因果律
岩崎君の家から帰った私は『消えノート』を開きました。
「スーツのシミを消したから、シミが出来ないスーツの価値が下がった。
岩崎君の無駄話を消したから、岩崎タローも寡黙になった。
税金を消したから、行政の資金が無くなって国が崩壊した。
全部、私が悪いんじゃない! 私の配慮が足りなて好き勝手やったから、いろんな人が困ってるんだ…」嗚咽がこぼれた、私の中に重い苦しみも広がった。
「陽子」私を呼ぶ声の方に目を向けました。
「誠さん、どうしたの、いつ来たの?」
「お母さんが通してくれたんだけど、今の話は本当なのか?」
誠さんが私の両肩を掴んで問いただした。
「今のって?」
私はまだ混乱している。
「税金を消したのは陽子なのか?」
その話か…と思い「そうだよ」と答えた。
「なんてバカな事をしたんだ!」誠さんが怒鳴る声を始めて聞いた。
「だって、由美に幸せになって欲しかったから」私の声はか細くなっていった。
「君がバカな事をしたためにどうなったと思う? 世間を見てみろ一人の幸せのために何人の人間を不幸にしたら気が済むんだ!」
「こうなるとは思わなかったんだもん」
ますます私の声は重く小さくなっていくのに誠さんは心配してくれなかった。
「それで許されるのか、そこまで考えてこそ、そのノートを使う事ができるんだろう」
「だって、だって…」
「言い訳するな!」大声と共に誠さんの右手が私の頬を激しく打った。
「何をするのよ! 私に全部責任を負わせないで、あんたに何が解かるって言うのよ! 責任? 勝手? 不幸? 全部解かったら苦労してないわよ! 友達の幸せを願って何が悪いって言うの!」
愛しい人の一撃が私を感情だけの世界へと運んだ。
「開き直るのか?」と誠さんの怒りも収まらない。
「その言い方ムカツク、あんたも消えちゃえ!」
私は近くに置いていたボールペンで『消えノート』に“水野誠”と書いた。
「陽子、それが君の望みなのか…」誠さんの声が弱くなった。
「そうよ!」私は手に持っていた『消えノート』を誠さんに投げ付けて「出て行って!」と叫んだ。
「ごめんな、さようなら…」
誠さんは静かに部屋から出ていったのです。
「誠さんのバカ!」
私は床に伏せながら泣き続けましたが、気が付けばそのまま寝入ってしまったのです。
翌朝、寒さで目が覚めた。
「あれっ? 誠さん? そっか昨日あんな事があったから、怒らせちゃったかな」
そこで私はハッと気が付いたのです。
「ノートに誠さんの名前書いちゃった!」
私は慌てて外を見るとまだ日は登っていません。『消えノート』を探した私は部屋のドアの外に放り出されたノートを見つけたのです。
「まだ消えてない!」
消しゴムを持って誠さんの名前を消そうとしましたが消えません。
「なんで! なんでボールペンで書かれてるの!」私は慌てて消しゴムをこすりつける。
「消えない! 消えない、消えないよ…」
動かす握る手に力が入り、消しゴムが割れた。ところがある瞬間から段々字が薄くなっていったのです。
「消え始めた~」安心して叫びましたが、窓から朝日が入ってきたのです。
「まさか…」
何もしなくても字が消えていきます…
「誠さん、まこと、さん…ま・こ・と・さ…」
認めたくありませんでした、でも字と一緒に一人の人間を消してしまったのです、それも一番大事な人を…
「まことさん!」喉が潰れるんじゃないかと思う声で叫びました、両目から止められない量の涙が溢れました。
「私がわがままだったの! 私が悪いの! 私が…私が…」
「私も消える!」私が『消えノート』に自分の名前を書こうとした時に「陽子、どうしたの?」と母の心配そうな声がしました。
「お母さん…」そう私はまだ消えちゃいけなかった、もしかしたら消えたら母も私の事を忘れるかも知れない。でも、もし忘れなかったら悲しい思いで私を探すかもしれない…
「陽子~大丈夫」
「大丈夫だよ、何でもない」私は涙を拭いて応えました。
「昨日、誠さんが私には責任があるって言ってた、この先はちゃんと考えていい世界にしよう、それが『消えノート』を与えられた私の仕事だから…」
リビングに居る母を安心させる為に顔を見せに行った。
「お母さん、今日は仕事休む」
母は「どこか悪いの?」と私のおでこに右手を当てた、台所で洗い物をした後だったのだろうか? 冷たい手だった。
「ズル休み」泣きそうな顔を無理に微笑みに変えて母を見ると「あら、珍しい、恋愛もしないで仕事一本の娘だと思ってたのにねぇ」と言われショックを受けた。
(やっぱり、誠さんの記憶が…)
「陽子、どうしたの涙が出てるよ」
「眠たいからあくび」
何かを悟ったのか母は「じゃあ、ズル休み認めちゃう、お母さんから会社に電話しとくね」と深く詮索もせずに許してくれた。
「ありがとう、じゃあおやすみ」
部屋に戻った私は、世界を変えるためにできる事、私が何を消したらいいかを真剣に考えました。
「争いを消したらいいのかな? だめ競争も争いだ、競争がないと進歩が無いもん」
「欲? 欲も大切かぁ」
「武器は? 包丁も武器の代わりになるからダメかぁ」
思いつく限り考えた。でも、どんな事にも悪い面と良い面の両方があって簡単に消せないと知るだけだった。
「一つだけ“悪意”を消そう、でも抽象的過ぎて難しいかな?」
それでもと決意して書き込むと、翌朝には悪意の文字が消えていた。最後に『消えノート』と書いた。
「このノートがあると、また同じ様な不幸が起きるかもしれないから無くなった方がいいんだよね、誠さん」
次の朝、日の出と共に『消えノート』は薄くなって消えて行ったのだ…
悪意が消えた世界はどうなったのだろう? 実はよく解かりません。ただ、すれ違う人がみんな心からの笑顔を送ってくれるようになったような気がします。
これで私はやっと誠さんに顔向けできるのかも知れません。
でも結局『消えノート』って何だったのでしょうか? 神様は私に何を求めたのでしょうか…愛しい人を失ってまで…
私がその答えを知る日はいきなりやってきたのです。