井伊と柳生と家光
もし記憶に始まりがあるならば、それは幼き身にとって余程の衝撃なのだろう。
靭負の記憶は、三歳の寒い日に伯父の膝の上に乗せられたところから始まっている。
下から見上げている靭負に対し、伯父の井伊直継は目尻を下げながら語りかけた。
「そちの父上は、先の大坂での戦で大活躍であった」
直継は、徳川家康の譜代家臣の中でも第一の側近であった鳥居元忠の孫娘を正室に迎えていた、しかし子が無く靭負を溺愛していた。
「大坂城には、真田信繫と申す武将が居って、当家と同じ赤い甲冑を纏った軍を率いていた」
伯父の言葉を聴きながら靭負の心は躍り、その脳裏には赤備えの軍団が二つ現れた。
「信繫は、真田丸という出丸を造り、そこに籠った」
「でまる?」と幼声が問いかける。
「城を守る敵前の砦のことだ」
幼い脳の中で、大きな城の前に小さな砦が出来上がり、二つの軍団の一つが砦に吸収され、「さなだは、ひきょうじゃ!」と憤慨した。
「そうじゃ。しかし父上は勇敢に攻め込んだ。
敵は真田丸に隠れながら我が軍に鉄砲を撃ち、当家は手痛い傷を負った。父上はやむを得ず兵を引いたが、その武勇は敵も味方も震撼させ“夜叉掃部”との二つ名を得たのだ」
直継は、その場に居たかのように弟の直孝の活躍を甥に話して聞かせた。しかし先の大坂出陣では、病弱を理由に飛び地近くの碓氷峠警護を任されていて大坂には直孝が井伊家家臣団を率いていたのだった。
そんな事は知らない靭負は、伯父の話を聞きながら、父が赤い軍団の先頭に立ち高くそびえる城壁の前で采配を揮う姿を思い描いた。それは酒呑童子に向かってゆく源頼光や、一条戻橋の鬼の腕を斬った渡辺綱のような英雄その物の姿だった。
直孝が靭負と対面してもこのような手柄を話さない。その物足りなさを直継は埋めていた。幼子の心では、伯父が父親を助けていると思い込み、そんな頼り甲斐のある伯父が大好きだった。
障子の向こうに武士の影が映り「殿、駿府の大御所様より使者が参っております」と用件のみを伝えて消えた。
直継の顔から笑みがなくなり、甥を膝から下ろして影の後を追って行く。
それは、直継の隠居と直孝の家督相続を命じる使者だったのだ。
「彦根を、井伊家を任せた」
年が改まる頃にバタバタと井伊家の藩主交代が行われ、直継が彦根城から去る瞬間を迎えた。
「父直政は藩祖として初代藩主にしろ、直継は二代目から外して直孝が二代藩主として後に伝えるのだ、解かったな」
伯父を見送る靭負の近くに控える家臣が「さんだつ」と呟いた。意味が分からないままに、しかし忘れてはならない言葉だと思い、靭負は「さんだつ」と誰も聞こえないように反芻した。
「ご出発!」
大手門が大きく開き、直継は馬に跨った。
「また江戸で会おう」
当初は隠居が命じられた直継だったが、彦根藩十八万石から飛び地の安中藩三万石を分知され安中藩主となった。つまり大名としての地位は残るので江戸と国許を行き来する。逆に今までは白井藩一万石の藩主でしかなかった直孝が彦根藩十五万の藩主となり、嫡男である靭負は江戸屋敷への常住が決定した。つまり江戸で安中藩邸を訪問すれば伯父に会う事ができるのだ。
だが今までのような甘えは許されない。
「伯父上!」
城を離れ段々遠くなっていく伯父の行列をいつまでも目で追いながら叫んだ。
ゴーン…
鐘の丸に設置されている鐘が時を告げる。その音は主人に永遠の別れを告げているように、まるで泪声の如く濁って響いた。
行列が去った後、「さんだつ」の意味を家臣に訊ねたが、皆が青い顔をして言葉を繋げなかった。これまでは伯父に訊ねればすべての答えが返ってきたがもう居ない。そして父には訊ねてはならない。と幼いながらも肌で感じていた。
四月に入ると藩内は慌ただしくなった。徳川家康より内々の報せがあり、直孝は軍備を整えて藩士を連れて物々しく出陣。ひと月も過ぎない間に帰城した。
父は相変わらず深く語ろうとしないが、二度目の大坂での戦も大活躍だったと靭負の耳にも届いた。若江では豊臣秀頼の乳兄弟であり昨年の戦で勇名を馳せた木村重成を討ち取り、大坂城落城時に秀頼や淀の方が籠る山里郭を囲んで鉄砲を撃ちかけたそうだ。これに観念し秀頼は自害し郭を爆破したらしい。首こそ取れなかったが一番手柄と言えるではないだろうか。
予想以上の戦果を聞き精一杯の祝辞を述べると、直孝は「うるさい」と一喝した。
何年かが過ぎ「さんだつ」が「簒奪」であり、それが父に対する一部の家臣の評価だと知った時、伯父(安中藩主になって「直勝」と改名)に大きな贖罪を負ったのだと悟る。
同じ頃、豊臣家滅亡について「本当ならば秀頼は降伏していたが、不幸な天守の失火から直孝が勘違いして山里郭を囲い手柄を独占した」との話が流れ始めた。
靭負の楽しい思い出は、傷となって心に刻み込まれていった。
大坂の陣から十五年の月日が流れた…
白い褌を強く締め、浅黄色の裃を丁寧に羽織る。腰は無刀で重みを感じず物足りない。
背を伸ばし坐していると遠くから名を呼ばれ、すっくと立ち上がってゆっくり板張りの廊下を歩んでいく。冷えた床は裸足の温度を奪うが最早そんな事は関係ない。
部屋に入ると白い敷物が敷かれ、三方の上には九寸五分の短刀が剥き身のまま置かれていた。
三方を正面に座ると、左背後に太刀を持った武士が立つ。
桶から水を掬い刀に流す音が鼓膜から入り脳と心臓に伝わって清涼感に満たされた。武士は清めた刀を上段に構える。その気配を察し懐を広げて腹を晒し短刀を懐紙に巻いて手に取った。
「いざ」と武士が促す。
切っ先をゆっくり左腹へと突き刺した。
冷たい刃は、身体に入った途端に熱い物体となって襲いかかる、一瞬気絶しそうになるがそのまま右腕に力を入れて腹を一文字に切り裂いた。
背後から気合いが聞こえるが「まだまだ」と叫び再び鳩尾へと刃をあてがった。先程よりは軽いがまた熱さに襲われる。
今後は臍の辺りまで切り下げ、背後からの刀が首に吸い込まれていった。
うなじの後ろ辺りに三度目の冷たさと熱さを感じ、首が床に落ちる。
(十五年前、豊臣秀頼殿は潔く腹を召され、遺体が辱めを受けぬように火薬で爆破させたと聞く。武士としては当然の心得であるが、いざという時にそのような選択ができるのは日頃の鍛錬があったからに違いない)
朝日に顔が照らされ既に目覚めの時と知り、井伊直滋は床より起き上った。
徳川四天王として“開国の元勲”と称された祖父井伊直政や、大坂の陣で“夜叉掃部”の二つ名を得た父井伊直孝の血脈を継ぐ嫡男として靭負と名乗っていた幼い頃より武芸を学んだ。
だが、世は武断派であった井伊家の家風とは反対に争いの無い世を築きつつあったのだ。その中心となって働いているのが井伊直孝である。
そんな父に反発するように直滋は武を重んじた。その習慣が毎朝目覚めと共に己の死を体感する事であり、今朝は切腹の作法に沿って腹を切ったのだ。
「若殿、お城よりお召でございます」
寝ずの番で隣室に控えていた藩士が、直滋に徳川家光からの突然の呼び出しを告げた。
(またか)と父は苦虫を噛み潰しているだろう。
「すぐに参る」と起き上った。
直滋が家光に召される理由は一つだった。武芸の稽古である。
直滋と同じく戦国の風紀を残しながらも戦の無くなった世に生まれた家光は、必要以上に武芸に興味を持ち、様々な武芸者を側近に召し抱えた。しかし多くの者は将軍世子に怪我をさせる訳にはいかず、家光にも分かる形で手を抜いた。
家光は怒り、他の武芸者を遠ざけ将軍家武芸指南役を務める柳生宗矩の嫡男三厳を召しだした。
江戸城に登城した柳生三厳は遠慮をしなかった。父であり師でもある宗矩の打ち込みにでも、隙があると打ち返し、時には壁際まで追い詰めた男だ。自然と宗矩は本気となり、この親子が家光に披露する剣術は常に命を賭けた真剣勝負になった。
そんな三厳だから家光に対しても厳しい、いや現実には三厳自身は手を抜いているのだが、家光にとっては常に恐ろしい稽古であり、三厳が家光の三歳年下だったことも災いした。弱年者に指導された家光は、相手が自分をバカにしているようにも見えたのだ。
二人はこの異常な関係を七年も続ける。その間に家光は将軍宣下を受けたがそれでも三厳の態度は変わらず、昨年十月ついに事件が起きた。
いつも通りの厳しい稽古の最中、三厳は家光の剣を軽くあしらいながら「さて『余は将軍ぞ』とお威張りのお方が何とも不甲斐ないことよ。
上様は辰年にございましたな? 滝の底に眠る鯉は滝を上って龍となり、失敗すれば鮒になると聞き申す。
鮒は煮れば骨が無くなるうつけ者。さては上様も滝登りに失敗した鮒侍の誤りでありましょう」と挑発したのだ。
元々根が暗い家光は本気で怒り、持っていた袋竹刀を投げ捨てて脇差を抜いて斬りかかった。
三厳は慌てた様子もなく家光の刃を弾く、この勢いが強すぎて脇差が半ばで折れ、そのまま三厳の左目を貫いた。
動じることなく己の左目と共に刃を抜いた怪我人に対し、家光の方が青くなって震え始め腰を抜かしてしまったのだ。
「それでも武士か、軟弱者め!」
溜まっていた不満が一気に爆発し三厳は大声で怒鳴った。この声に近くで控えていた小姓が慌て、宗矩が駆け込んでくる事態に至った。
そのまま屋敷へ引き上げた三厳は、翌日に眼帯姿で家光の稽古を行ったのだ。家光は眼帯を見る度に己の罪に慄き、逆恨みとなり、やがて三厳は小田原に蟄居を命じられた。
柳生家では嫡男に代わって次男友矩が若い三代将軍の練習相手に召された。
三厳の代わりとなるくらいだから友矩の剣の腕も優れていた。それにも増して家光を喜ばせたのは少女とも見間違うほどの極め細やかで白い肌と華麗な顔立ちだった。
「柳生家は剣ではなく美少年を用いて将軍の覚えが目出度くなった」と諸大名から揶揄されるまで大した時間も掛からず、また噂は真実を示していたのだ。友矩は家光の寵童となっていた。
直滋を江戸城内に構えた道場に誘った家光は、小姓に袋竹刀を二本持って来させ一本を直滋に渡した。竹を束ねて袋を被せ刀の長さに揃えた袋竹刀は柳生新陰流が稽古に用いる道具だ。
叩かれれば痛さは身に染みるが、命や身体に支障がない。袋竹刀を準備する時点で家光の剣術は遊びである、実際に戦場に出れば刀の重さに耐えられる筋肉が出来上がっていないと知らされるであろう。
既に豊臣家が滅び、豊臣恩顧である外様大名も代替わりをした家が多いが、家光や直滋のように戦を憧れる大名が居ないとも限らない。そんな連中が挙兵した時に将軍として本当に戦えるのか? 疑問である。
家光は早々と袋竹刀を正眼に構え、直滋も正眼に構える。お互いの切っ先が触れカチッと鳴った。
先に動いたのは家光である。気合いと共に一歩前に踏み出したが直滋も同時に一歩引いた。
家光は続けて二歩三歩と攻める。それをサッと左へ流した直滋は上段に振りかぶり家光を右袈裟に斬り掛る。
攻めにより勢いが止まらない家光は、直滋の下ろす袋竹刀を受ける余裕は無い。
(まずい!)
直滋はとっさに左手親指を柄から外す、一瞬袋竹刀が左右に流され勢いが緩む。その隙を判断できる家光はやはり袋竹刀での試合では素人ではないのだろう、振り上げた袋竹刀が直滋の一撃を受けて抵抗により勝手に持ち上がった直滋の袋竹刀を追って更に斬り上げて飛ばした。
少しの間を置いて竹が床に叩き付けられた音が道場に響いた。
家光は肩で息をしながら構えを解く。
(気付かれたか?)
手を抜かれることを嫌う家光に親指の件を見抜かれれば、ムキになり散々に打ち付けてくるのだ。
「直滋、油断したな。勝負は勝つと思った瞬間が一番の隙なのだ、では続けて参れ」
心地良い汗の滴りに満足気な顔をする家光の姿にホッと息を撫で下ろした直滋は、後方に転がった袋竹刀を拾いもう一度将軍と対峙した。
「今度はそちが打て」と催促され、触れた切っ先を右に弾き刹那に突きを狙った。家光はすぐに体勢を整えて直滋の一打を身体ごと外し上段から斬りつけた。
直滋が受け家光が攻める、または逆となる。竹のぶつかる音が何度も響いた。長い打ち合いだった。周囲から見れば互角と思うだろう、しかし直滋は常に左手の握りを甘くしていた。こうすることで力が削減でき剣先に斑が生まれるのだ。
家光は下手ではない、むしろ戦を知らない若い大名たちに比べると剣の腕は確かだった。が、それは生者の剣術であり直滋のように常に死を決意してのそれではなく、この違いは自然に剣に現れてくる。
家光は袋竹刀で打たれる事を痛みとしか感じず、勝つ為に急所に隙を作る不注意を厭わない。しかし直滋は例え腕一本を切り落とされても確実に相手を斬り殺す方法を選んだ。
実践においても刀を合わせるなど愚であろう。先程の試合でも真剣であったなら直滋が斬り下げた刀によって家光の刀は両断されたかもしれない。運が良くて双方の刃が飛ぶ。自分ならば右に避けて左肩に刃を受けると同時に喉を突くだろう。左腕は無くすが命は長らえる。
初めて家光と剣を合わせた時にこの違いを肌で感じとった直滋は、敢えて左手の力を緩めて殿様剣術に付き合う道を選び、互角の戦いの後に三度に一度ほど勝つようにした。
柳生三厳の激しい稽古に耐えていた家光にとって、直滋との試合は娯楽のように楽しんだ。
「やはり直滋は良い」
家光は袋竹刀を打ちながらも話しかけた。直滋もこれに答える。
「友矩殿はお相手になりませんのか?」
「やつは未熟で相手にならぬ、一度も余に勝てぬのだ」
口では愚痴を零しているが、家光の友矩に対する言葉に不満があるようには思えなかった。
「隙あり!」と叫んだ直滋は家光の胴に一撃を加えた。
「上様、語りに気を入れすぎましたな」
家光は悔しそうに「余の負けだが、もう一本」と竹刀を構えた、しかし友矩が道場に入ってきて稽古は終わりとなった。
当初は可愛らしさを持つ凛々しい少年だった友矩が、この頃では妖艶な美しさも兼ね備えている。共に家光より八歳年下の同い年である直滋と友矩は、家光から見れば比較の対象でありお互いに少なからず意識をしていた。
「上様、大御所様がお召でございます」
将軍以外は誰も居ない。とでも言いたげに視線を合わさずに家光を誘い道場から離れようとする。
「明日彦根に向けて出立いたしまする、京にてお待ち申し上げます」
直滋は家光上洛を万全に行うため、京に近い彦根へ戻るのだ。家光は寂しそうに顔を落としながら暇乞いを許した。
彦根城に入った直滋は、京への使者の派遣や彦根での政務に対する指示、領内各地への視察などで時が経つのを忘れるくらいに多忙を極めた。そんな中、唯一時間を確認できるのが一刻毎に打ち鳴らされる鐘の音だったのだ。
ゴーン…ゴーン……
いつものように鐘の音が耳に響く。家臣や領民に時刻を告げる大切な音なのに、なぜか好きになれない。
「今日も変わりなくいつもの刻限に鳴ったな」
すぐ近くに控えていた木俣清左衛門に声を掛けた。
「若様はいつも鐘の音を気になさいまするな」
「お主は気にならないのか?」
「何がでございますか?」と清左衛門は不思議そうに首を捻ったので、今までずっと気になっていた事を口にした。
「あの鐘の音は美しくない、何が悪いのか上手く言えないが、音が濁っている気がするのだ」
すると「はて、さようでしたかな?」と言いながら再度首を捻り「うーん」としばらく考えた後に「臣には解かりませぬが…」と申し訳なさそうに呟く。
「ならば、よい」
既に同じ思いを持たなかった者に興味を失った。
ゴーン…ゴーン……
「やはり、解かりませぬ」
清左衛門の顔は考える様な雰囲気を見せながらも、自分の正しさを自ら証明しているようだった。
「直孝はなぜお前に後を継がさぬ?」
将軍の唐突の質問に直滋は戸惑った。
「大坂の役のおりに神君家康公や大御所様に大いに賞された父に比べれば、まだまだ若輩の身にございます。父も家臣も不安でありましょう」
直孝は大御所である徳川秀忠に気に入られ、今年(寛永九年)秀忠死去の前に家光を補佐する元老として幕府の中核を担う事となった。それは秀忠を嫌う家光にとって憎しみの対象にしかならなかった。
また直滋が敬意を持って接していた伯父で安中藩主の井伊直勝は、直孝の元老就任を受け「自分が大名のままならば、弟がやり難いだろう」と藩主の座を十五歳になったばかりの嫡男直好に譲って隠居し安中に移った。この報を受けた時に直滋は幼い時に家臣が口にした「簒奪」という言葉が再び過ったのだ。
目の前の臣がそのような苦しみを負っている気持は分らなくとも、一瞬嫌悪の表情を見せた事実に家光は満足する。
「直滋が彦根藩を継げば百万石を与えるつもりだ」と、ふっと洩らした。洩らしたと言ってもそこには多くの側近が控えていて、噂となって直孝の耳にも入るのを見据えての言葉だった。
(これを聞けば直孝もすぐに藩主の座を直滋に譲るだろう)
家光の権力をもってすれば百万石など簡単に作れる。彦根藩は近江の雄藩だが遠すぎるので駿河辺りに国替えを命じるつもりでもあったかもしれない。
七月には取り潰した肥後五十二万石加藤忠広の藩邸を直滋に与えた。外桜田門に近い上屋敷には加藤清正が掘った井戸で水が豊かに補える。己が与えた屋敷の水が直滋の喉に含まれ飲み干される。その光景を想像すると、無意識に直滋の喉仏に目が行き、上下に動く様に見惚れてしまった。
(直孝は何をしておる、さっさと隠居すれば井伊家は益々栄えるのだ。直滋を元老に据えて常に江戸に留め置けば予は満足だ)
家光は、政治の井伊直滋と剣術指南の柳生友矩の二人と共に道場において剣を交え、その場で幕政を論じる瞬間を夢想した。
(直孝に職務を与えてしまうと頑固者はずっと江戸に居る、すると代わりに直滋が彦根に行かねばならぬではないか)
もう一つ大きな心配があった。秀忠は亡くなる前に柳生宗矩を惣目付に任じたのだ。この役職は大名監視を司っていて柳生家にしか請け負えない激務だった。宗矩をこの職から外す訳にはいかないが、柳生家は諸大名に弱みを握られてはならない。ならば友矩との関係を壊そうとするかもしれない。
(早くしなければならぬ)との家光の焦りは意外な処置を実行した。翌年、直孝に対して佐野・世田谷を含む五万石を加増した。
直孝はこれを拝領しながらも、家光に対して間接的に諫言を行った。
関ヶ原の合戦で、奥州の要となった仙台藩主伊達政宗は、戦いの前に徳川家康から百万石を約束するお墨付を貰っていた。
だが仙台藩は六二万石を領するのみに終わったために度々幕府へ契約履行を訴え、今回も家光が幕府の頂点に就いた好機を理由として幕府に加増を訴えていた。
困り果てた幕閣は、直孝の求めに応じ解決を一任する。
仙台藩江戸屋敷を訪れた直孝は、政宗と対面し「お墨付を拝見したい」と申し出た。
元老突然の訪問に「いよいよ」と期待した政宗はお墨付を手渡すと、直孝はこれを粉々に破り捨てたのだ。
政宗が怒り大声を上げると部屋の外に仙台藩士が大勢駆け寄って殺気を発した。
「神君様(家康)御存命中ならばいざ知らず、寛永の世において伊達殿に加増する理がいずこにあるのか。また、どこにそのような地がござる?」
殺気など気が付かないと言いたげな涼しい顔で直孝が政宗に迫る。政宗もこのまま怒りに任せれば元老一人の命と引き換えに六二万石を失い、笑うのは幕府だと悟って諦めるしかなかった。
(上様、これが答えにござります)
五万石程度の加増ならば命を賭けて幕政に尽くす身に相応しい報酬だが、百万石は無謀である。ましてや何の手柄も無くただ気に入っただけの若造には荷が重く、これを行えば天下は必ず乱れ神君様や父直政が築いた太平の世も終わる。
しかし、家光は直滋に百万石を与える話を撤回する事はなかった。伊達政宗の事件で直孝の想いを知っても将軍が過ちを認める行為を恥と考えたのだ。
このままでは直滋に跡目は譲れない。と直孝は落胆し、十二歳になった四男作之助の教育を次席家老庵原助右衛門に密かに命じた。
公に二人の後継ぎ候補を立てては後の災いとなる。直孝は世継問題に決着を迎えるまで藩主であり続けるという苦渋の選択を選んだ。それはどこまで続くとも判断できない無間地獄に迷い込むのと同義だったのである。
そんな直孝の決心は家光に伝わらなかった。直滋に百万石を与える壮大な計画が潰れた見返りは柳生友矩に四万石を与えて宗矩とは別の家を起こさせる野望へと変わった。
今度は柳生宗矩と三厳・友矩親子が将軍に振り回されるのだった。