目の前には、顔面に黒褐色の飲み物を噴きかけられ、笑顔で受け止めたたけおがいた。
 ポタポタとしずくを垂らしながらも、手元に置かれていたナプキンを使って笑顔で拭っている。
「いやー、さすが魔王さん! 噴き出し方も一流ですねぇ!」
「……悪かった。さすがに反省している」
「いえいえこちらこそ! 異世界から来たばかりの人に、ホットコーヒーを勧めたのは悪手でしたー」
 どうやら本当に怒ってはいないらしく、テキパキと処理を進めていく。
 逆に俺は、初体験だったとはいえど醜態を晒してしまったことに頭を抱えたい気分だった。
 俺の世界では、他者には威厳のある態度で接し、礼節を守るべしとされている。
 排泄もままならない子どもでもあるまいし、よりによって初めて召喚された先でなんという失態だろう。
 これがもし仮に、後世まで語り継がれるような自体になれば目も当てられない。
 そんな俺の思いをよそに、たけおは鼻歌交じりに、クレープと呼ばれる菓子を差し出していた。
「コーヒーが苦手でしたら、こちらをどうぞ! 冷たくって甘いですよ!」
「あ、あぁ」
 頬張った菓子は、確かに冷たく、とろけるような甘さで舌上を転がった。
 あんなことまでされてなお笑顔でいるとは、たけおはよほど望みを叶えて欲しいらしい。
 失態ばかりを見せては召喚された意味がない。
 意を決し、あらためてたけおを見つめる。
「そろそろ本題に入ろう。お前が俺にぶつけたい物とは、なんだ」
 言葉に、たけおの笑顔が固まる。
 ようやく真面目に話す気になったらしい。
 卓上に肘をつき、指をも組んだたけおは、静かに唇を開いた。
「――魔王さんは、この街の第一印象……どう思いました?」
「先ほども言ったが……不思議な懐かしさであふれた街だ。初めて訪れた者にも、淡い郷愁を抱かせる。それに人と人が疎遠になるほどの忙しない賑わいはないが、穏やかな活気に満ちていて――なんとも心地がいい」
「ありがとうございます、その通りです!」
 バンと大きな音を立てて立ち上がり、たけおは歓喜の瞳で俺の手を握った。
「そうです、その通り! 長浜には旅人を立ち止まらせてくれる温かさ、懐かしさ、心地よさが揃っているんです!! 見てください、これを!」
 軽食の皿を端に寄せ、空いた中央のスペースにずらりと資料を広げる。
「長浜は天災被害が少なく、住み心地は普通~とても住みやすい土地として高評価! また新築一戸建てを購入するのも、ほぼ同条件なら隣の米原市よりも400万、彦根市を相手にしても100万もお安く買えるんですよ!」
 拳を握っての大熱演だった。
「にもかかわらず……! にもかかわらず! 滋賀県内における長浜市の印象は! 薄い!!」
「ほう?」
 思わず興味を惹かれ、身を乗り出す。
「なぜだ。広い住居を安価で入手でき、このように商店も多い。天災も少ないともなれば、居住するには格好の土地だろう」
「と、私は思うんですけどねぇ」
 ここに来て初めて、たけおの表情が曇る。
 悲しげに寄せられた眉根が、悲痛な心境を物語っていた。
「冬は雪がたくさん降るんです。最近は関西でも雪が降る土地は珍しくて、雪道に慣れていない人にとっては、そこはかなり重要なマイナス点らしいんですよ。子どもにとっては力いっぱい雪遊びができる、素晴らしい気候条件なんですけど」
「雪か。俺もあまり馴染みはないが、すべて白に覆い尽くされる様は美しい光景だと聞いている」
「美しいですよー! 見渡す限り真っ白で、冬は田んぼで遊び放題。毎日かまくらや雪だるま、雪合戦で遊べます! 余呉湖に行けばワカサギ釣りもできるし、冬は最高に楽しい季節なんです!!」
 跳ねるように語るたけおは、心底誇らしげに輝いている。
 いかにこの土地を愛しているかが分かる口ぶりに、さしもの俺も、口元が緩むのを感じた。
「その思いが周囲にも伝われば、さらに活気づくだろうな」
「でしょ! そうなんですよ! 私はこの街の魅力を、もっと伝えていきたいんです! ……あー、なんですけどぉ」
 またしても、たけおの肩が落ちる。
 今度は表情が曇るというよりも、苦々しく憤怒を押し殺している様子だった。
「なんだ、どうした」
「私、通っている学校の関係で彦根、草津、米原、守山に友人がいるんですけどね。そやつらがもう、長浜を軽んじてきてですね……!!」
 吊り上がった目が、虚空を睨む。
「確かに米原に比べれば交通の便は悪い! 私もお世話になってる! そして草津は大都会! だから比べられると長浜は田舎かもしれない! 彦根なんてひこにゃんが大ブレイクするまではうちと五十歩百歩だったはず!! そしてなにより、守山ぁ!!」
 憤怒の叫びを迸らせ、たけおは涙目で唇を噛んだ。
「守山なんて、守山なんて……!! 話題になったの、バーガーキングしか残ってなかった廃墟同然のピエリ守山しかなかったクセにぃいいい!!」
 悔し紛れに机を殴るたけおの気持ちが、俺には少し分かるような気がした。
 今日まで、こちらの世界に召喚されなかったことを揶揄され続けていた自分。
 たった数日前まで同じ悩みを抱えていたはずの同志が、ひとたび召喚された後は得意顔で揶揄してくる言葉に、何度奥歯を軋ませただろう。
 ひこにゃんやピエリ守山とやらのことは分からないが、たけおの怒りは、恐らく同種の物のはずだ。
 そう理解したとき、不意に得心した。
 今まさに、たけおが叫んでいる怒りと愛こそが、萌えなのだ。
「――なるほど、お前はこれを私にぶつけたかったんだな」
「え? すみません、なんか言いました?」
「いや、なにも言っていない。……この街に興味がわいた。ほかに魅力はあるか」
 そう口にしたときのたけおの顔が、目に焼き付いた。
 頬を紅潮させ、息を呑み、これまで以上に瞳を輝かせたたけおは、紛れもなく、魅了の魔力を持っていた。
「ッ、本当ですか! もちろんです、たくさんありますよ!!」
 高揚感にはしゃぐたけおの魅力に気圧され、思わず頷くしかできない。
 慌てて頭を振り魔力を払うも、俺の頭はどこかぼんやりと、薄絹がかってしまったようだった。
 さらにそれから、たけおの話は止まらなかった。
 卓上の軽食をすべて食べ尽くしてなおも止まらず、さすがに店の主人に遠慮して、外へ出る。
 店先でたけおは、踊るようにくるりと回って見せた。
「すぐそこに、先ほどお話しした曳山博物館があります! 本当はご案内したいんですけど、あそこに行くと時間が矢のように過ぎていくから、今回は割愛しますね。魔王さんにも是非見ていただきたいです、子ども狂言! 子ども達が演じているとは思えない迫力、切なさ、格好良さ! 一度見ればやみつき、毎年通わずにはいられない楽しさです!」
 息つく暇もないほど早口にまくし立てるたけおの言葉が、今は妙に心地がいい。
 興奮のあまり、紅潮した頬の赤みに微笑ましささえ覚えた。
「さらに! 夏にはここで、なんと千五百人以上が民族衣装を着て踊り歩くんですよ! 圧巻なんですから!」
「千五百……一個連隊ほどの人数が一斉に舞い踊るのか。それは見物だろうな」
 文化を尊ぶ民衆は愛おしい。
 それは恐らく、どの世界でも共通した認識のはずだ。
 しかし俺が素直に聞き入る態度に不安でも覚えたのか、ここでたけおは遠慮がちに首を傾いだ。
「魔王さん。ちょっと遠出したいんですけど、お時間大丈夫ですか?」
 質問の意味を図りかね、俺もまた首を傾ぐ。
 たけおの愛と怒りの源が他にもあるのなら、俺に拒否する権利もない。
 斜め下から見上げるたけおにまたも魅了されたなどという考えを放り投げ、俺はたけおの手を取った。

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