1.どっかーん!

 わくわく、どきどき。そういうことがあった方が絶対にいい。環はそんなことを考えていた。
 環の住む集落は、滋賀県長浜市の北部、木之本町千田という字である。木之本町の見所と言えば? と聞かれれば、まあ、浄信寺のお地蔵様、もしくは、戦国時代に大騒ぎだった賤ヶ岳くらいかと思う。賤ヶ岳にはリフトが付いているし、頂上まで登れば琵琶湖も余呉湖も、そして一面の田んぼの中にコロニーのように見える集落も一望できる。そのコロニーの1つが、千田だ。
 千田の見所……と言われると困る。別に観光拠点になるような場所ではない。
 環は、千田が嫌いなわけではない。なんかもっとこう、心弾むような、そういうものが欲しいなあと、思ったりする。
 そんな集落も、賑わう時はある。
 1つ揚げるとすれば、「オコナイ」だろう。湖北地方で執り行われる「オコナイ」は、神社やお寺の祭りだ。当番の組は、早朝、4時か5時から正装し、オコナイ歌に合わせて餅つきをし、神前や仏前にお供えする。神社の場合は、お餅は御輿(みこし)に乗せられ、氏子4人が集落内を担いで回る。2月の初旬。辺りが凍る時期に、法被とモモヒキ、そして、白足袋で「ワッショイ! ワッショイ!」と叫びながら走り回る。御輿が近くに来ると、住民は家の前に出る。すると、御輿について歩いている人たちが花餅という小さなお餅が入った袋を配り、子どもにはお菓子の袋も加えて渡す。
 みんな笑顔で、そして、「本日は吉日にて、ほんまにおめでとうさんでございます」と挨拶している。
 オコナイは氏子の男が執り行う。だから、環ができることはほとんどない。神様にお供えするお餅は、まだお米の時ですら女が触ってはならない。残りのお餅を花餅に丸めて袋に入れるくらいが、環たち女性や子どものできる仕事だった。
 というか、楽しんでいるのか?
 みんな笑顔だし、大きな声で歌ってお餅つきしているし、その後で御輿が出発。担ぎ手は掛け声も大きく元気に飛び出していくけれど、環の目には、真夏でも通用する薄着の担ぎ手は、もはやヤケに見えた。
 じいちゃんは、まんざら嘘でもなく楽しんでいるようで、そのお宿が当たることは名誉だと言うし、だからこそみんなが「おめでとうさんで」と祝ってくれるのだと言うのだが、環は外巻きながらお餅の担ぎ手を揃えることに苦心惨憺(くしんさんたん)している父の姿を知っているし、若い人が少なくて結構な年齢になっていても担ぎ手に抜擢されたりして、内情は大変だった。住人が減ってきている。職を求めて都会に出てしまうことも1つの理由。
 環は、数年前まで神社の大切な役割を担っていた。大祭で、舞の奉納をしたのだ。
 浦安の舞。
 数週間前から練習が始まり、小学校高学年から中学校1年生までの女児が4人、衣装を着て舞う。環はもう高校1年生で、数年前にその役割を終えていた。
 深い考えなど持たず、舞は当たり前にするものだと思っていた。もちろん、神様に御挨拶だか喜んでいただくためだかなんだろうなあと思っていたけれど。
 ただ、舞の練習や本番の後に、お菓子とジュースがもらえるので、年齢が近い女ばかりの仲間とわいわいそれらを食べるのは楽しかった。覚えているのはそのくらいである。
 だけど……
 環は漠然とだが、どこか物足りなさを感じていた。慣習としてただ行うものという空気が否めない。
 こういうことは楽しむもんなんじゃないの? じいちゃんが感じているみたいな、誇らしい気持ちが沸いてくるもんなんじゃないの?
 しなきゃならないという空気は伝染する、と、環はそう思う。
 それは学校でも同じで、様々な行事がわくわくできるかどうかは、何か、不思議な作用があって決まってくるような気がしていた。みんなの気持ちが盛り上がればそれらは楽しくなるし、そうでなければ百八十度反転してしまう。
 わくわく、どきどき。それが何かわからないままで、なんだかとってももったいない気がするのだ。
 ふうっとため息をつくと、趣味の雑貨作りで型に流し込んだレジン液をUVランプの中へセット。固まるまでしばらくの時間がかかるから、漫画でも読んでいようとデスクチェアをくるりと回して後ろを振り返り立ち上がろうとした時だった。すぐ鼻先に何かが見えて、環は落ちる勢いでまた椅子にお尻を収めることになった。
「あいったー!」
 痛いわけがない。もう一度椅子に座っただけである。驚いた瞬間に思わずそう叫んでしまった。
「あら、ごめんなさい。痛かった?」
 それはそう言って、さらに環の方へ近づいてきた。
 環は既に思考停止状態。だってそれは、手のひらサイズの人の形をした、しかも羽の生えている実に古風な姿の女の子だったからだ。
 誰? ていうか、どこから入った? なんでここに?
 疑問は次々に沸いてくるのだが、ことばにならない。びっくりしすぎて声が出ない。
「環、どうもない? さっきから呼んでいたんやけど聞こえてんみたいで、突然現れたわけではないんやでー」
 彼女はふわふわと飛びながら、申し訳なさそうにそう言った。
 心配そうに見つめてくる彼女としばらく向き合って、気持ちが落ち着いてくると、環はようやく彼女に話しかけ始めた。
「あんた誰? つか、どこから入ってきたん?」
 彼女は環が大丈夫そうだとわかり、やっと笑顔になって話し始めた。
「たま、て呼んでな。大事な用事があって命様に連れてきてもろたんよ。環には力があるから、手伝ってもらいたいことがあるんよ」
 彼女はちょっと興奮気味にそう言った。
「たま、猫みたいやな。まあいいわ。で、力? 命様て?」
 環がそう問い返すと、たまは仰々しく頭を下げ、手に持つ勾玉を高く掲げ上げて答えた。
「タマノオヤノミコト様。命様が環に力を感じて私をここに連れてきてくださったんよ」
 と、言われても、環には何のことやらである。そもそも、その命様とやらを知らない。
「誰やそれ? あいったー!」
 今度こそ痛かった。環は、思いっきり勾玉でどつかれていた。
「何言うてるん! 玉租命(たまのおやのみこと)様! あんた、ちょっと前まで石作玉作(いしつくりたまつくり)神社で舞を奉納してたやんか!」
「それが何よ?」
「あんた……ほんまに知らんの? 石作玉作神社におわす神様のうちの一柱やん!」
 初耳だった。タマノオヤノミコト? 聞いたことなかった。確かに舞は奉納したけれど、神様がやあるんやろなあ、くらいしか思っていなくて、親も神様としか言わないし、知りようもない。
「だって知らんもん」
 どつかれた辺りを撫でながら、環はちょっとふてくされて返した。
「ああ……」
 たまはがっかりしてヒラヒラと力なく下に落ち始め、環は慌てて彼女を両手で受け止めた。
 たまは、環の親指に頭をもたせかけてぐったりとしながら話を続けた。
「一応説明しとくわ。
 玉租命様は、三種の神器の剣、鏡、玉のうちの玉を作られた方で、みんなに幸せをという力をその玉に込められた方なんよ。私はその命様の子孫で、勾玉作りをずっと引き継いできた玉作の連(むらじ)。天子様に勾玉を献上したこともあるんやで。千田は、もともと物部(もののべ)の方々の下で、高貴な方々のお墓に使う石棺作りの石作の連と、幸いを祈る勾玉を作る玉作の連が集まって住んでいた村やったの」
 それだけ言うと、たまは頭を持ち上げて環を見上げた。
「浦安の舞を奉納してたんやし、知ってるもんやと思ってたわ。その様子やと、もう一柱の神様のお名前も知らんのやろなあ」
 そして環はあっさりと首を縦に振る。たまは、はあーーという長いため息をついた。
 とりあえず、集落内の石作玉作神社には、どういう神様が祀られているのかはわかった。
「ほんで? どういう用事なん?」
 環が聞くと、たまは今度は「しっ!」と自分の人差し指を口に当てた。じっと耳を澄ますようにして、そのまま動かない。環はだんだんと退屈してきた。とにかく手のひらから退いてくれないだろうか。そろそろ腕が辛い。
 突然、たまがふわりと浮きあがった。え、と反応する環を待たずにたまは口早に言った。
「命様がお呼びになってる! 環、これから神社に行くで!」
「は? これから? もう夜やんか、いややこんな時間に神社て気持ち悪い!」
 時計は午後9時を回っている。木々の中にぼんやり建っているひっそりと静まり返った夜の神社は軽く肝試しだ。
「早く! 命様がお待ちよ!」
 たまは容赦なく環の手を引っ張る。わけもわからず夜の神社に連れて行かれようとしている。
 でも環は、この非日常な出来事に若干の興味を感じ始めていた。
 何かが起ころうとしている。そもそも、手のひらサイズの羽の生えた女の子って、何かのアニメっぽい。いいんじゃない?というか、こういう状況で、普通にしていられる自分が可笑しかった。普通はびっくりして親とかに助けを求めるとか、そういうものなのでは。
 環はそうっと玄関に向かい、音を立てないように靴を履いて外に出た。街頭の明かりだけが頼りの誰も歩いていない道を、神社に向けて走る。
 目の前を、たまが滑るように飛んでいく。
 綺麗だ。
 後ろをついて行きながら、環はそう感じた。暗闇に出ると、たまは柔らかい光を全身から発しており、その光は月の色に似ていた。
 神社はそもそもそんなに遠くない。走って少しだけ息が弾んだが、それよりも、命様とやらの方が気になった。
 たまはそのまま拝殿のすぐ前まで行き、おごそかに頭を2回下げ、手に持つ勾玉を高々と掲げ上げ、もう1度頭を下げた。
「かけまくも畏(かしこ)き命様、環を連れてまいりました。命様には日ごろの御守護、まことにありがたく、畏み畏みまをさく」
 たまがそう言うと、拝殿に上がる階段に一人の青年が腰かけた格好で現れた。実に古風な衣装を着ていて、ほんわかと柔らかい頬笑みを浮かべた、不思議な青年だった。
 環がぼうっと突っ立っているのに気づいたたまは、10センチほど飛び上がると、慌てて環の後頭部を力任せに押して頭を下げさせた。
「何やってんの! 命様よ! 失礼な!」
 たまのどなり声は環の耳に突き刺さる。
「まあまあ、たま、別に気にしないからそのままで」
 彼はそう言って、はっはっと軽く笑った。
「でも命様……」
 たまは決して頭を上げて彼を見ようとはしない。
「いや、たま、それでは話もできないから、お前も頭を上げなさい。構わないから」
 彼がそう言うと、たまは首を横に振ったが、「しつこいよ」と言われてようやく恐る恐る頭を上げた。やっと目を合わせたたまに、彼は笑顔で頷いてみせた。たまは、やっと安心したように肩の力を抜いた。
 さて、と、彼は環の方に向き直った。
「すまないね環。こんな時間に呼びだしたりして。たまと一緒に君のところへ行ければよかったんだが、この地の力が少し弱くて、君の家でこの姿になれない。暗くて怖かっただろうね」
 彼はそう言って、またにっこりとした。
「あ、えっと、大丈夫です。それで、あの……」
 環は、とにかく今、どういう状況で何を求められているのかが知りたかった。でも、相手が神様らしいと思うとどう話しかけてよいものやら。
「ああ」
 彼は、環の戸惑いに気付いて居ずまいを正した。
 その途端、環は腰を抜かしそうになった。彼から強烈な威圧感を感じたからだ。圧倒的な、風ではないのだけれど台風並みの力のある形容しがたいものが、到底太刀打ちなどできない圧力で、環を抑えつけてくる。
「まずは名乗らねばね。吾(あれ)はタマノオヤノミコト。この神社を依代(よりしろ)としているのだよ。玉作の連は吾の子孫にあたるのだが、もうその生業もなくなり、今は出雲にいることが多い。ここに全くいないというのではないのだよ。吾らは吾らを祀る依代を全て見ているし、いないというのとは少し違うからね。吾はいつでも呼び出されれば話を聞く。今は祭典の時くらいしか呼び出される機会もないがね」
 彼は少し寂しそうにそう言った。
「命様」
 環は初めて彼を命様と呼んだ。それを聞いた命様は、嬉しそうに微笑んだ。
「少し吾のことをわかってくれたようだね」
 環はゆっくりとその場で正座した。石畳は膝に痛いが、そうした方がいいと自然に思った。
 たまは、そんな様子の環に少し安心したようで、表情をさらに和らげた。
 そして、話は本題に入る。
 そもそもたまは、はっきりとわからないくらい大昔にこの千田に生まれた娘で、黄泉国(よもつこく)にずっといた。黄泉国とは、ずばり死後の世界である。環が古事記を読んだことがないと言うので、命様は説明を随分と端折った。
「つまりね環。黄泉国からは、こちらの世界には来られないようになっているんだよ。黄泉返りはとても難しいんだ。黄泉国の神が許してくれなければね。許可が下りても黄泉比良坂(よもつひらさか)を通ってこの世の入り口までたどり着くのは大変なんだ。たまがこの大きさなのは、黄泉比良坂を越えるために自分の中のいらないものをできるだけ減らして、身を軽くするためだった。それでも大変だったから、私が黄泉国の神に頼んで、たまに力を与えてもらってその羽がついた。たまは、そもそも人間なんだ。まずはそのことはわかってくれたかい?」
 環は、もう1度たまの姿をまじまじと見つめて、そのまま頷いた。
「わかってくれて嬉しいよ」
 また命様はにっこりとした。
「でも、どうしてそこまでして、この世に来なければならなかったんですか?」
 環がそう尋ねると、たまは少し悲しそうに俯き、命様は苦笑して答えた。
「それはね環。実はその、とっても越えるのが難しい黄泉比良坂を強引に突破してこの世に来てしまった者がいるんだ。その脱走者は大した強力の持ち主で、そりゃあもう、神々もびっくりだよ。いや、ちゃんとその者は手続きを踏もうとしていたんだ。だけど何故かその手続きが済むのを待てなくてね、黄泉国の誰か力のある神の一柱が手引きをしたみたいなんだが、追手を蹴散らしてこの世に出てしまった」
「つまり、その人を捜索していると」
「そう!」
 命様は、膝をポンッと打って頷いた。
「その者を連れ戻さなくてはならないんだよ。黄泉国の神々はこの世に関与できない。たまにゆかりの者だから、特別にたまの黄泉返りを許してもらって、私がその任務を請け負うことになったんだよ」
 命様の苦笑はそのままだったが、環がちゃんと話を聞いているのが嬉しいようで、少し身を乗り出して続きを話し始めた。
「ちゃんと許可を得ていれば、期限付きだけど問題なくこの世で過ごせるんだ。でも、その者は許可をもらっていない。困ったことに、その者が現れた場所に穢れが残ってしまうんだ。
 穢れは吾が清めることができるのだけれど、吾も毎日遊んでいるわけではないからね、非常に忙しい。しかも、その者の足の速さは人間離れしている。追いかけるのも一苦労でね。この世に多くの穢れが振り撒かれないうちにその者を捕えたいのだよ。だから、その者にゆかりのたまと、玉作の連の血を受け継ぐ環の力を貸してほしいんだ」
 命様はそう言った。
 事情はわかった。つまり、脱走した困ったちゃんを探し出せと。
「いや、違うんだ、環」
 命様は、口に出していない環の気持ちを読んで先に訂正してきた。環は急に不安になって、両手で胸の辺りを覆うようにして不信の目を命様に向けた。
「あ、しまった、ごめんごめん。吾は神だからね、心の声も現(うつつ)の声も一緒に聞こえてしまう。でも、だからといって君が何を考えていても、何もしないから心配しなくていいよ」
 そういうことではなくて、やはり心の中を見られてしまうというのは気持ち悪い。
 命様は困った様子でしばらく黙りこんだが、これについてはもう弁明もせず、「とにかく」と、話を続けた。
「たまと環に頼みたいのは、穢れを見つけて清める方なんだ」
「……」
 環はぽかんとした。
「は?」
 命様はにこにこしている。
「ちょっと待って下さい。私、そんな力、持ってませんけど」
「いや、大丈夫。私が与えるから。そもそも玉作の連は吾の子孫だから、それなりの力を受け継いでいるはずなんだよ。もう随分と血が薄まってしまっているから弱いんだけれどね。それに、神から心が離れて、力自体が眠って潰(つい)えてしまっている状態なんだが」
 環は、何故かその時、「オコナイ」のことを思い出していた。
 目に見えないものを信じる。それは今の時代では難しいことだ。ただ慣習のままにそれらの行事は行われ続けてきているように思える。
 命様は、環の心の声はちゃんと聞こえているはずだったが、何もそのことについて言わなかった。むしろ、楽しそうににこにこしている。
「あの」
「ん?」
 環の質問は命様にとっては楽しいことらしい。全て聞こえていても、環の口から発せられるのを今か今かと待っている。
「そもそも、穢れがどういうものかわからないし、どうやって清めるのかも……」
 命様は2度頷いて、いつ取り出したのか榊の枝を環に差し出した。
 環はそれを不思議そうにしながら受け取り、ひっくり返したり葉っぱを触ったりして確かめた。普通の榊に見える。
「穢れがそこにあると、事故や事件が起こったり、誰かが具合を悪くしたり、草木が萎えたりしてしまう。穢れやその者の気配は、たまが敏感に感じ取れるから、環はたまとそこへ行って、その榊でその場を清めてほしい。
 祓え給い 清め給え
 覚えておくれよ。このことばを言いながら、その榊でその地を掃くようにするんだ。もう一度言うよ。
 祓え給い 清め給え」
 環は、榊を左右に振って言ってみた。
「祓え給い 清め給え」
 すると、命様は嬉しそうに頷いて「それでいいんだ」と満足そうに微笑んだ。
「いいかい環。その者がいた場所に穢れが残る。環にも生活があるから、無理しない程度でいいんだよ。ただ、長く放置すると穢れが災いを起こすから、折を見て祓ってほしい。たまは他の人には見えない。いつも君の傍にいて、穢れを見つけたら教えてくれる。たまは黄泉国の人間だから、穢れの影響をそのまま受けてしまう。穢れの場所に行ったら、できるだけ早く穢れを祓うように気を付けてくれるとありがたい。
 吾は君たちが穢れを祓ってくれている間にその者の足取りを探り当てて、できるだけ早くその者を捕えるから、頼んだよ」
 環は命様から榊に目を移し、それから横にいるたまに目をやると、たまは涙ぐんでいた。その表情は、悲しみとも怒りともとれる表情で、環はまた不思議に思った。
 一体、誰なんだろう。たまにゆかりの脱走犯。しかも、たまがこんなに心を乱す相手。
「あ……」
 環が何かに気づいて声を出すと、命様は「ん?」とわざとらしく問い返してきた。わかっているのにこの返し。環はやっぱり気持ち悪いと思ってしまう。
「私、いつもこの榊を持ち歩くんですか?」
 案の定、命様は動じもせずにこにことしている。命様がふわりと手を振ると、榊は環の手から消えた。
「あ、あ、あれ?」
 環は、自分の足元などをきょろきょろと見回して榊を探した。
「見えなくしただけだよ」
 命様は楽しそうにそう言った。とても現実に起こっているとは思えないことの連続で気持ちが疲れて肩を落とす環に、命様は教えた。
「腹の底から声を出して、吾を呼んでくれたら榊は君の手に現れる。手を掲げて3度唱えるんだ。オーーーーー、オーーーーー、オーーーーーってね。そうすれば榊はその手に現れる。いつも持ち歩くのは面倒だろう?」
 それはそうだ。榊は片腕ほどの大きさがあるし、ポケットなんて到底無理。普段だって、こんな木の枝を持って歩いたらすごく目立つし、正直、邪魔だ。呼びだせば出てくるのだから、使う時だけ持てばいい。
 両手が空いて若干所在なくなりもじもじと手のひらを揉み合せながら、環は命様にもう1つ気になることを聞いてみた。
「あの……」
「ん?」
「その、脱走した人って、一体誰なんですか?」
 すると、命様は少し悲しそうな目になった。しばらく黙った後で、命様は静かに言った。
「許しておくれよ、環。たまの気持ちを思うと、吾はそれを言いたくはないのだよ。その者を連れ戻せば、黄泉国で裁判が行われる。禁忌を破ったのだからね。それに、環がそれを知っても仕方が無い。不必要なことだから、たまが心穏やかにいられるために言わないでおくよ。そのうち自分から言おうと思えば、きっと教えてくれるさ。ね、たま」
 命様はそう言って、たまの方を向いた。たまは、力なく頷いた。
 その傍らで、環はちょっと高揚した気分を味わっていた。
 いいんじゃない? 何か、退屈な毎日が引っくり返るようで。穢れを祓うなんて地味な作業だけれど、考えてみたら千田の中で私が選ばれたなんて、すごく特別な感じ。ちょっと怖い気もするけど、まんざら悪くないよね。
 そんなことを考えていたら、突然、命様が笑い始めた。
「ああ、いいねぇ。やはり環だ。吾が君を選んだのはね、その力があるからなんだよ。与えられた仕事に面倒くささや尻込みを感じる気質の者では到底頼めない。環の心は、何事も楽しくあれと思う力を持っている。その力は穢れに勝てるんだ。やりたいことだけを楽しむことではないよ。色んなことに挑戦しよう、触れてみようとする、そしてそれを楽しもうとするその心だ。
 ここで舞を舞ってくれた時も考えていただろう? はたしてこの舞で神は喜んでいるのだろうかって。そんな風に考えながら舞を舞う乙女は、ここしばらくいなかったんだ。この時に環が千田に生まれていてくれて本当によかったよ。そうでなければ、吾はこの仕事を頼める乙女を探すのに苦労していただろうね」
 本当に楽しそうに命様はそう言った。
 命様のことばは環を嬉しくさせた。そして、ようするに神々が困っていて、たまが1番悲しんでいる。それは理解した。無理はしなくてもできる範囲でいいなら大丈夫。環の瞳は力を持ち始めた。
 命様はまた2度頷くと、たまの方を向いて言った。
「たま、あまり心配しすぎないようにね。大丈夫。早く見つけて連れ戻すから、環の傍から離れないようにするんだよ。君が穢れに当てられて弱ってしまったら、環も動けなくなってしまうからね。焦らずに。
 さて、鬼ごっこの始まりだよ。環、いいね。頼んだよ」
 命様はすくっと立ち上がり夜空を仰いだ。次の瞬間、その姿は握り拳ほどの眩い宝玉となり、スーッと夜空の闇に吸いこまれるように消えた。
「お帰りになったわ」
 たまがそう呟いた。
 環は、今あった夢のような出来事が、すぐ傍にいるたまのおかげで、現実なんだと奮い立っていた。
 そしてふと思い出す。
「あーーー!」
 突然発した環の大声は、たまを驚かせた。
「な、なに、どうしたの?」
「レジン! UVランプに入れっぱなしにしてきちゃってるやんかーーー!」
 環は慌てて家に向かって走り始めた。随分と長い時間光に当てっぱなし。ガッチガチに固まっているだろう。熱は大丈夫だろうか。早く作品をランプから出さないといけない。
 走りながら、環の心は弾んでいた。
 これってすごいことが起こってるんちゃう? 今までで1番ヤバいヤバいヤバい!
 どっかーん!

古橋 童子
この作品の作者

古橋 童子

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