抜擢
坂下祐貴は演劇部では裏方や端役に回ることが多い、だが努力家で何かと気が利くことで部の中では評判がいい。
そして歌も得意でこちらでも高い評価を受けている。
ある女子部員がそれで彼にこんなことを言った。
「坂下君ミュージカルにもね」
「出られるかな」
「ええ、それもメインでね」
こう祐貴自身に言うのだった。
「舞台に出られるわよ」
「そうかな、俺って」
祐貴は女子部員の言葉に暗い顔で答えた。
「童顔だししかも」
「顔にソバカスがあってっていうのね」
「そんなのだからさ」
「そんなのどうでもなるでしょ」
女子部員は彼にすぐにこう返した。
「メイクでね」
「そうかな」
「そうよ、というかお芝居上手で」
それにというのだ。
「歌がいいから」
「ミュージカルだったらなんだ」
「メインでもいけるでしょ」
「そうだといいけれどね」
「自信持っていいと思うわ」
祐貴にこうも言うのだった。
「本当に歌上手だから」
「ミュージカルだとなんだ」
「メインいけるわよ」
祐貴にあくまでこう言うのだった、だが祐貴自身はまさかと思っていた。しかしその彼に部長が言った。
「今度でかい作品やるよ」
「でかいですか」
「ああ、ニュルンベルグのマイスタージンガーな」
「それって」
「知ってるよな」
タイトルを言ったうえでだ、部長は祐貴に問い返した。
「ワーグナーの作品だよ」
「歌劇ですよね」
「上演に四時間半かかるな」
「それで登場人物も多いですよね」
「とんでもない作品だよ、音楽もいいしな」
「それをやられるんですか」
「そう考えている、そしてな」
部長は部室で祐貴と共にいる、そこで彼に言うのだった。
「御前にメインの役を頼みたいんだ」
「メインですか、俺が」
「ああ、主役の一人の騎士にな」
その役にというのだ。
「御前をあてたいんだよ」
「そうですか、俺がメインですか」
「ああ、その役は最初から最後までずっと出ていてな」
そうしてというのだ。
「歌う場面も多い、見せどころも多い」
「その役をですか」
「御前に任せたい、いいか」
「本当に俺でいいんですか」
戸惑いを隠せない声でだった、祐貴は部長に問い返した。
「俺がメインの一人で」
「というか御前がいないとな」
むしろとだ、祐貴に言うのだった。
「ちょっとこの役誰にしたらいいかとかな」
「考えられないですか」
「だからだよ、頼むな」
「その役になってですか」
「頑張ってくれよ」
「わかりました、夢みたいですが」
「しかし夢じゃないんだ」
部長は祐貴に確かな顔で答えた。
「俺は御前にこそな」
「その役をやって欲しいですが」
「大変な役だが頼むぞ」
「わかりました」
祐貴は部長に熱い声で答えた、作品は歌劇をミュージカルに仕立てなおしたもので確かに長く祐貴が演じる役も出番が多い。台詞を覚えるのも大変だった。
だが稽古をしていてだ、彼は言った。
「俺何かどんどんな」
「歌いたい、演じたいのね」
「そう思ってるんだよ」
自分にミュージカルでメインを出来ると言った女子部員に話した。
「実際に」
「そうなのね」
「凄い作品で凄い役だよ」
祐貴は女子部員に明るい声で答えた。
「だからだよ」
「演じたいのね」
「上演はまだだけれど」
それでもというのだ。
「今の稽古の時も幸せで」
「じゃあ若し上演してね」
「皆の前で歌って演じられたら」
そして踊ってだ。
「俺本当に嘘みたいだって思うよ」
「信じられないのね」
「今もね、俺が演じていいのかな」
こうまで言う祐貴だった。
「本当に」
「部長さんもそう言ったんでしょ」
「うん、実際のことだってね」
その通りだとだ、祐貴は女子部員に答えた。
「言われたよ」
「そうよね、それじゃあね」
「現実のことだから」
「地に足付けて頑張って」
そしてというのだ。
「やっていってね」
「それで本番になれば」
「頑張ってね」
「それじゃあ」
二人で話してだ、そしてだった。
祐貴は舞台稽古でも全力を尽くし役にのめり込んでいった、その演技も歌も練習の時点で見事であり。
本番でも大好評だった、上演が終わってだった。
すぐにだ、彼は部長に言われた。
「最高だったぞ」
「本当にですか」
「ああ、他の奴もよかったけれどな」
どの部員達も見事に歌い演じ裏方として頑張ってくれたというのだ。
「御前がな」
「特にですか」
「よかった」
こう言うのだった。
「最高の歌と演技だった」
「そうですか」
「本当に御前はな」
まさにというのだ。
「最高の騎士だったぞ」
「俺が騎士なんて」
「騎士といっても剣とか持たないだろ」
「はい」
ニュルンベルグのマイスタージンガーではとだ、祐貴も答えた。
「歌いますけれど」
「だから騎士でもな」
「それでもですね」
「いいんだ、御前が騎士でもな」
「そうですか」
「御前は童顔とソバカスのせいでな」
彼のコンプレックスであるその二つのせいでというのだ。
「色々思ってるな、騎士なんて特にって思ってるだろ」
「それは」
「そうだな、しかしな」
「それはですか」
「実は違うんだ、そんなのはメイク次第でな」
女子部員と同じことをだ、部長は祐貴に言った。
「どうとでもなるからな」
「だからですか」
「いいんだ、俺は御前の演技と歌を見てな」
そのうえでというのだ。
「決めたんだからな」
「騎士の役にですか」
「そしてその通りにな」
「俺は演じましたか」
「歌ってな、見事だったぞ」
「そうですか」
「御前がいたからだ」
今回の舞台の成功、それはというのだ。
「抜擢と言われたけれどいい抜擢だった、だからこれから時々でもな」
「メインで、ですか」
「やってもらうからな」
「有り難うございます」
「お礼はいいさ、御前の実力に見合ったことだからな」
それでと言ってだ、部長は祐貴の肩をぽんと叩いた。祐貴は肩に温もりと現実を感じた。これ以上はないまでに素晴らしい現実を。
抜擢 完
2018・10・16
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