天女と柳
長浜駅から電車に揺られること二十分。その間も目的地について烏賊に質問したのだが、上手い具合にかわされてしまった。そうしてたどり着いたのは湖だった。琵琶湖の広大な水面を見たあとだからか、とても小さく見えるそれは、山間にぽっかりと存在していた。青空が水面に映っていて、清らかな風が波を立てた。その景色を見て琴美はある違和感を覚えた。
「私、この湖、見たことがあるような気がする」
心臓が、湖の水面に呼応するようにざわざわと波打つのを感じる。
「そうか、やっぱりな」烏賊は訳知り顔で顎を撫でた。「理屈っていうものは本当にあてにならないな」
「長浜には初めて来たんですけど」
「覚えている限りでは、だろう?」
「忘れているだけで来たことがあるってことですか。だとしてもそれをなんで烏賊さんが」
「ほら、あれ見ろ」
烏賊は琴美の言葉を無視して指差す。その方向には像がぽつりと建っていた。近寄ると、土台には『余呉湖』と書いてある。この湖の名前のようだ。
「あれ」琴美がその土台の上に鎮座している人型の像を指差して、すっとんきょうな声をあげた。
「これ、私?私に見える。あれ、なんで」
「おいおい、落ち着けって」
バシッと烏賊に勢いよく背中を叩かれ、琴美は咳き込む。「なにするんですか!」と憤るのを見て、烏賊はガハハと笑った。そして、昔話を語るような口調で喋り始めた。
「この像はこの地に伝わる天女伝説の天女を模したものだ。話の流れは琴美ちゃんの知っている通りだ。だけどな、天女伝説には当事者にしか知られていない話がある。昔、この湖で水浴びをしていた天女は伊香刀美という人間と夫婦になり、二男二女を授かった。その子供たちは天女の力を少しだけ受け継いで生まれた。幸せに暮らしていた家族だったが、あるとき妻の天女が隠された羽衣を発見する。天女は天界へ帰ろうとするが、伊香刀美も馬鹿ではなかった。あらかじめ子供の力を使って、羽衣に自分と自分の子供たち以外の男が天女に近寄らないようにというまじないをかけていた。その上羽衣から一本糸を引き抜き、羽衣を不完全な状態にしていた。そのため天女は天界に帰ることができずに彼らと地上での生活を続ける……はずだった。けれどその日以降天女は伊香刀美の前から姿を消した。伊香刀美は天女が地上にいると信じ、その一族は代が変わっても天女を探し続けることになったのさ」
ぽかんと口を開ける琴美に烏賊……いや、伊香は不器用なウインクをした。
「まさか本当に会えるとはね。俺のひいひいひい……何代も前の、おばあちゃん」
「あ」閉じていた紐が解き放たれたように、記憶がよみがえるのを感じた。琴美はわなわなと唇を震わせ、「思い出した……あんた、似てるよ……!」と、思わず伊香の鼻先に人差し指を突きつけて叫ぶ。
「ご先祖さんに?遺伝子ってすごいんだねえ」
あっけらかんと言う伊香に、琴美は深いため息をついた。
「どうして……厳重に閉じ込めた記憶のはずなのに」
「そりゃあ、おばあちゃんがたくさんヒントをくれたからね」
「おばあちゃんって言うのやめてよ」じとりと睨むと、伊香は手で視線をガードするような仕草をして「まあ、事実だし」と言い返した。
あのときの柳がまだあるんだよ、と言われ伊香に着いていくと、そこには立派な切り株が鎮座していた。
「この前の台風で根っこから折れてね。再生途中なんだ」
「へえ」琴美は懐かしそうに、切り株から伸びた細い枝を触った。途端に数センチ枝が伸び、葉が増える。
「私にかかればすぐに元通りだけど、それじゃあ風情がないよね」
「全くだ」腕を組んで伊香は答えた。
「ところで、いつから私が天女だと気がついていたの?まさか最初に声をかけたときから?」
「それなんだけど」伊香がずっと小脇に抱えていたミカン箱を開ける。すると中からは古そうな紙の束が出てきた。
「一族に伝わる天女探しのマニュアルだ」
「なにそれ」
琴美は思わず眉をひそめる。それこそ迷い猫の捜索のようだ。構わず伊香はその紙の束をパラパラとめくる。
「ほらこれ。『天女はわびしひとなり』とある。俺はこれを、天界に帰ることができずに困っているとか、男に近寄れなくて困っているってことだと解釈した。で、今日は公園で人を眺めていたら琴美ちゃんが来たわけだ。酷く顔色が悪かったから、天女の可能性がなくても声をかけなくちゃならないとは思ったけどね」
琴美は、伊香が自分の呼び方を戻したことにほっとする。子孫とはいえ、今まで年上として接してきた人物におばあちゃんと言われるのは心外であった。
「それで声をかけてみたら、それまで男を避けて歩いているように見えたのに、俺の声を無視せずに近づいてきた。これはもしやと思ったね。俺の鼻も可能性があるといっていた」
「鼻も利くんだっけね」
「そうさ。で、俺はこのマニュアル通りに動くことにした。まず竹生島に行って神様と話してもらう。そしてここらを散策してなにか思い出してもらう。次に身近な食べ物だった鯖そうめんを食わせて、ついでに心も開いてもらう」
「なるほどね。でも私はいっこうに思い出さなかった、と」
「そう」伊香はわざとらしくため息をついてみせた。
「『天女である』という記憶を根本から消していたんだな。なーんにも起こらない。人違いだったかと思っていたが、そのとき俺はとんでもない証拠を見つけた」
そう言って琴美の首に巻かれているストールを指差す。
「竹生島で見たときはただの細長い布だと思っていたが、」
「ストールね」琴美は口を挟むが「それそれ」と軽く流されむっとする。
「俺の持っている糸がそいつに引っ張られるのを感じたんだ」
伊香は再び紙の束をめくり、その中から小さく折り畳まれた紙切れを取り出した。ゆっくりとそれを開くと、古ぼけた紙切れにふさわしくない、真新しそうな不思議に煌めく糸が出てきた。琴美は首からストールをはずす。それはいつの間にか糸に呼応するように煌めいていた。
「なんで俺ら一族が天女を必死に探していたのかって、これを返してまじないを解いて、謝るためなんだ」
「男を寄せないためのまじないが私自身じゃなくて、肌身離さず持っていた羽衣にかかっていたなんてね」
琴美が糸を取り上げストールに乗せる。すると、布は糸を飲み込み、突然風を含んだかのようにばさりと広がった。
「さあ、これで伊香に縛られるまじないは解けたよ」
「まさかちゃんと受け継がれているなんて思わなかった。捨てられてしまったとばかり思っていたけど」
完成した羽衣を羽織って見せて、琴美は苦い顔で言った。「あの馬鹿ならやりかねないから」
「馬鹿とか言っちゃって」伊香はにやにやと茶化すように言った。
「ことみ、なんて未練たらたらすぎる名前を名乗っておいて。夫の名前を取り入れるなんて、おじさんにはむずがゆすぎる」
「他に思い付かなかっただけだって」
慌てて反論するが、伊香は面白がるように、へえそう、へえ、と繰り返した。