ボクはブルードラゴン。名前はセイリュウという。名付け親はボクのご主人で大学生の陽介君だ。
名前の由来は陽介君が住んでいる町、滋賀県長浜市にある世界的に有名なフィギュアメーカーのシンボル的なフィギュアであるブルードラゴン、すなわちボク自身から陽介君が名付けてくれた。ブルードラゴンは「青い龍」だから「セイリュウ」というわけだ。
ボクはブルードラゴン初代のフィギュアでその後のドラゴンよりも少し小さいが、今では希少価値というものが出て、販売されて直ぐにボクを気に入って買ってくれた陽介君も鼻高々である。
陽介君はボクの後輩にあたるブルードラゴンが展示販売されているショップがあるフィギュアミュージアムの直ぐ近くに住んでいる。彼はフィギュアが大好きで、週に一度はミュージアムに足を運ぶ。
その日も彼は大学が休講になったことを幸いに、ボクを連れてミュージアムに出かけた。
いつものように長い時間をかけて、精巧に作られているフィギュアを細かいところまで目を皿のようにして見て回る姿は人目を引くほどである。
ボクも陽介君の手に抱かれて色んなフィギュアを眺めているうちに後輩ドラゴンのフィギュアだけではなく、様々なフィギュアに関心を持つようになった。
「スミマセン。あなたが手に持っているフィギュアをちょっと見せてくれませんか」
陽介君が振り向いたら、若い外国人の女性がボクを見つめて立っていた。
金髪が波打って両肩まで下がり、ブルーの瞳がキラキラ輝いている。
その女性がボクを見つめる以上にボクは女性を食い入るように見つめてしまった。肌の白さが際立っている。
陽介君は日本語が上手なその女性に微笑んで「いいですよ」と言って、ボクを受けとめようとする彼女の手の上に置いた。彼女はボクを色んな角度から眺め回してこっくりと頷いた。
「へえ、とっても素敵。展示されている同じのよりちょっと小さいけれど、何処か上品な感じがするわ」
ボクは女性の真っ白い指の間で、頬を少し赤らめてしまった。
「ありがとう。わたしエヴァと言います。この有名なミュージアムを訪れるためドイツから来ました。出身はアウクスブルクという町で、この長浜とは姉妹都市の協定を結んでいるところです」
そう言いながら、エヴァはボクを陽介君に返した。
「ボクは陽介と言います。それにしても日本語お上手ですねえ」
「大学で日本語習いました」
「そうですか。へえ、ドイツからわざわざ来られた。どうですか、このミュージアムは?」
「想像以上に素晴らしいです。フィギュアの精密さやアイデアがとっても気に入りました。それに展示品が二千点以上というのも凄いですね」
「ところでエヴァさん、お独りなんですか? よかったら長浜の町をご案内しましょうか?」
「ありがとうございます。助かります」
という訳で、陽介君は自分の家の庭のように隅々まで知っている長浜の町をエヴァに紹介しようと張り切り始めた。陽介君もエヴァをとっても気に入ったようだ。
「案内していただく間、そのドラゴン・フィギュアを預かりましょうか」
「はい、お願いします。セイリュウっていう名前で呼んでやってください」
「あなたセイリュウっていうのね。よろしく」
エヴァはボクを愛情込めてじっと見つめたあと、ボクを丁寧にバッグの中に入れた。バッグの中にいい香りのする香水瓶があり、エヴァさんが使っている香水だと思うと、何だか心がウキウキして来る。何と言ってもエヴァさんの傍に居られるのが嬉しい。
さて、陽介君はエヴァさんを何処に連れて行くんだろう。ボクは暗いバッグの中で想像を巡らせていた。
最初に行くところはどうもガラス館やガラスの美術館のある黒壁スクエアのようだ。
二人の話に耳を傾けていると、エヴァはガラス工芸にとっても興味があると話しているから。あっ、周りから観光客の声が響いて来る。今日も広場は大繁盛のようだ。
「陽介さん。黒壁スクエアというのをちょっと説明していただけますか」
「はい。北国街道という道沿いに続く古い街並の一角を総称して黒壁スクエアと呼びます。黒壁は明治時代に設立された銀行が黒漆喰の壁だったので、『黒壁銀行』の愛称で親しまれたのを改装して黒壁ガラス館が出来ました。それを中心に、ガラスショップや工房、ギャラリー、体験教室、レストランやカフェなどが魅力あふれる古い街並の中に点在しています。また、町中を少し離れたところには、日本一大きな琵琶湖や山々に囲まれた自然豊かな風景が広がっています。黒壁スクエアは、古い街並みの中の伝統や新しいアート、それに自然の豊かさを同時に味わえるユニークな場所です」
陽介君、えらい説明に力が入っているなあ。やっぱりエヴァに気に入られたい一心なのかも知れない。これは負けておられんぞ。
ボクはバッグの中に放り込まれている無念さに歯ぎしりしていた。
「さっき北国街道とおっしゃったけど、その街道は何処から何処へ通じているんですか」
「昔、長浜がある滋賀県は近江の国と言ったんですけど、近江の国の米原(まいばら)から琵琶湖の東岸沿いに長浜を通ってずっと北の方の新潟県の直江津というところまで通じた街道です」
「わたしの故郷アウクスブルクはロマンチック街道という中世の城壁が残る古い街道沿いにあって、その街道を一目見ようという観光客が世界からやって来ます。北国街道沿いの長浜にも世界から観光客が訪れるというのも、長浜とアウクスブルクが姉妹都市として共通点を持っていることになるかも知れませんね」
陽介はエヴァが自分の説明を本当によく聞いてから質問してくれているなあ、と感じ入っていた。知的好奇心のある素敵な女性だと陽介はますますエヴァのことを気に入った。
陽介君は調子に乗って説明を続けた。でも外国の素敵な女性がお相手となれば、陽介君でなくても大体の日本の青年なら張り切っちゃうかも知れないね。
「この黒壁スクエアは今言いましたようにガラス工芸で有名なんですけど、オーストリアのラッテンベルグ市というところもガラス工芸の製造で有名です。両者が今申し上げた北国街道に引っかけて、『ガラス街道』という提携に調印しています。それ以来、両者の文化交流が盛んになりました」
「ラッテンベルグはわたしも行ったことがあります。だからその説明はよくわかります」
エヴァは頷きながら陽介に微笑んだ。
「ところで、ここの体験教室で吹きガラスってありますか?」エヴァが尋ねた。
「ええ、まずはこちらで実演をご覧になっては如何でしょう」
陽介はすぐそばにある吹きガラスの実演場を指差した。エヴァは目を輝かせて覗き込んだ。
作業員が溶けたガラスを巻き取って息を吹き込んでいる。
「底にポンテ竿を付けて口側を切り離すんです。ほら、あちらでやっていますね」陽介が説明を加える。
「その後、ジャックという道具で口を広げて形を整えます」
「面白い! ぜひ体験したいです。一輪挿しでも作ろうかな」
エヴァは体験を申し込んだ。そしてスタッフの手助けでグリーンの可憐な一輪挿しを作った。
「いいのが出来ましたね」
陽介はしばらくその一輪挿しに見入った。
ボクはそれをはっきりと見られないのが残念でたまらない。
トンボ玉を作るバーナーワーク体験教室にも顔を出した。色違いのガラス棒をバーナーで溶かして重ね、色ガラスを混ぜてバーナーであぶり、溶かして柔らかくして丸型やしずく型に整えて行く。エヴァはその過程をひとつずつ楽しんでいた。
「わたしヴェニスが好きで、もう何回か行きました」バッグの傍でエヴァの声がした。
「そうですか。ボクも一度だけ行ったことがあります。ムラノーっていう日本人の苗字に似た名前の島がガラス工芸品で有名でしたね」
「そうそう。わたしも島に渡って、ガラス工芸を見て回りました」
「島に渡ると言えば、琵琶湖に竹生島(ちくぶしま)という島が浮かんでいます。長浜から船で往復できますよ。行ってみましょうか」「ええ」
陽介とエヴァ、それにバッグの中のボクは船で竹生島に渡るクルーズ船に乗り込んだ。
竹生島は周囲二キロの小島で島全体を覆う針葉樹などの森が神秘的な空気を醸し出している。そもそも宝厳寺(ほうごんじ)という西国三十三所めぐりの第三十番札所のお寺がある島として古くから知られていた。また弁財天などを祭る都久夫須麻(つくぶすま)神社があり、島全体がパワースポットとして知られている。
エヴァは琵琶湖を渡る春の爽やかな風に美しい金髪をなびかせながら、琵琶湖に浮かぶ島全体を眺めている。陽介はエヴァの横顔を見つめながら、膨らんだ胸元をチラ見して胸をときめかせている。ボクはといえば、エヴァのバッグのすき間からわずかに見える外の景色を眺めるしかない。
ああ、じれったい! 明日こそはボクの番だぞ。ボクはバッグの中で歯を食いしばった。
お昼は長浜の郷土料理「のっぺいうどん」を食べに行った。陽介君の大好物なので、エヴァもお付き合いさせられた感じはあったが、エヴァもとろみのあるあつあつのうどんに興味を示した。
吉野葛でとろみをつけた汁がのっぺりしているのでその名が付けられたと言われており、具材は椎茸、かまぼこ、麩に生姜で、葛と生姜が身体をぽかぽかにしてくれる。
「おいしいわ、このヌードル。わたし気に入ったわ」
エヴァもおいしいと言ってくれたので、陽介君は大変満足げだった。
お腹いっぱいのっぺいうどんを食べたので、腹ごなしを兼ねて足を運んだのが真宗大谷派の長浜別院で、長浜御坊とか「ごぼうさん」という名前で親しまれている古刹・大通寺(だいつうじ)だ。
ちょうど春のこの季節は境内で「あせび展」が開かれている。あせびはツツジ科の植物で『馬酔木』と書かれるように、食べると馬を酔っ払ったようにふらつかせる毒があるという。しかし、スズランのような白、あるいは薄紅色の可憐な花で鑑賞に適しているため展示会が開かれるのだ。
エヴァはあせびの花に見入った。
「本当に可愛い花ですね。毒があるなんて信じられないわ。ひょっとすれば、お寺の境内で開かれるというのは、毒を浄化するという意味があるのかも知れませんね」
「なるほど。ボクは堀辰雄という作家が好きなんですけど、彼の作品に『浄瑠璃寺の春』というのがあって、教科書で読みました。その中に寺の境内に植えられている馬酔木の話が出て来るんです。今エヴァさんがおっしゃったように、寺の境内に馬酔木があると、参拝者が毒を浄化してもらえるという意味があるのかも知れませんね。花の話が出たついでに、もうひとつ長浜の花自慢をさせてください」
「今度はどんな花なの? 長浜は色々多彩ですね」
「新春の風物詩、梅の花です。鉢植えの梅、すなわち梅の盆栽を純和風の座敷にずらりと展示する日本一の長浜盆梅展のことです。盆梅でも樹齢四百年と言われる古木があったり、背丈が三メートル近い巨木があったり、ボクみたいな若い者でも楽しめます。毎年一月から二か月ほど開かれるので、エヴァさんもまたスケジュールが合えばご覧になったらと思いまして」
「機会があれば是非鑑賞してみたいわ。本当に今日はどうもありがとう。楽しかったわ」
陽介君はエヴァを市内のホテルまで送り、自分の連絡先のメモだけはきちんと渡し、ボクのことはすっかり失念して家に帰ってしまった。余程エヴァにのぼせ上ってしまったんだろう。ボクはボクで、少しでもエヴァの傍に居たかったので、わざと陽介君に「帰りたいコール」は送らなかった。
翌朝、ボクはエヴァの部屋のベッドのサイドテーブルに置かれたバッグの中で目を覚ました。
ホテルのレセプションの隣にあるレストランでは朝食ヴァイキングが始まっていた。ボクはその中にエヴァを見つけ、食事が終わるのを待って、部屋の前で声を掛けた。エヴァは声の主が何処にいるのか、しばらくはキョロキョロと辺りを見渡していたが、足元にやっとボクを見つけた。
エヴァはボクがバッグの中で一緒の部屋で一夜を過ごしたことなんか全く気付いていなかった。
「ああ、驚いた! セイリュウじゃないの。どうしてここに。それにあなたしゃべるのね!」
「ええ、これはご主人たる陽介君には何卒ご内密にお願いします」
「わかったわ。それで今日はどんなご用かしら」
「昨日はご主人様がエヴァさんを市内にご案内しましたが、ボクはバッグの中に入れられたままでつまらなかったです」
「まあ、それは気付かずにごめんなさいね」エヴァはボクを両手で掬い上げ、彼女の目の高さでボクを見つめながら、コックリ頭を下げた。
「だから今日はボクがエヴァさんをご案内します」
「えっ? 本当に? 何処に連れてってくれるのかしら。もっとも今日は午後にJR長浜駅に人を迎えに行かなくちゃならないの。だから、午前中だけしか時間が取れないのよ。それでもいいかしら」
「ええ、それで十分です」ボクはそう言いながら、エヴァが駅に誰を迎えに行くのかが気になった。
「じゃあ、ここでボク変身しますからよく見ててくださいね」
「えっ? 変身するって?」
エヴァはボクを穴の開くほど見つめていた。
ボクは一瞬で若いイケメン男性に変身した。人間のように話し、人間にも変身出来るのが、ボクのとっておきの秘密なのだ。
「えっ! これがセイリュウ、あなたなの?」
エヴァは驚いて、微笑むイケメン男をその大きな目をさらに大きくして見つめた。
「さあ、わたしがエヴァさまをエスコートし、わが長浜をご案内致します。さあ、御手をどうぞ」
そう言ってセイリュウはすましてエヴァの白く抜けるような腕に自分の腕を絡ませた。
「一体何処に連れて行ってくれるのかしら」
エヴァもすっかりその気になっていた。
ボクが案内先に選んだのは間もなくこの春の季節に繰り広げられる長浜曳山(ひきやま)祭を紹介する曳山博物館だ。
祭で見られる豪華絢爛な本物の曳山の展示や、曳山を生んだ長浜の歴史や美術を紹介する企画展を開催している。
ボクは本物の曳山を前に、陽介君に負けないようにと、一夜漬けで必死に暗記した説明文をエヴァに語り聞かせた。
「長浜曳山祭は長浜八幡宮の祭礼として、毎年四月九日から十七日まで開かれる長浜が世界に誇る祭です。多彩な行事の中でも特筆すべき行事のひとつは曳山巡行です。曳山というのは祭に用いられる山車(だし)のことで、江戸時代の伝統工芸の粋を集めた飾り金具や彫刻、それに絵画で彩られており、『動く美術館』と呼ばれています。どうです? ご覧になって。曳山の上で男子によって演じられる『子ども歌舞伎』も祭の醍醐味ですよ」
「セイリュウ、あなた説明がとっても上手ね。さすが地元で作られたフィギュアのシンボルだけあるわ。でも、そのイケメン姿ではセイリュウだなんてとても思えない。恋しちゃいそう」
そう言ってエヴァははにかんだが、その表情が何とも可愛い。
ボクは調子に乗ってエヴァがもう一度見たいと言い出したフィギュアミュージアムにも行って、仲間のフィギュアを紹介した。
その日の午後、JR長浜駅に行くというエヴァを駅に案内すると、ちょうど列車が着いて乗客が降りて来るのにぶつかった。エヴァは乗客の群れに向かって大きく手を振っている。その先を見ると、外国人の男性がこちらに向かって大きく手を振っている。ボクはすぐに感じた。その男性がエヴァのフィアンセだということを。
それを感じた瞬間、エヴァのためにボクはイケメン姿から再びブルードラゴンに戻っていた。そしてエヴァに合図し、またバッグの中に入れてもらった。
エヴァはその男性と人目を憚らずに抱き合い、熱い口づけを交わしたらしいが、ボクはバッグの中だったので、それを見ずに済んだのは幸いだった。
フィアンセはルディという、エヴァと同じドイツ・アウクスブルク出身のビジネスマンだった。仕事の関係で長浜訪問が三日遅れになってしまい、どうもエヴァが心配になって迎えに来たらしい。
ボクは片思いのまま失恋してしまったんだ。急に身体からストンと力が抜けてしまったのを感じていた。そしてエヴァのバッグの中でも底の方に身を隠すように横たわった。
陽介君が、ボクが忽然と姿を消したのにようやく気付いたのは、その日のもう夕方近くだった。ボクを捜し疲れた陽介君の心に再びエヴァのことが浮かんだ。
今彼女どうしているんだろう。長浜市内にはまだ居るようだが。
陽介は気になってホテルに電話を入れて聞いてみたら、その日の夜が投宿の最終で、翌日は大阪に向けて出発する予定だという。
今夜彼女に会いに行こうか。そうしよう。それにしても、セイリュウのやつ、一体何処に行ってしまったんだ。お前の代わりなんて何処にもいないんだからな。
長浜に夜の帳が降り、羽柴秀吉によって建てられた長浜城址のある豊公園も三日月の淡い光以外はほぼ闇に包まれていた。 その日陽介は長浜城址周辺でセイリュウを捜してみたが、手掛かりを得られず、独り公園のブランコに座ってぼんやりとしていた。ブランコの近くは庭園灯とスポットライトで明るかった。
エヴァに会おうとホテルに行こうとしたが、何か意図を持って近づいて来たしつこい男と思われたりしたらどうしようなどと心が揺れたままだった。そのうち夜になってしまったのである。
その時人が近づく気配がして、陽介は傍の木の陰に身を隠し、様子を見守った。
若い男女だった。あっ、エヴァだ。それにしても一緒にいるあの外人男性は誰だろう。
二人は並んでブランコに乗り、笑い合っていたが、ブランコから降りると激しく抱きしめ合い始め、濃厚な口づけを交わした。
エヴァは独りで長浜に来たとばっかり思っていたが、そうじゃなかったんだ。
初めから二人は別々に長浜にやって来たのか、あるいは男性が長浜に住んでいて彼女が彼に会いにやって来たのか。いや、そんなことはどうでもいい。エヴァには紛れもなく愛する男性がいるということだ。
「エヴァ、結婚して欲しい。これを君にプレゼントする」
ルディはボックスに入ったキラっと眩しい光を放つ指輪を取り出して、エヴァの左手の薬指に婚約指輪を挿入した。
エヴァはルディの目を見つめて、込み上げて来る幸せを噛みしめながら、ルディとまた口づけを交わした。
ルディのドイツ語がわからなくても、婚約指輪をはめるシーンは万国共通である。陽介にもその意味ぐらいはわかる。
そらそうだよなあ。エヴァのように美しくて可愛い女性に虫がついていない訳はない。それにしてもホントに幸せな男だなあ。羨ましい!
陽介がそんなことを思っている間に、二人は固く抱き合い口づけを繰り返してから闇夜に姿を消して行った。
翌日の関西空港は春の陽光が降り注いでいた。ルフトハンザ航空のカウンターにはエヴァとルディの姿があった。
搭乗口から機内に乗り込んだ二人は、微笑み合いながら隣同士の椅子の座り心地を試していた。
機内持ち込みのエヴァのバッグの奥底にはセイリュウがいた。静かに身を横たえている。一切声も立てずに。エヴァのバッグの中に居れば、少なくとも彼女と行動が共に出来る。それがセイリュウの唯一の慰めであった。
機はオンタイムに滑走路を走り始め、離陸した。
通路側に座っていたエヴァは小窓から上昇し始める機を感じながら、みるみる小さくなってゆく地上の風景を眺めていた。 エヴァは目を左手薬指の婚約指輪に転じ、英字新聞に目を通しているルディを見つめながら、顔をルディの肩に載せて微笑んだ。
そのエヴァの目に、通路を歩く子供の手に握られているドラゴンのフィギュアが目に飛び込んで来た。
あっ! セイリュウは?
JR長浜駅でルディを出迎えた時、セイリュウが気を利かせてイケメンからフィギュアに戻り、頼まれてわたしがバッグにセイリュウを入れたんだった。
バッグを開き、中を覗き込んで奥の方を見ると、セイリュウの姿があった。背中の翼を窮屈そうに折り曲げて小さくなっている。
「セイリュウ。わたしあなたのことをすっかり忘れていたわ!」
バッグの中を覗きながら何か言ったように感じたルディがエヴァの顔を覗き込んだ。
「どうかしたのかい?」
「セイリュウを返すのを忘れちゃったのよ」
「セイリュウ?」
エヴァは事情をルディに説明した。
「だってもう仕方がないだろ。もう飛行機の中だぜ」
ルディは困惑の表情を浮かべた。
「とにかく大切に持って帰るわ」
エヴァはそう言って、バッグを閉じた。
ルディがトイレで席を立った隙にエヴァはバッグを開き、セイリュウに優しく語りかけた。
「セイリュウ。イケメンになって長浜の街を案内してくれたことには感謝するわ。でもね、あなたがもう気付いたように、わたしにはルディという婚約者がいるの。だから恋人にはなれないのよ。わかってね」
セイリュウは小さく頷いた。よく見れば、目から可愛い涙が一筋流れ落ちていたのにエヴァは気付いたはずだが。
「エヴァ。それはわかったから、このままエヴァの住むドイツの町に連れて行って欲しい。せめてボクが初めて好きになった人の故郷を記憶に残しておきたいんだ。お願い!」
「わかったわ。しばらくうちで過ごしなさい。お友達も出来るかも知れないわ」
ルディが席に戻って来たので、エヴァはセイリュウにウインクをして急いでバッグを閉じた。
ドイツビール生産の一大拠点・ミュンヘンの空港に着き、ボクはやっとバッグから出してもらい、うんと伸びをした。そしてエヴァとルディと一緒に「ドイツの新幹線」と呼ばれるICEという高速鉄道に乗り、長浜の姉妹都市・アウクスブルクに向かった。ボクはエヴァの膝の上に載せてもらって幸せな気分に浸った。
約半時間でアウクスブルクに到着。そこからはタクシーで二人のマンションに向かう。
中世の姿を今に残す町々が集中するドイツを代表する観光地・ロマンチック街道。その南側に位置するアウクスブルクは、紀元前十五年に古代ローマの軍団基地が置かれたという古い歴史を持つ街だ。中世にはドイツ屈指の金融都市として繁栄を極めたそうだ。かつての栄華を思わせる建築物が並ぶ中を郊外へとタクシーは走り、三階建ての可愛らしいエヴァのマンションに着いた。
部屋に入り旅装を解いたエヴァは、窓辺に並んでいるフィギュアコレクションの隅っこにボクを飾った。窓の外にある小テラスには植木鉢が幾つも並び、真っ赤な可憐な花が咲いていた。
エヴァはフィギュアが好きだけあって、窓辺横の棚までフィギュアで埋まっている。
エヴァがシャワーに入っている間に、ボクは出来るだけドイツのお仲間に挨拶して回った。
その中に何とレッドドラゴンが居たので、ボクは話しかけてみた。まさかしゃべることは出来ないと思いながらも。
「君はどうしてここに居るの?」
すると、返事が返って来たのでビックリした。
「わたし日本の長浜というところからドイツにやって来たの。あなたはどうしてここに?」
ボクは目を丸くしながらレッドドラゴンに事情を説明した。
「えっ! あなたも長浜のフィギュアミュージアム出身なの!」
「うん。飛行機でこちらに来る間ずっとエヴァのバッグの中に入って窮屈だったけど、こちらに着いてからは彼女の膝の上に乗っけてもらって快適だった。それにしてもここは随分古い町だね。いや歴史がある町と言った方がいいのかな」
ボクはそう言ってレッドドラゴンに微笑んだ。
「そう、中世からの建物が一杯残っていて、とっても歴史を感じさせる町よね。わたしグレーテルっていうの。ご主人のエヴァさまがグリム童話に登場する女の子の名前を付けてくれたの」
「素敵な名前だね。グレーテルか」ボクもセイリュウと名乗った。
「わたしはエヴァさまのお友達が何年か前に長浜に行った時、そこにあるフィギュアミュージアムで買い求められて、フィギュアが大好きなエヴァさまのお土産としてここに来たのよ」
「そうだったんだ。長浜が懐かしいかい?」
「懐かしくなる時がないことはないけど、もう長いことこの町にいるからね。あなたはこれからここにずっといるのかしら」
「しばらくは居ることになるはずだよ」
「でも、セイリュウ。あなたがご主人をエヴァなんて呼ぶと、ちょっと変な感じがするわ」
グレーテルは口を尖がらせた。
「だって、ボクには長浜にご主人がいるもの。陽介君っていうんだ。だから彼女をご主人さまなんて呼べないし、エヴァっていうしかないんだ」
本当はボク、エヴァに恋しているんだ。だからエヴァって呼ぶのが一番ピッタリなんだ。そうグレーテルに向かって言ってみたい気がしたが、黙っていた。グレーテルはますます戸惑うと思ったからだ。
「なるほどね。もしあなたがこれからしばらくここにいることになったら、あなたのエヴァっていう言い方にもきっと慣れると思うわ。せっかくアウクスブルクにやって来たのに免じてしばらくは我慢してあげる」
「ありがとう。優しいんだね、君は」
グレーテルの頬がちょっぴり赤らんだのがわかった。
そう言えば、昔ミュージアムに日本語が話せるレッドドラゴンが居るといううわさ話を聞いたことがある。きっとそれがグレーテルだったんだ。
長浜では曳山祭が終わり、桜の季節も過ぎて豊公園もすっかり葉桜になっている。
陽介は最近朝のジョギングを始めたが、城址公園の辺りを走り過ぎるたびに、あの夜のことが蘇って来る。闇夜にスポットライトが当たるブランコのある公園広場で、ルディがエヴァの薬指に指輪をはめ、二人が抱き合って口づけをしたのを。
あの時エヴァのルディを見つめる真剣な眼差しが目に浮かび、陽介はエヴァが本当に大人の素敵な女性と感じたのを。
二人はドイツに戻り、きっと幸せな家庭を築き上げるのだろう。
陽介は力一杯腕を振り、雑念を払いのけてジョギングに集中しようとした。
でも、今度はセイリュウのことが頭に浮かんだ。ああ、集中できない。ホントにセイリュウは何処に行ってしまったのだろう。あの日エヴァを案内して回り、訪ねたところは全て聞いて回って捜したが何処にも居なかった。やはりもう諦めるしかないのだろうか。陽介の隣をペアでジョギングをしている中年の夫婦がすり抜けて行った。
エヴァがルディとスイスへ小旅行に出かけることになった。それでボクはエヴァが出掛けている間、真似をしてグレーテルと二人きりで小旅行へ出かけたいので、いつ旅から帰って来るのか教えて欲しいと言った。
「旅から戻って家に直ぐ入れるようにしたいからだよ」
「ああ、そういうことね」
そう言ってエヴァはこっそり耳元で帰宅の日を教えてくれた。
それからボクはグレーテルを旅行に誘ってみた。
「何処に行くの」
「ドイツの首都ベルリンはどうだい? エヴァの親戚がいるし、安心だ」
「一体どういう風にして出かけるの?」
「ボクが人間に、それもとってもイケメンに変身して、フィギュアの君を手に持ってお連れするよ」
グレーテルの表情が輝いた。
「でも、人間に変身出来るなんてすごいわね。どうしてそんなことが出来るの?」
「それは秘密なんだ」
「じゃあ、また気分が変わったら教えてちょうだい」
「わかった」
ボクらはエヴァとルディが旅行に出かけるのを窓辺から見送ったあとで、ボクはイケメンに姿を変え、約束通りグレーテルを手に持って駅に向かった。
駅でベルリンまでの切符をエヴァから頂いた旅行資金で買い、あの新幹線ICEで一路ベルリンに向かった。
車中ではグレーテルを席に備え付けられたテーブルの上に置いて、ボクは腸詰めの太いソーセージを慣れないナイフとフォークを使って食べ、生ビールを飲んだ。グレーテルにも気持ちだけソーセージを皿に載せて前に置いた。
横の席に座っていた家族連れの小さな女の子がグレーテルに気付き、声を掛けて来た。
「いいわね、それ。レッドドラゴンでしょ? ちょっと見せて」
女の子はグレーテルを手に取って、じっくり眺めた。
「お父さん、これと同じのが欲しいよ。買って!」
女の子は父親にグレーテルを見せておねだりを始めた。
父親もグレーテルを手にとり、母親にも見せてボクに微笑んだ。
車窓にはドイツの田園風景が流れていく。長浜を思い出す。陽介君はどうしているのか。ボクが居なくなってさぞ驚いたことだろう。また帰ったらお話しするからね。エヴァのことを。そしてグレーテルのことを。
到着したベルリン中央駅はウルトラモダンで巨大な駅だった。手のひらに載っかったグレーテルもアウクスブルクとは対照的な現代的な大都会の喧騒に驚きの声を上げた。
駅前に止まっていた俳優トム・クルーズそっくりのイケメンドライバーのタクシーに乗り込み、その夜宿泊する豪華なプチホテルを目指す。エヴァお勧めのホテルだ。部屋はモダンで新しく美しく、ついインテリアを楽しみながら冷蔵庫のドイツビールを一本飲んでしまった。
翌日はエヴァの親戚筋にあたるリハード&ギズラ夫妻の別荘でランチをご馳走になった。ドイツ特有の蒸留酒シュナップスを頂いたが、アルコール度数が高いので酔っ払ってしまい、グレーテルに睨まれた。
ドライブに連れて行ってもらい、夫妻が懇意にしている農家を訪ねたら、食用の大きなウサギが狭い小屋に幾匹か閉じ込められていた。ウサギはストレスで凶暴化していて、ちょっと手を出したら噛みつかれそうになった。グレーテルはびっくり仰天して翼を震わせ、ボクに飛びついて来た。ボクがしっかり抱きかかえたら、グレーテルは恥ずかしそうに微笑んでボクと目を合わせた。彼女をすごく愛おしく感じた瞬間だった。
その農家ではニンジンやジャガイモなどを主に栽培していたが、ジャガイモは箱買いといった感じ。大地の匂いがした。
農家をあとにしてリハードさんの愛車ジャガーは幹線道路のアウトバーンからずっと脇道にそれて進んだ。針葉樹に覆われたその道はくねくねして山に上がって行く。しばらくしてジャガーは林の真ん中で停まった。
「こんな所に何かあるんですか」
ボクは少し心配になってリハードさんに尋ねてみた。
「この奥に湖があるのよ」ギズラさんが答えた。
皆ジャガーを降りてしばらく白樺の林を歩いた。林が切れて展望が大きく開けると、眼前に忽然と湖が現れた。深いグリーンの水を湛えている。湖の周りの林から鳥の澄んだ鳴き声が聞こえる以外、湖一帯はしんとした空気が支配している。
「こんなところに湖が・・・」ボクは手のひらに載せたグレーテルがその湖をよく見えるように腕をうんと持ち上げた。
とってもきれいだわ。グレーテルの心がボクに囁いた。ボクらはその湖に導かれるようにリハード夫妻から離れて、二人きりで湖を眺めた。
不思議な化学反応の波が手のひらに伝わって来ていた。ボクは指でしっかりグレーテルを支えた。ウサギに驚いてボクに飛びついた時に感じたグレーテルの愛おしさが心に蘇った。
その時、グレーテルはふいに風が立って湖面がわずかに揺れ始めた湖を見つめたまま小声で呟いた。
「ここに佇んでいると、琵琶湖が恋しくなって来たわ。帰って来いって言われているような気がする」
ボクは思わず彼女に囁いた。
「ボクと一緒に長浜に帰らないか」と。
あたりが暗くなってから、リハード邸に到着したら大邸宅だった。テーブルにはすでに皿とナイフ、フォークが準備されてあった。広いリビングとモダンな部屋。インテリア、装飾品が豪華で、余程の資産家らしい。
奥さんのギズラさんの手作りの料理。ここでもビールとワイン、それにシュナップス。とっても気に入った。地元のワインをお土産に頂いたので、そのままルディとエヴァの土産にしようと思った。
この旅を通して、ボクはグレーテルに恋するようになった。エヴァの日本の知り合いということで、ボクはずっと人間の姿のまま通し、手にはいつもグレーテルがいたから自然と親近感が湧き、温もりを感じたのだ。グレーテルもボクを好きになったように感じる。大きな図体のボクが小さく可愛いグレーテルをいつも守っているという雰囲気が、彼女の心をボクに近づかせたのかも知れない。元のブルードラゴンに戻ってもぜひ同じ気持ちでいて欲しい。
親戚がいるからご馳走になって来なさいと、エヴァが旅行先に勧めてくれたベルリン。
ドイツは初めてだったし、旅行と言っても何処に行けばいいのかもわからなかったから、エヴァと知り合えて本当に良かったと感じる旅でもあった。
エヴァが小旅行から帰り、その少しあとにボクらもエヴァの家に戻った。
ボクは人間から再びブルードラゴンに姿を戻して、窓辺のフィギュアコーナーでグレーテルと寛いでいた。そこにエヴァがやって来て、二人に話があるというのでエヴァの両手で彼女の部屋に運ばれた。
エヴァはちょっぴり寂しそうな表情を浮かべているのが気になった。
そんなことがあって、二週間ほど経ったある日、陽介の許に国際宅配便のボックスが届いた。
陽介がボックスの発送者と住所欄を見ると、アウクスブルクのエヴァだった。
エヴァが一体何を送って来たのか、少し逸(はや)る心でボックスを開いてみたら、何とそこにはセイリュウが入っていた。
「セイリュウ、お前はドイツに行っていたのか!」
それともうひとつ驚いたのは、セイリュウの隣にレッドドラゴンが入っていたことだ。
一体これはどういう意味なのか。
陽介は添えられているエヴァからの日本語の手紙を急いで開けて読んだ。
『陽介さん。お元気にされていますか。こちらは婚約者ルディとの新しい生活に向けて忙しくしています。
さて、陽介さん、驚かれたとは思いますが、セイリュウはあなたがわたしを長浜の街を案内してくれた時に預かって、わたしがバッグの中に入れていたのを失念したまま、ルディと帰国便に乗ってしまい、長いことご心配をかけ申し訳ありませんでした。ここにお返しいたします。そしてもうひとつは同じボックスに入っているレッドドラゴンのことです』
エヴァはその顛末を詳しく手紙に書き込んでいた。
『・・・という訳で、セイリュウとグレーテルを一緒にして陽介さんに送りました。どうかグレーテルも末永く可愛がってやってください』
手紙を読み終えて、陽介は今一度セイリュウとグレーテルを見つめた。
「セイリュウ、ボクもお前をエヴァに預けたのを全く失念してしまっていた。ゴメン。主人として恥ずかしい。でも、良かったな。同じフィギュアミュージアム出身のグレーテルとエヴァの故郷で出会って、一緒にこの長浜に帰って来られたんだから。ボクは恋人を見つけたセイリュウが羨ましいよ」
その時、ふたつのドラゴンがお互いを見つめ合って微笑んだような気がした。
エヴァがボクとグレーテルに話があると言ったのは、二人一緒に長浜に返そうと思うがどうかとボクらに相談することだった。ボクもグレーテルもその提案に賛成し、喜んだ。エヴァの許にはベルリンの親戚からも、日本のイケメンがレッドドラゴンを本当に大切にしているという報告があった。エヴァも二人が一緒に旅行に出かけたり、家の窓辺で楽しそうにしたりしているのを見ていた。
それらを踏まえて、エヴァはグレーテルを長浜のプレゼントにしてくれた友達にも事情を説明し、再び故郷の長浜に返すことの同意を得ていた。
エヴァにお礼の手紙を書く陽介君の傍らで、ボクはグレーテルに陽介君の家でのフィギュアのスペースと住まい方について説明した。
二人で出かける機会を見つけてボクは人間に変身し、いつものようにグレーテルを手に持って出かけた。
最初に行ったのはエヴァがルディから求婚されたと聞いた長浜城址公園である豊公園だ。
「ここでエヴァはルディに婚約指輪をはめてもらったのね。ああ、わたしも指輪が欲しい!」
そう言ってグレーテルはボクの方を見上げた。
「指輪はもう少し待っておくれ。考えてみるから」
「どのくらい待てばいいの?」
グレーテルがボクの目を見つめた。
「もうちょっとだけだよ」
ボクは左の手のひらの上にいるグレーテルにウインクをした。
「グレーテル。竹生島に行ってみない? 君がドイツで恋しくなった琵琶湖を渡ってさ」
「いいわね。わたし竹生島はまだ行ったことがないし、一度機会があれば行ってみたいと思っていたの。こんなに早く実現するなんて嬉しい!」
「よし、じゃ長浜港へ行こう」
ボクは陽介君の家でグレーテルがさっきお昼寝している間に銀行に足を運んでいた。
ベルリンへの小旅行の時にエヴァからもらった旅行資金の残りをユーロから円に両替するためだ。竹生島に行くのにも往復のクルーズ船代や拝観料などが要るので、あらかじめ準備しておいたのだ。
ボクにはグレーテルと竹生島に行く目的が二つある。それはおいおい話そう。
クルーズ船は乗り込んだら直ぐに出発し、穏やかな湖面を滑るように進んで行く。半時間の乗船だ。甲板に出たら風が頭髪をなびかせるくらいに吹き、船のエンジン音と波しぶきが散る音が耳を刺激する。
ボクはグレーテルをしっかり手に握って島の方角を眺めながら、パワースポットとしての島の説明をした。グレーテルはかき消されそうなボクの声を聞き漏らすまいと、手にしがみつきながらボクの唇を眺めていた。
唇と言えば、ドイツから送られた国際宅配便のボックスに二人で詰められていた時、初めてグレーテルと口づけをしたのを思い出した。ボックスの中には詰め物があり、窮屈でお互いに背中の翼がちょっぴり邪魔に感じたほどだったが、口づけの瞬間にはそんなことも忘れて、目をつぶっているグレーテルの幸せそうな表情を薄目を開けて見つめていた。
「セイリュウ、どうしたの? 島の話が途切れちゃったけど」
ボクは我に返った。
「ああ、ゴメン。ちょっとあることを思い出していたもんだから」
「何を?」
「いや、何でもないよ。ほら、ご覧。はっきりと竹生島が見えて来た」
ボクはごまかして、グレーテルを手で持ち上げた。クルーズ船は間もなく島に到着した。
何故竹生島にグレーテルを連れて来ようと思ったのか。そのひとつはグレーテルにボクの秘密を打ち明けようと思ったからだ。ボクらは竹生島にある都久夫須麻神社の本殿に参ったあとで、本殿向かいの琵琶湖を望む断崖に向かった。
そこには鳥居が立っている。龍神さまをお祀りする社の鳥居だが、竹生島を訪れた参拝客は龍神さまの拝所から願い事を書いた素焼きの土器の酒杯を投げる。酒杯のことを「かわらけ」というが、かわらけがうまく鳥居をくぐれば、願い事が成就するという言い伝えがある。
「グレーテル。覚えているかい。エヴァの故郷のドイツの町で、君はボクが何故人間に変身出来るのかって尋ねただろ?」
「ええ、覚えているわ」
「その秘密が実はここなのさ」
「どういうことなの」
「ボクがミュージアムで陽介君に買われてから直ぐ、彼はボクを連れて一緒にここに来たんだ。その時、陽介君は願い事をかわらけに書き込んで、ここからかわらけ投げをした」
「何て書いたの?」グレーテルが身を乗り出した。
「ボクにセイリュウという名前を付けてくれたあとで、『セイリュウが人間に変身出来ますように』ってかわらけに書いて投げてくれた。すると、そのかわらけがすごくうまいこと鳥居をくぐったんだ。それからボクは自由に人間に変身出来るようになったんだ」
「へえ、龍神さまが願い事を叶えてくださったんだ」
「もっともボクはそのことを秘密にしているから、陽介君は自分の願いが通じていることを今も知らないままだけどね」
「わたしも人間に変身したくなったわ。セイリュウ、お願い! 同じ願い事を書いてわたしの代わりにかわらけを投げてちょうだい」
「よし、やってみよう!」
ボクは『グレーテルが人間に変身出来ますように』と願い事を素焼きの酒杯に書いて、念を入れてかわらけを投げた。
すると、かわらけは琵琶湖に向かって吹く風に乗り、弧を描きながら鳥居をくぐって行った。
「やった! これで願いは叶うわね!」
驚いたことにボクの手からあっと言う間にグレーテルは消え、龍神さまの鳥居の陰から可愛い女性が現れた。ボクはあっけにとられたまま、その女性を見つめた。
「ひょっとしてグレーテル?」
ボクは恐る恐る女性に声を掛けた。
「そうよ、セイリュウ。わたしよ。グレーテルよ」
ボクは急いで龍神さまを拝んだ。
「願いを聞き届けていただいて本当にありがとうございます!」
ボクはグレーテルと手をつないで、参拝客が休憩している本殿横から森の中に入って行った。
そこでボクはグレーテルの左手の薬指に指輪をはめた。
「ボクと結婚してください」
グレーテルは指輪の感触を確かめながら、すごく嬉しそうな顔で微笑み、ボクの目を見つめて言った。
「はい! わかりました。ところでどうしたの? この指輪」
「ドイツから君と一緒に帰ることが決まった時、エヴァに君とのことを相談したら、ボクらへのはなむけとして、エヴァがルディにもらった婚約指輪を買ったアウクスブルクの同じ宝飾店でグレーテルへの婚約指輪にしなさいって買ってくれたんだ。ありがたく頂いて、今日君へのサプライズ・プレゼントにしたってわけさ」
「じゃあ、国際宅配便の中に別のボックスが入って狭苦しかったけど、中身はこの指輪だったのね!」
「そういうことさ」
人間同士になったボクとグレーテルは、両腕をお互いの背中に回して抱き合い、思いっきり熱い口づけを交わした。
完
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