1
渦巻く風の中、ゆっくり目を開くとそこは見知らぬ場所だった。
目の前には驚愕と歓喜に震える、ひざまずいた一人の女。
ただそれだけですべて得心し、俺はため息と共に口を開いた。
「俺を呼び出したのは貴様か。望みはなんだ」
高鳴る胸を押さえ、努めてつまらなそうに聞けば、女が生唾を飲み込むのが見て取れた。
あぁ、ついに俺にもこのときが!
そんな思いが間違っても口から出ないよう、俺は無理やり唇を引き結んだ、
俺はこことはまったく別の仕組みで成り立つ隣接世界の住人で、こちらの世界では魔王だか悪魔だか呼ばれる存在だ。
そしてここが、世の事象を科学とやらで解き明かしている世界だと知っている。
なぜ事情に通じているかと言えば、同程度の能力を持つ友人知人がたびたびこうしてこちらに呼び出されては、なんらかの問題解決を頼まれているという話を聞いていたからだ。
酒の席で話を振られてもうまく合わせることもできず、「あ、お前そういやまだだっけ?」みたいなあざけりと哀れみの目で見られるのは本当につらかった。
しかしそれも今日、ここで終わりを告げる!
「お前の望みと引き換えに、相応の寿命をもらい受ける。俺を呼び出したからには、それなりの覚悟を……」
「はい! もちろんです!」
「そう、もちろん持って……。……ん?」
気持ちよくそらんじている最中に水を差され、思わず耳を疑う。
何度も読んで練習していた「どんなときでも安心! 召喚対策マニュアル」に記されていた例文だ。
こちらの住人は、これを言うと多少なりとも逡巡したり、あらためて事態の深刻さを認識するらしいと書いてあったんだが、やはり個人差はあるらしい。
目の前の女は、やけに目を輝かせていた。
「寿命、縮むんだがいいのか」
「いいです!」
「聞いた話だと、こちらの世界では寿命は軽々しく延び縮みしないんだろう?」
「そうですね! よくご存じで!」
「お前の願いに比例して寿命をもらい受ける量が変わるんだが」
「はい、どうぞ!」
「……投げやりになっていないか? 俺みたいなのを呼び出すということはなにかよほどつらい目に遭っていて、とっとと死にたいとかそういうアレか?」
「あ、そういうのとは違うんで、大丈夫です! でも寿命の件はお任せください!」
「なにがどう大丈夫で、なんでそんなに任されたいんだかよく分からないんだが……まぁ本人がいいって言うならいいのか」
命のやりとりを前にして、こうもハキハキと話せるものかと不思議に思いつつ、あまり食い下がるのもおかしいかと無理やり納得する。
コホンと咳払い、あらためて女を見下した。
「では望みを聞こう。残り寿命によって叶えられるものは変わるが」
一度言葉を切り、丸く輝く目を凝視する。
俺の世界では、寿命は通貨と同じだ。
自分の寿命を差し出して望むものを得、相手の寿命を受け取って相手の望みを叶える。
他人に望まれる物を持っている者は他者よりも長寿で、持たざる者は短命だ。
そして俺は現在四四五歳を超える、いわゆる「持っている側」だった。
「お前ならそうだな、別次元に行く程度のことならなんとかなる」
女の残り寿命を計算し終え、最大規模の願望として一例を挙げる。
友人との話の中で、こちらではこの願いが今流行らしいと聞いたことがある。
せっかく寿命を縮めるのなら、大きな願いを叶えたがるに違いない。
しかし女は、きょとんと首を傾いだあと、あぁと困ったように顔を歪めた。
「そういうの興味ないんでー」
まるで悪い勧誘に引っかかった時の第一声だった。
「え……お前たちにとってはすごいことなんじゃないのか、これ」
「すごいことなんでしょうけど、私そういう願望ないのでー」
「そ、そうか」
女が明らかに逃げ腰だ。
違う、別に俺がそういう願望を持っているから勧めているわけじゃない。
しかし今一番の流行を追わないとは、この女の願いは一体どんな物なんだ。
さっきも言ったとおり、寿命量によって叶えられる願いは限られている。
無茶なことを言われても困ると眉根を寄せたところで、女の唇が不意に引き締まったのが目に入った。
「あの、ですね! 私の願いは!!」
「うん」
「私の萌えを! 受け止めてください!!」
思い切りよく叫ばれた言葉に、理解が及ばず首を傾ぐ。
まず、モエってなんだ。
「えぇと……萌えとは……?」
「萌えとは、エモさを感じることです!」
恥を忍んで聞いてみたが、またよく分からない言葉が出てきた。
「……エモさ……とは……?」
「ヤバいってことです!」
ダメだ、俺の知っている語彙ではない。
なにをどう受け止めてやればいいのか一切不明だが、とりあえず投げつけられた物を受ければいいのだろうか。
詳細は分からずとも、それさえ成せばいいのだと頭を切り替えた。
「あー、とりあえず分かった。どんな物でも構わん、受け止めてやろう」
「ホントですか! ありがとうございます!! では早速……!!」
言って女が取り出したのは、こちらの世界の衣服らしき物だった。
「これを着て、私と街へ繰り出しましょう!!」
どうやら、俺の考えている以上にこちらの言語は難解らしい。
投擲を受けるとは到底思えない小綺麗な装束に腕を通しながら、俺は先の見えない不安にちょっとハラハラし始めていた。