下に示したが、家光を始め周囲もそこまで深く考える事もなく作之助の拝謁を許した。
 一日掛りの御成りは無事に終わった。この後に作之助は元服し井伊直時と名乗る。

(反響している)
朝鮮通信使を迎える準備の為に彦根城に戻った直滋は、理不尽な二重奏の原因をやっと掴んだ。時を告げる鐘が置かれている鐘の丸は彦根山の中頃付近であり本丸に続く山肌に反芻した音が遅れて聞こえていたのだ。
(もっと遠くまで美しく響かねば藩の怠慢である)
 さっそく木俣清左衛門を呼び出して高所への鐘の移動を命じた。場所を移された鐘はより美しく時を告げるようになり、その評判がこの鐘に“時報鐘”という呼び名を与えて城下の民に親しまれるようになった。藩士たちも音色の違いを聞いて始めて直滋が拘った理由を理解した者が多く、その繊細さを称える声は江戸の直孝にまで伝わったのだ。
 直孝はそんな直滋をますます危惧した。家光の過剰な愛着を断れないだけでも井伊家にとって不安が残り、必要以上の繊細さを持つとなれば藩政の細かい部分ばかりが目に付いてしまう。小を見て大を見ることができぬ者では政治を任せられない。
(直滋を如何するべきか…)
 自分の死後を考慮すれば、落ち度もなく家臣との融和もあり、将軍にも好かれている者を廃嫡してはならない。
答えが出せない自問自答の末、いつもの問題は先送りとなっていく。
そんな直孝の苦悩と同じものを抱えていた柳生家では一つの答えを出していた。惣目付の立場を守ると決意した宗矩は、友矩に対して剣術修行の為に柳生へ帰るように命じた。
友矩は反抗せずにこの命に従い、家光に何も言わずに江戸を出た。
家光は宗矩を呼び出して怒り、何度も友矩の復帰を下知するが巧みに引き延ばされた。
一年近く将軍と惣目付の感情と虚構の対決が続くが、友矩急死の報せによって終わりを迎え、小田原に蟄居していた三厳を書院番として復権させると宗矩が家光に宣言した。

八年後、柳生宗矩が死んだ。三厳がまた家光の怒りを買うことを恐れた宗矩は剣術指南役を自ら行い三厳と家光ができるだけ会わないように苦心していた。そして柳生家は一万二千五百石を領する大名になっていたのだった。
家光は三厳に柳生家の家督相続を許すが、その方法は三厳に八千三百石・三男の宗冬に四千石・柳生家菩提寺の芳徳寺に二百石と分知されてしまい柳生家の石高は変わらないものの、三厳は大名から旗本へと家格を下げたのだ。
「これは寵臣友矩を江戸から離した柳生に対する将軍の復讐ではないか?」との噂が当たり前のように世間に伝播した。
 三厳はこの仕打ちを憎み、それは家光の耳にも入る。いや世間の噂通り友矩を引き離した宗矩や、若い頃に散々に打ちのめされ鮒侍とまで言われた三厳を恨んでいた張本人こそが家光だった。
「友矩に四万石を与えようとしたおりに、邪魔をした者こそ奴等ではないか」
 将軍の歪んだ思考からすれば、所領をそのまま残しているだけでも恩恵なのだ。
 宗矩の喪が明けると、三厳が登城した。御座所へと進む姿には一つだけ異常な物が握られていた。袋竹刀である。
 しかし、将軍家剣術指南役の後継ぎが持っているので幕臣からは「将軍様の指南であろう」くらいにしか思われず咎められずに家光が寛ぐ座敷の襖を開けた。
 家光の傍らには直滋が座していて、日光参詣の相談を行っていた。柳生家の一大事を招いた男は「そんな事など知らぬ」と言わんばかりの弛みきった表情で微笑している。
「将軍、推参なり!」
 手にした袋竹刀を大きく振りかぶった三厳が威嚇しながら家光に駆け寄る。
「柳生殿、無礼であるぞ」
 突然の事に動けないでいる家光の前に、大の字に腕を広げた直滋が立ちはだかった。
「邪魔をするな」
 勢いを味方にした一撃が直滋を襲った。
 ガツッという重い響きが部屋中に木霊する。脇差を鞘ごと抜いた直滋が鍔元で袋竹刀の切っ先を受けていた。
 なおも力任せに切り下げようとする三厳を横に流し、両者は一歩引いて構えた。
「その程度の腕で将軍を守るのか」
 軽い侮蔑が三厳の片目に浮かんだ。
「その程度に止められましたな」
 先ほどの一撃で痺れた右手に脇差しの柄を握らせながら、精一杯の虚勢を張った。
「刀の差で勝ったとしても卑怯と罵られる、竹刀を準備しろ」
 構えを解いた三厳に対し直滋は「戦場で武器を選ぶ間は無い」と断り、脇差の下緒を解いて右手に巻き付けた。万が一にも鞘が外れない為の処置であった。
「ならば遠慮なせぬ」
 三厳は息をつかせない速さで何度も打ち込み、直滋は防戦一方となった。
「赤い小鬼は口だけか?」
「お主は旗本である、譜代筆頭の世子に対して無礼であろう」
 薄ら笑いすら浮かべていた三厳の顔が怒りに変わった。
「親の七光が偉そうに!」
「ならば柳生も親の功績であろう」
 三厳の攻撃がますます勢いを増す。感情的になってもなお鋭い剣術に直滋は舌を巻いた。
 痺れていた右手が感覚を失いつつあり、このままではいつまで持つのかも自信がなかった。
 覚悟を決めた時、直滋の脳裏に時報鐘の音が響いた。
 ゴーン、ゴーン…
 ガツッ、ガツッ、ガツッ
 同じ間隔で響く鐘の音が、今受けている袋竹刀の音と重なっていく。平時ならば変化に富んでいる筈の柳生新陰流の剣が怒りのあまり単調になっていたのだ。
 聞きなれた音に合わす事で、次の一撃が予想できるようになり、むしろ心地良さすら感じ始めた。だがその鐘の音に微妙なずれもあった。鐘の丸に置かれていた鐘が山肌に反響していた時のような小さな違和感。袋竹刀の出すそれの原因を探った。
(右からの攻めにあり)
 三厳の左側、それは若い頃に家光が誤って奪った目の位置だった。
(上様に救われた)
 攻撃を鐘の音に重ねたまま、違和感を感じた瞬間に直滋の右腕が大きく伸ばされた。
 二の腕に激痛が走るが勢いは止まらず、鞘の先は三厳の左脇腹を突き肋骨を砕き、三厳はそのまま気を失った。
「直滋見事である」
 食い入るように二人の試合を見ていた家光は、隻眼の男が倒れた事で我に返り勝者を称賛した。
「いえ、私の負けでございます」
 右腕の袖を捲くった直滋は家光に二の腕を示した。そこには赤くはれ上がった一本の太い筋がくっきり浮かんでいた。
「真剣ならば、柳生殿が我が右腕を斬り落としておりました。袋竹刀なればこそ脇に隙ができたのです」
 実戦を旨としながら道場剣法でしか勝ちを得られなかった直滋は、この時以来剣術の封印を己に課した。
 三厳も、弟の宗冬に剣術指南役を任せ自らは柳生に籠り鍛錬を繰り返すが四年後に山城国大河原村で急死する。その死には友矩の時と同様に多くの疑惑が残ったのだった。
 二人の闘いを見た家光は、直滋の実力を知り稽古相手には呼ばなくなり、この頃から病魔が蝕み始める。
 己の身体の自由が奪われ続ける中で望んだのは、再び剣士たちの命懸けの闘いを観る事だった。
 権力の名の下で全国から豪傑を募って病室で闘わせた出来事は“寛永御前試合”と脚色されて民間に伝播する。しかしその剣士たちの中に井伊直滋の名を見つける事はできず、直滋は一大名世子として控え目に父に従ったのだ。


 慶安四年、徳川家光が将軍在任のまま亡くなった。井伊直孝・直滋共に目まぐるしく諸事をこなし将軍の座は家光の子である家綱に継がせた。
 十一歳の家綱に自ら政治を行う能力はなく、幕政は直孝や保科正之ら家光時代からの官僚が引き継いだ。直滋が将軍に呼ばれる事もなくなり「四十路にして藩主になれない万年世子」として周囲の評価が冷たくなっていったのだ。
 二年後、直孝は己の世子に、家綱が行うべき家光三回忌日光参詣を代参させる。家光の供として参詣した時は幕政や世情・剣についても深夜まで語り合ったが今回は寂しい旅となった。
 家光が眠る輪王寺大猷院廟の前で手を合わせた直滋は情けなさに涙が溢れた。
「大猷院様(家光)の許に行きたい」と漏らし出家も考えたが、藩邸にはお信が待っている。夫が不甲斐ないばかりに惨めな思いをさせている。このまま出家したのでは、お信や義父である直勝すらも裏切るのだ。
 日光の帰路は足が重かったが、妻の為に藩主となろうと誓った。
 しかし明暦元年六月十三日、お信は三六歳の若さでこの世を去る。葬儀には国替えによって三河西尾で隠棲していた直勝も訪れ娘の死を悲しみ、直滋の傷心を案じてくれた。
 愛しい妻を失った悲しみと共に藩主就任への意味も崩れ、気が付けば寛永寺に籠っていた。
「井伊様、本当に宜しいのですか?」
 寛永寺の僧はそう訊ね、無気力に頷いた。「出家したい」と寺内に駆け込んだのだ。
 数日間籠り、明日髪を下ろすという日になって十名ほどの武士が取り囲み、抵抗する直滋を抑え込んで駕籠に乗せて藩邸まで運んだ。
「若殿様、なんと御無体な! 殿が嘆かれまするぞ!」
(無体はお前たちだろう)と思った。見覚えがある彦根藩士共だ。将軍家の菩提寺に乗り込んで人を連れ去る無謀が許されるものか。
 藩邸では直孝が待っていた。最早何を言う気もなくただうな垂れたままで居ると、頭上に言葉が流れて行った。
「お信殿を失ってつらい気持ちは分かるが、そのまま出家とは余りにも未熟である。休養しによく考えよ」
 熱海に送られ、湯治の日々を過ごしたが気持ちの晴れる事はなかった。だが付き従う藩士を何時までも留める訳にもいかず、明るく振舞って江戸へと戻った。
 
 万治元年(一六五八)、六月にお信の三回忌を済ませた直滋は久しぶりに彦根の土を踏んだ。
この年は十二月が二回あり閏十二月も終わろうとする中、江戸の直孝に火急の報せが舞い込んだ。
「直滋様、ご出家!」
 閏十二月二〇日、百済寺へ参詣に出向いた直滋はそのまま寺に籠り即日出家したのだ。
 寛永寺での不備を再び繰り返さぬように考えた上での早さだった。
 直滋の代わりとして直孝が密かに教育させていた直時は、八ヶ月前に病没していたので藩内では上へ下への大騒ぎとなったが、直孝はそんな藩士たちを横目に一人冷静さを保っているように見え、その姿に安堵し冷静を取り戻した。

「お父上様がお亡くなりになられました…」
百済寺の直滋の元に報せが届いたのは出家から半年後だった。幕府元老として最後まで幕府の実力者であり続けた直孝は彦根に帰れないままにその生涯を閉じたのだ。
「ご遺体は、世田谷の弘徳庵に埋葬されます」
 直滋が幼い頃に、父は雷から救ってくれた不思議なネコに出会った。と話してくれた寺だった。現実主義の父が、この話をする時だけは神仏の加護にすがろうとするどこにでも居る男に見えたのを、直滋は今さらながらに思い出してしまう。
事実、弘徳庵の“たま”に出会った時から父の出世は余人を追従させなかった。
 十五万石から三十万石への加増、五万石の預り米の管理、元老への推挙。徳川幕府に井伊家は欠かせない存在へとなっていったのだ。
 直孝の眠る弘徳庵は恩人の戒名から豪徳寺と寺名を変える。
「当主は誰になった?」
直滋は使者に尋ねた。すると使者は「直澄様にございます」と応える。彦根で生まれ育った末の弟だった。藩主の子に誕生しながらも直滋自身が世子として国許の藩政を預かり、十歳歳下の弟である直時も聡明で知られていたために直澄には藩主就任の心積もりは無かっただろう
父も世子と庶子には大きな区別を行い、庶子である直澄に藩主教育は行われていなかった。
(さぞや困惑しているであろうな)
 遠い記憶の中に残る穏やかな直澄の顔が不自然に崩れて浮かんできた。

 彦根藩では直孝の死と直澄の藩主就任による相続作業のために、直滋への連絡は一時的に中断されていた。
 二年ほど過ぎようかとした頃になって混乱もやっと落ち着きをみせ、一人の僧が百済寺の直滋を訪ねた。
 腰に脇差を差して直滋の前に進み出て元政と名乗った僧は、己の立場を隠さずに語った。
 元々は石居吉兵衛と名乗った彦根藩士だったこと、姉が直孝の目に止まってお手が付き生まれた子が三代藩主に就任した運命。
そんな事情から石居家も彦根藩で重用されるようになったが、吉衛門には兄が居て自身は病弱あったので若くして出家したそうだ。
 この度は藩主の命、つまり直澄は叔父を長兄の元へ送ったのだ。
(それ程に特別な話がこんな出家にあるものか?)直滋に疑惑が過ぎった。
 そんな思いを察してか、元政は前置きもなく懐中より書状を抜き出して直滋の前に差し出した。
「先君のご遺言にございます」
 受け取った遺言に目を通すと、藩政の事や井伊家のこれからの生き方が書かれていた。そして“靭負が生活費の加増を願っても許可するな”“もし彦根で合戦が起こり、靭負が加勢を申し出ても断れ”とも書かれていた。
さっと目を通した直滋は、狂ったように大声を発して笑った。
(ここまで俺が怖いか!
自分を手に入れるために母を殺した父直政を恐れ!
神君に言われるままに井伊家を譲って安中に移った兄直勝に畏敬を示し!
権力という甘い汁を吸わせて井伊家の自滅を図った秀忠と家光の目を警戒し!
そして世子であったこの直滋を死んでまで抑えようとする!)
この恐怖心が功名への焦りとなり、大坂冬の陣で真田丸に無謀な突撃を仕掛けて藩士の命を無駄に奪い、夏の陣では和議が成立し気が抜けた大坂方が誤って出火した天守の火事を戦と誤解して、山里郭に鉄砲を撃ち掛け淀の方と豊臣秀頼の命をも奪ってしまったのだ。
次々と死者を罵ったが、父は誰よりも弱い人であったのだ。と思い知る。
(夜叉掃部の異名はどれほど重く寒々しい虚構であったのだろう?)
 聡明といわれながらも、たった十歳で何が解ろうか?
 しかし藩祖直政は十歳の直孝を認め、同い年の直勝を否定した。直孝は幼くして周囲の期待を裏切ってはならない立場へ立ち、自らを追い込んでいった。
「直澄は妻を娶らず、四代藩主は直時の子の吉十郎にするように。だと? 父は自ら苦しんだ道をまだ四歳の孫にまで押し付けようと言うのか?」
 歩んできた重圧を誰かに理解されたい。と直孝が最後に孫に託した自己主張だったのかもしれない。
 直澄や元政にはここまで直孝の気持ちは理解できないだろう。が、この遺言に隠された直滋への何かを感じ取って叔父を派遣した直澄の直感力には舌を巻いた。
 もしこの内容に怒って直滋が元政を斬ったとしても身内として隠す事も大々的に利用する事も可能だ。しかし直滋は、目の前に座る元彦根藩士の清々しいまでの正しさと謙虚さに心を打たれ斬る気にはなれなかった。
 この男を死なす訳にはいかない、無事に帰してこそ彦根藩の為になるのだ。
 ふっと元政が腰に差したままでいる脇差しが気になる。武家の出で藩主の代理で来ただけでは説明が付かなかった。元政もそれを察して脇差を鞘ごと腰から抜いて直滋の前に置き「お改め下さい」と一歩引いた。
 手に取った脇差の鞘を払って抜き身にする、業物である鎌倉期の備前で鍛えたのであろう。
「雲次か…」直滋が言う、雲次は亡父が愛用していた脇差であったが今この手に持つ物とは違う。しかし元政は「雲次中御脇差にございます」と答え尊い刀であるとした。
刀身に映る直孝に似た自分の顔に対して「分かった、行けばいいんだろ?」と独り言を漏らし雲次と共に奥へと去り、元政もそのまま百済寺から下山し彦根には向かわずに洛南深草の瑞光寺へと戻った。
 直滋は若い頃から鍛錬した通りの作法で己の腹に雲次を導いた。
「介錯が居ないところまでは考えなかった」
 十字に腹を切っても落ちなかった首に対して雲次を突き、次第に意識が薄れていった。

 寛文元年(一六六一)六月九日、直孝三回忌の直前に、直滋が亡くなったと百済寺からの使者が直澄に告げた。
辞世の句は

 いるならく
奈落の底に沈むとも
又もこの世に我がへらめや

 五十年の人生の最後になぜ奈落の底に沈む境地に達したのか? 三代藩主が長兄に訊ねることはもうできない。
 のちに直澄は、酒井忠清と共に幕府大老に就任、温和な人柄から井伊家を文治の家として世に知らしめ、以降大老職は井伊家の当主が務める礎を築く。

 直滋の死から七年後に亡くなった元政の御廟は縁切寺と呼ばれ、瑞光寺の境内に残っている。

 井伊直滋は時報鐘を移した人物としてのみ彦根城の歴史に名前を残っているが、他方で歌集『井伊直滋詠草』を著した歌人としての顔も持つ文化人であったとも伝わっている。
その評価は撞き手が変わると音色も変わる鐘のように定まっていない。

古楽
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