六、蘇る『長濱神事曳山小児狂言見立觔』の記憶
明治になると各地で芝居小屋が乱立する、テレビが普及するまでの庶民の大切な娯楽だった。しかし長浜ではすぐに潰れたと伝えられている。それは町の人々が年に一度の曳山祭で演じられる子ども歌舞伎を最大で最高の娯楽としていたためである。
時代により多少の変化はありながらも祭は続いた。芝居の演目が毎年変わるために見飽きるということもない。常に新しい祭でもあるのだ。
平成二十年二月、長浜曳山博物館において鍛冶屋甚八郎を版元とする天保八年の瓦版『長濱神事曳山小児狂言見立觔』が発見寄贈されたことが紙面の端に伝えられた。
瓦版には年代を記してはいなかったが、長浜曳山祭という庶民文化はそれぞれの年の演目までが残されていて、甚八郎が役名の瓦版を作成していたために、演目から対象年が特定された。
甚八郎の仕掛けた舞台の外での芝居は、平成になっても当時を思い起こす鍵となったのである。
長浜曳山祭に鍛冶屋甚八郎が与えた影響はほとんどない。それどころか『長濱神事曳山小児狂言見立觔』が発見されるまで名前すら知られておらず、未だに謎の人物である。たった一枚の瓦版だけでは人生どころか年齢も家族構成すらも掘り起こすことはできないが、ひとつだけ確実なことは長浜曳山祭を愛し慈しんだ人だったことである。
甚八郎の愛した長浜曳山祭は世界遺産となり、長浜の伝統から日本の文化を超えて世界的財産へと変化して行った。それでも甚八郎はただ長浜で変わらず曳山祭が行われたのならば満足しているのではないだろうか?