終わりに
こうして、ニケイズ・アエルツがベルギーのブリュージュで制作し、仙台藩士支倉常長によって日本にもたらされ、伊達政宗から徳川二代将軍秀忠に献上された五枚のタペストリーのうちの「トロイの王子エクトルとその后および子息との別離の場面を描いた図」は、二枚に分割されてそのうちの一枚が長浜曳山まつりの鳳凰山を飾る見送幕となった。
この幕の売買経緯について若干の補足をしておくと、なにしろ徳川将軍家が保有していた二百年前の貴重なタペストリーを密かに巻物問屋に払い下げた代物であるので、このような売買経緯があからさまに表に出ることを幕府が好まなかった。
幕府からの内々の命もあり、単純に巻物問屋壺屋七郎兵衛から長浜魚屋町御山組糸屋惣衛門に直接売買する形とはせず、タペストリーは複雑な取引経路を経て惣右衛門の許に渡ったという形が取られた。
すなわち、壺屋七郎兵衛だけでなく巻物問屋六名が連名で売り主となり、最初は伊藤御店勘兵衛の許に売られ、勘兵衛から藤倉屋十兵衛が買い取り、それを白粉屋勘兵衛の仲介により長浜魚屋町御山組御取次の糸屋惣右衛門が購入したことになっている。
いずれの売買も二百両で取引されており、間に入った商人たちの利益は上乗せされていない。極めて奇異な取引であるのは、途中の売買は証文のうえだけの架空の売買であり、先に書いたように幕府からの命により入手経路を判別しにくくするための偽装工作であったからである。
なお、長浜曳山まつりの鳳凰山の見送幕と対をなすもう一枚の見送幕を鳳凰山の山組よりも一足先に入手したのは、京都祇園祭の鶏鉾(にわとりぼこ)の山組であった。この見送幕が今でも鶏鉾の宝物として大切に引き継がれていることは言うまでもない。
鶏鉾では、重要文化財に指定されているこの見送幕を永く保存する目的で、精巧な複製品の見送幕を制作した。鮮やかな色彩で現代に蘇った鶏鉾の見送幕は、祇園祭でもとりわけ目立つ存在となり、現代の人々を魅了している。
さらに付け加えると、鳳凰山と鶏鉾の見送幕として切り取った後の部分を巧みに縫い合わせて、同じく祇園祭の霰(あられ)天神の前掛としても転用されていることが後の研究で明らかになっている。
巻物問屋の連中は、まるで猟師が仕留めた獲物の肉を切り取り皮を剥いで後には骨しか残らないようきれいに解体し尽すが如くに、幕府から拝領したタペストリーを余すところなく分断し縫合して売り捌いていたことがわかる。
幕府から払い下げられたタペストリー三枚のうち、「トロイの王プリアモスと后ヘキューバを描いた図」は、同じく祇園祭の山鉾である鯉山の胴掛け、前掛け、見送幕として転用されている。
また残りのもう一枚の「トロイ陥落の情景を描いた図」は、祇園祭の白楽天山の前掛けと大津祭の月宮殿山(げっきゅうでんざん)および龍門滝山(りゅうもんたきやま)の見送幕として使用されている。
それぞれの組のヤマにも鳳凰山における惣右衛門のような人物がいて、巻物問屋との間で同様の緊迫したやり取りが交わされたものと想像されるが、詳しいことはわかっていない。
現存する資料に乏しく今はまだ謎に包まれた部分が多いけれど、後の人たちの研究によりこれらのやり取りの全貌が明らかになっていったら、さらに興味深い事実が判明するかもしれない。
かくして、アエルツが精魂を込めて制作した五枚組タペストリーのうちの「トロイの王子エクトルとその后および子息との別離の場面を描いた図」の右半分は、長浜に運ばれ鳳凰山の見送幕として無事に収まることになった。
山組では、鳳凰山の寸法にぴったり合った見送幕とするために、買い取ったタペストリーを京都の唐人・彦兵衛に注文して仕立て直している。
彦兵衛は、町内の旅籠大和屋に宿泊して絹糸を使って丁寧に見送幕を仕立て上げていった。厚手の生地はハサミで裁断することができず、ノミを使い槌で叩いて断ち割っていったと伝えられている。
この時に山組が彦兵衛に支払った仕立て料が十一両、絹糸代が一歩金一枚だったというから、購入した本体費用以外にも、見送幕に仕立て上げるための付帯費用として多額の出費が必要だったことがわかる。
他の山組町衆からの羨望の眼差しを一身に浴び、輝くような鳳凰山を懐手して誇らしげに見上げている惣右衛門の姿が目に浮かぶようだ。
この時の惣右衛門たちの奔走と決断とがなかったら、今の鳳凰山にアエルツの見送幕は伝わっていない。従って私たちも、この素晴らしい見送幕を曳山まつりで目にすることができなかったということになる。
惣右衛門たちが生きた時代は、今から約二百年前にあたる。売買契約が締結されたのが文化十四年(1817)のことであるから、それから細部を調整して新しい見送幕が曳山まつりでお披露目となったのは、まさに今からちょうど二百年前の文政元年(1818)であったかもしれない。
完