タペストリー
時は十六世紀にまで遡る。場所は日本から遥かに遠い異国の地、ベルギー。
ベルギーのフランドル地方は、遠いローマの時代の昔から毛織物の産地として栄えていた土地である。イギリスから良質な羊の毛を輸入して、それを毛織物として仕立て上げていく。その技術は、北イタリアとともにヨーロッパでは群を抜いていた。
この地で織られた毛織物は、ハンザ同盟の各都市を経てヨーロッパ各地に売り捌かれていった。
十七世紀に綿織物の技術が発達して人々の衣服として使用されるようになるまでは、人々の衣服は専ら羊毛によって作られていたという。
また、ヨーロッパの王侯貴族たちは、自身が所有する城の内部や邸宅の壁を飾るために、職人たちに厚手で大判の毛織物の作品を盛んに注文した。絨毯のような毛の突起をもつこの大きなサイズの毛織物は、タペストリーと呼ばれた。
そこに、古代から伝わるホメロスなどの勇ましい軍記物の主人公の絵柄を織り込めば、室内を装飾する飾りとしては超一級のものとなった。
フランドル地方の中心地の一つブリュージュのタペストリー職人ニケイズ・アエルツは、スペイン王のフェリペ三世からの注文を受けて五枚のタペストリーの大作を織り上げていた。
その五枚のタペストリーとは、
①ホメロスのトロイ戦争を題材にした叙事詩『イーリアス』から、トロイの王子パリスがヘレンと出会った場面
②『イーリアス』から、トロイのプリアモス王が単身で敵将アキレウスの幕舎を訪ね、王子エクトルの遺体返還を求める場面
③『イーリアス』から、トロイの王プリアモスと后ヘキューバを描いた図
④『イーリアス』から、トロイの王子エクトルとその后および子息との別離の場面を描いた図
⑤ホメロスの『イーリアス』の続編にあたる『オデュッセイア』の一場面で、トロイ陥落の情景を描いた図
の五枚である。
いずれも大作であり、その勇ましさといい色合いの美しさといい、アエルツ渾身の傑作といっていい傑出した作品となった。
「スペインの王に売り渡すのが惜しいものよのう。いっそ売らずに我が元に置いておきたいくらいの見事な出来栄えの作品じゃ。」
アエルツが言った。
「ほんに、その通りにてございます。」
弟子たちも口々に同調した。
「なんでもスペインの王様は、このタペストリーをハポンとやら言う遠い東の果ての国から来るサムライとかいう者への土産品としてお贈りになられるそうだ。このわしの傑作が物の価値などわかりもしない野蛮な国の者どもの手に渡ってしまうのかと思うと、余計に腹立たしい限りじゃ。」
アエルツは憤慨したような口調で壁に並べられた五枚のタペストリーを名残惜しそうに見詰めていた。
このタペストリーは、明日になれば出荷のために荷造りされて、スペインへと運ばれていくことになる。今少し手元に置いて眺めていたいものよ。
これほどまでに自分でも納得がいく惚れ惚れするような作品に仕上がることは、熟練したタペストリー職人であるアエルツでも、そうそうあることではなかった。渾身の力作と言っていい。それも五枚まとめてのことである。
このタペストリーを持ち帰るサムライとは、どのような人物なのだろうか?ハポンとは、どのような国なのだろうか?
大海を渡ってはるばると見たこともない国に旅立ってしまう我が作品のことが愛おしくて、せめてどうか航海を終えて、そのハポンとやらに無事に着いてくれることを祈った。
仙台藩主伊達政宗の命を受け、藩士の支倉常長がサン・フアン・バウティスタ号で仙台の地を出発したのは、慶長18年(1613)9月15日のことだった。
常長ら一行約百八十人は、途中、アカプルコ、メキシコシティ、バハナなどの各都市を経て翌1614年10月5日にスペインのセビリアに到着した。11月25日にセビリアを出発した一行は、12月20日に首都マドリード入りを果たし、年が改まった1615年1月30日についにスペイン国王フェリペ三世に謁見することができた。
フェリペ三世は、海路遥々やってきた常長ら使節団一行を心から歓待して長旅の疲れを癒そうとした。この時に、フェリペ三世からの土産物として、例のアエルツが制作した五枚組のタペストリーが常長に贈られている。
常長はマドリード滞在中の2月17日に、フェリペ三世の臨席を得て王立修道院の付属協会で洗礼を受けている。
フェリペ三世の心尽くしの歓待を受けた常長らは、8月22日にマドリードを発ち、カトリックの総本山であるローマを目指した。10月25日にローマに到着した彼らは、11月3日にローマ法王パウロ五世の謁見を受け、11月20日にはローマの市民権を得ている。ローマでも、大変な歓待ぶりであった。
このスペインおよびローマでの大歓迎の背景には、天正年間(天正10年(1582)に日本を出発し、天正18年(1590)日本に帰還)に日本から遥々スペイン・ローマまで派遣された伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの四人の遣欧少年使節の影響も大きかったものと思われる。
ほんの三十年くらい前のことだから、遣欧少年使節の姿を実際に見た人もまだ多数生存していたに違いない。気高い雰囲気を持った少年たちの立ち居振る舞いを覚えていて、ハポンという国への憧れと尊敬の気持ちとが彼の国の人たちにあったのだろう。
そのハポンから再び訪問客が訪れた。当時の少年使節の姿が重なって、熱烈な歓迎となった。
1616年1月7日、常長ら一行はローマを出発し、再びスペインのセビリアに戻った後、今度はフィリピンのマニラ経由で日本に向かい、元和6年(1620)8月24日に帰国している。
実に七年弱にも及ぶ大航海だった。
しかしこの間に日本の国内情勢は大きな転換を遂げていた。
慶長18年(1613)2月19日には二代将軍徳川秀忠の命により禁教令が公布され、キリスト教を奉じる高山右近などの大名が海外に追放になり、信教を捨てない熱烈なキリシタンに対して大弾圧が加えられていた。
命を懸けて主君の命に従った常長であったが、日本に戻ってからの常長の立場は非常に微妙なものとなり、失意のうちに僅か二年後の元和8年(1622)7月1日にこの世を去っている。
この航海で常長が持帰った土産物等は現在、「慶長遣欧使節関係資料」として仙台市博物館に保管され、国宝の指定を受けている。その中には、常長がローマで得た「ローマ市公民権証書」やクロード・デリュエ作の支倉常長像の油絵などが含まれているが、ベルギー・ブルージュのタペストリー職人アエルツが制作したあのホメロスの叙事詩を描いたタペストリーに関する記述は、不思議なことに何も残されていない。