第一部

 川沿いを、歩いている。
 動くものはない。所々が切り裂かれた旗と、折れた刀や槍、そして甲冑姿の男たちが転がっている。
 足を止め、彼らのうちの一人の傍に屈み込んだ。仰向けになったその男は、顔だけが川の流れに浸かり、泥も血も綺麗に拭い取られていたが、瞳は開いたままで、表情は恐怖に引きつっている。
 男の顔を注視した時、それがぐにゃりと歪んだ。そのまま眺めていると次第に、男を見ている自分自身の顔に変わっていく。……

 目蓋の裏の幻がそこまで進んだところで、半兵衛は目を開けた。櫓の上からは、目の前の山の尾根筋に沿って建てられた小谷城が一望できる。陰鬱な空の下で、城は心細そうに見えた。
 天正元年八月二十日。半兵衛は羽柴秀吉に従って、浅井長政の籠る小谷城を包囲すべく虎御前山に身を置いている。
「竹中殿!」
 緊迫した声のした方を見下ろすと、秀吉の小姓が立っていた。走って来たらしく息が上がっている。
「一乗谷の織田様より、書状が参りました。殿がそのことで、お話があると。」
「来たか。」
 半兵衛は低い声でそう呟くと、櫓を降りた。

 美濃斎藤家の一家臣だった竹中半兵衛がその名を天下に知らしめたのは、九年前のことである。主君斎藤龍興の横暴に耐えかねた半兵衛は、わずか十六人の仲間と龍興の居城・稲葉山城を占拠したのだ。しかも美濃攻略の最中だった信長の求めにも応じず、半年で城を龍興に返して隠居する。しかし信長が彼に叛旗を翻した浅井・朝倉氏の討伐を進める際に秀吉から再三説得を受け、織田家中に加わることになった。以後は秀吉の参謀役となって、共に両氏の討伐に尽力している。
 虎御前山の本陣では、既に秀吉が待っていた。
「おう、半兵衛。」
 秀吉が手招きをしてきたので、半兵衛は軽く頭を下げて近づく。普段は人懐っこい笑みを絶やさない秀吉も、この日ばかりは緊張の色を隠さない。
「朝倉は、」
 半兵衛が単刀直入に切り出すと、秀吉は深く頷く。
「我が方の圧勝だそうだ。義景も果てた。」
 信長は半月ほど前に岐阜を出陣し、朝倉義景を一乗谷へ追い込んでいた。数日前から一乗谷への攻撃を行っていたが、遂に今日その決着がついたというのである。
「すると信長様は、ここに?」
「ああ、浅井もすぐに攻略したいと言うておられる。」
「やはり小谷城は総攻撃で落とすというのが、信長様のお考えにございましょうか。」
「そうであろうの。……」
 半兵衛の声音がわずかに変わったのに気がついたのか、秀吉は少し遠慮がちに言って半兵衛の顔を覗き込んだ。
「浅井は降伏に応じぬか、半兵衛?」
「は。今更降伏することなどできぬと。」
「そうか。」
「小谷城は山城ゆえ攻めるのは容易くありませぬ。総攻撃となれば、我が方も甚大な損害を被りましょう。」
「うむ。姉川の時のようなことは、儂ももう御免じゃ。」
 姉川、という言葉が、半兵衛の耳の奥に響いた。そして、件の幻は姉川の戦いの時のものであったということを努めてゆっくりと認識する。目蓋の裏に描かれたあの兵は、決して現実ではなかった。しかしあの無残な川沿いの光景を、半兵衛は実際に目にしているのである。二年前、信長軍二万五千と浅井・朝倉軍一万五千とが対決した姉川の戦いは、信長軍の勝利に終わったとはいえ、両軍合わせて二五〇〇とも言われる死者を出す激戦となったのだった。
「朝倉が破れたという報は、浅井にも届きましょう。城内が動揺すれば、長政が態度を変える可能性もございます。今一度使者を送り、降伏を促すが肝要かと。」
「そうだな。よし、お主に任せた。信長様が戻られる前に、良い返事が聞ければいいが、……」
 そう言って唇を噛む秀吉に、半兵衛はただ頷くしかなかった。

 しかし二人の願いも虚しく、長政が「武士として、今更降伏などせぬ」の一点張りのまま、二六日に信長は虎御前山に帰陣した。
 案の定、すぐに諸将を集めて軍議を開いた信長は、家臣たちへの労いの言葉もそこそこに、小谷城の攻略について話し始めた。この軍議には秀吉の他、柴田勝家、前田利家、佐々成政といった面々が参加しており、半兵衛も秀吉の傍に座している。
「朝倉が滅びた今、残りは浅井だ。この儂を裏切った者がどうなるのか、見せてやらねばならぬ。」
 信長の言葉に、諸将は尤もだというように頷いた。朝倉攻めの興奮が冷めていないのか、どの目も異様な光を放っている。
「猿、浅井の動きはどうなっておる?」
 信長の刀のような視線が、秀吉に向けられた。
「はい、降伏を促す書状を送り、返事を待っているところにございます。」
 秀吉が答えると、信長はそんなことはどうでもいいと言うように鼻を鳴らす。
「今更なぜ降伏などと、戯けたことを申しておる? 長政は儂を裏切った。妹をくれてやったにも関わらずだ。慈悲をかけてやる必要はない。そうではないか?」
 信長は目の前に長政がいるかのように瞳をぎらつかせ、怒りの滲む声で言った。自分を裏切った者に対する信長の頑なさは、哀れに思われるほどである。何故儂ではなくあやつに付いたのだ? 何故儂ではないのだ? そういった類の感情が、その言動から読み取れるのだ。
「上様の仰る通りにござる!」
 勝家が声を張り上げると、他の武将たちも触発されたように、小谷城への総攻撃を異口同音に唱え始めた。
「左様。浅井を滅ぼせば、未だ我らに従わぬ本願寺なども、怖気付くに相違ありませぬ!」
「直ちに攻撃を始めましょうぞ!」
 半兵衛は目を伏せた。もはや信長の怒りと諸将の興奮を鎮めて降伏を促す方向に持って行くのは不可能に近い。幻に見た例の兵が、再び半兵衛の脳裏をよぎる。
「よくぞ申した。猿、お主も異存はないな?」
「は。」
 秀吉は深く頭を下げ、その体勢のまま、視線だけを半兵衛の方に向けた。
「上様。」
 半兵衛は秀吉の視線に応えるように、なるべく落ち着いた調子を心がけながら口を開いた。こうなってしまっては、なるべく損害が少なくて済むよう手筈を整える他ない。
「恐れながら、上様に一つ、お尋ねしたきことがございます。」
「何だ?」
「お市様と、その姫君のことです。」
 半兵衛はそう言った瞬間、誰からともなく動揺が場に広がっていくのを感じた。先ほど信長も口走った通り、長政の妻・お市の方は信長の実妹で、長政との間には三人の姫が生まれている。
 信長は黙ったまま、しかしわずかに視線を半兵衛からそらした。
「総攻撃となれば、当然城内のお市様にも危害が及ぶことが考えられます。……されどお市様やお子様には、罪はございませぬ。」
 確かに、と誰かが呟くのが聞こえた。
「それに、正面きって攻撃をかけても、我が方が徒らに兵を失うばかりにございます。上様、ここは攻撃の対象を絞り、お市様をお助けできるように戦を進めていく必要があるかと。」
「策があるのか、半兵衛?」
 信長が短く尋ねると半兵衛は立ち上がり、机に自分が持っていた地図を広げた。
「ご覧のように、小谷城は山の尾根に沿って、南北に広がっております。まず攻めるべきなのは、この京極丸です。」
 半兵衛は地図の中の、本丸の上に位置する建物を指差した。信長は右手の人差し指で唇をなぞりながら、半兵衛の話を聞いている。
「京極丸は長政の籠る本丸と、長政の父久政がいる小丸の、ほぼ中央にございます。それ故ここを落とせば、両者の連絡を断つことができましょう。長政は父親の顔色を窺えなくなり、結果としてお市様を城外へ出すという決断を下すことが容易になると考えられます。京極丸の周囲は急な斜面が多く難所ではございますが、ここを押さえれば、小丸と本丸を攻めるのは容易いこと。」
「なるほど。……よく分かった。」
 半兵衛は頭を下げ、席に着く。信長は少しもったい付けたように諸将を見渡してから、口を開いた。
「半兵衛の策を採る。猿、そちは明日、京極丸を攻めよ。」
 秀吉がはっ、と張りのある声と共に、頭を下げた。
「奪った京極丸には、儂も入る。……裏切り者の息の根は必ず絶やす。皆もそう心得よ。」
 信長は一点を睨みつけながら低い声で言うと、すっくと立ち上がりその場を離れた。

 軍議が終わった後も、半兵衛は一人席に残り、先ほどの地図を眺めていた。
 考えているのは、「武士として」降伏はせぬという、例の長政の態度のことである。
 「武士として」と彼は言う。では武士らしいとはどういうことか? よく言われるのは、義だの忠だのといった言葉である。長政の場合は、朝倉に対するそれということだろうか? それとも、一度決めたことは貫くという意味か? その義とやらのために、今まさに多くの血が流れようとしているのに、その事実には目を留める気配もない。
 とは考えてみたものの、半兵衛自身にも義というものに対する憧憬の念がない訳ではなかった。いやむしろ、人より強いのではないかとさえ自分では思っている。これだと思うものを見つけて、全てを懸けてみたかった。しかし現実を見てみると、義や忠という概念が人の目を曇らせ、残酷な行為を正当化している。こうした概念にこだわって兵の命にまで気がまわらない長政も然り、裏切り者に、忠でないとみなした者に怒るあまり和平の道を閉ざした信長もまた然り。自分が義を尽くそうと思えるものが見つからず、その場しのぎの策を立てるしかない現状に、嫌気が差しつつあった。

 翌日、秀吉軍は夜が明けぬうちに虎御前山を出陣し、京極丸が建つ斜面の裾の辺りに移動した。浅井側もこの動きに気が付いたらしく、既に京極丸を囲むように、多くの兵が立っているのが見える。
「見れば見るほど、急な斜面だな。」
 馬上の秀吉が京極丸を見上げて言った。何でもないかのように振る舞っているが、目が泳いでいる。半兵衛は自分の馬の手綱を引き、秀吉に近づいた。
「抜かりはないな?」
「万事整っております。」
 秀吉は表情を引き締めて頷くと、馬を数歩前に進めた。
「この戦、全ては我らの働きにかかっておると言っても過言ではない! 難所ではあるが、必ずこの京極丸を攻略する!」
 兵たちの応、という声が地鳴りのように響く。秀吉の右手が上がった。
「かかれ!」
 法螺貝が鳴り響き、兵士は一斉に斜面めがけて走り出す。黒い波が城に襲いかかっていくかのように見えた。
 始めのうち秀吉軍は苦戦を強いられた。斜面の上に構えている浅井方の兵からは、こちらの動きが分かるので当然ではある。浅井軍は斜面を登ってくる秀吉軍の兵たちに、大量の矢を射って応戦した。しかし数で勝るのは秀吉軍の方であるため、何人かが斜面を登りきり京極丸に達すると、形勢は逆転した。弓を手にしていた兵たちが秀吉軍の足軽に斬られ、攻撃がゆるんだところで一気に攻め上がる。
「申し上げます! お味方、京極丸に入りました!」
 一刻と経たないうちに、秀吉の元には戦況の有利を伝える報告が次々に入った。
「よくやった! このこと、本陣の上様に急ぎ伝えてくれ。」
 こういう時の秀吉は、高揚感に頰を紅潮させ心の底から嬉しいというような顔をしている。自分は久しく見せたことがない、と半兵衛が思うような、子どものように無邪気な笑みを浮かべるのだ。自分が信長の力になれているということが誇らしいのだろうか。
「半兵衛、お主が申した通り、これで本丸と小丸の連絡は絶たれたな。」
「はい。上様が京極丸に入られたら、今一度長政に書状を送るのがいいでしょう。降伏の意思はないのかと再度問いかけ、こちらがお市様や姫様方に手出しをするつもりはないということもはっきりさせておくのです。」
「分かった。儂から上様に進言しよう。」
 秀吉は頷くと、我らも京極丸へ向かうぞ、と半兵衛を促した。
 その日信長軍の勢いは、止まるところを知らなかった。信長は京極丸へ入るとそのまま直ちに小丸への攻撃を開始し、日が暮れる前にこれを占領して、久政を自害に追い込んだのである。夜になって京極丸に諸将を集めた信長は実に上機嫌で、半兵衛の策を、次いで秀吉の手際を褒めた。
「猿、京極丸を攻略した此度の働き、見事であった。」
「ありがたきお言葉にございます。」
「して、長政に書状を出したそうだが、どうなった?」
「あくまで断固として戦うとのことにございました。お市様のことには触れておりませんでしたが、我らにお市様お救いする用意があるということは伝えております。」
「それで十分だ。猿、明日はお主の軍が先頭となって本丸を攻めよ。よいな?」
「はっ、必ずや本丸を攻略いたしまする!」
 秀吉の返事を確かめると、信長は満悦そうな笑みを浮かべる。瞳の奥にはやはり、燃えたぎるような憎悪が宿っていた。

 城に籠る浅井軍は、わずかに五百。
 勝敗は初めから、決しているようなものであった。
「お味方、城内へ突入。長政は自害致しました!」
 本丸の周りに半円を描くように構えていた秀吉の陣に、伝令兵の叫びに近い声が響いたのは、二九日の昼のことだった。その場にいた者は皆はっとして背筋を伸ばし、すぐに花が咲いたかのように顔を綻ばせる。半兵衛も思わず立ち上がった。
「おお、やったか!」
 秀吉は飛び上がらんばかりだ。するとその時、また別の兵が駆け込んできた。
「申し上げます。お市様と姫様方は、無事に信長様の元へ行かれました。」
 どよめきが更に大きくなる。半兵衛は皆の視線が、己に集中するのを感じた。
「狙い通りにございましたな、竹中殿!」
「長政の行動を読まれたご慧眼、流石にございます!」
「いや、」
 半兵衛はほとんど無意識に、その熱っぽい視線から目を逸らした。自分の策で味方が勝ったことは分かっているはずなのに、半兵衛はどういう訳か、皆のように素直に喜べない自分を感じた。しかし誰も半兵衛の様子に気を留める者はなく、それぞれが勝利の歓喜に酔っている。
「勝ち鬨をあげよ!」
 秀吉が叫ぶと、すぐに誰かがえい、えい、と声を張り上げた。おう! その場にいる全員の拳が一斉に突き上げられる。その勢いに押されるように、半兵衛は思わず二、三歩後ずさった。
 半兵衛はふと、今は味方の手に落ちた本丸を見た。その最上階で、誰かが旗を掲げている。鮮やかな黄色の地に、黒で染め抜かれた永楽通宝の模様——信長の旗だった。

 虎御前山に戻った半兵衛が秀吉に呼び出されたのは、それから二日後の夜のことである。言われた通り秀吉の部屋へ行くと、秀吉は例の如く屈託のない笑みを浮かべて半兵衛を招き入れた。
「待っておったぞ、半兵衛。さ、まずは飲め。」
 差し出された杯を、軽く頭を下げてから受け取る。
「お主とは、まだゆっくり話せておらんかったからのう。……浅井との戦も、これでようやく終いじゃ。」
「はい。……まことに、長き戦にございました。」
「お主の策は天晴れだったぞ、半兵衛。儂も皆も、どれだけ救われたか。」
 お世辞であることなど疑う余地もないような明るい声で言う秀吉に、半兵衛は返すべき言葉を持たなかった。
「あまり嬉しそうではないな。」
 半兵衛の様子を見て、秀吉は笑みを収める。驚くというより確認しているような口調に、秀吉だけは勝利の報を受け取った時の半兵衛の反応を気にかけていたのかもしれない、と半兵衛は思った。
 策を立てて、勝利に貢献することができた。長い戦は終わった。それは確かに、喜ぶべきことだろう。しかし、こういうことではないのだ、という思いが、半兵衛に付きまとっていた。この戦で、どれだけの兵が犠牲になったことか。最終的に長政が自害して終わるのなら、これほどの犠牲を払う必要はなかったのではあるまいか。互いにむきになり、尤もらしい言葉で戦を飾り立てて。半兵衛にとってこの戦は、最善とは決して言えないものであった。
「いえ、そのようなことは。」
 半兵衛はしかし、この胸中の思いを、どう話せばいいのかも分からなかった。秀吉は「そうか?」と半兵衛を見定めるように言うと、自分の杯に酒を満たし、くいと飲み干す。
「のう。お主は、儂が何故上様にお仕えしているのか分かるか?」
 秀吉は突然、何かを打ち明けるような口調で切り出した。半兵衛は数度、瞬きをする。
「はじめはな、上様が儂を重宝してくださるのが嬉しゅうて、もっと上様に喜んでいただきたい、もっと重要な働きをしたいと思っておった。されど近頃は、少し変わってな。上様は、儂よりもずっと遠いところを見ておられる。先のことについて語られる時の上様が、儂は好きでな。」
「先のこと……にございますか。」
「左様、天下統一のその先じゃ。のう半兵衛、天下統一が成ったら、この国はどうなると思う?」
「……戦はなくなりましょうな。」
 半兵衛の答えを聞いた秀吉は、我が意を得たりとばかりに何度も頷いた。
「そうじゃ、そうじゃ。儂はそういう世が見てみたくなった。お主もそう思わぬか?」
「無論です。されど、戦無き世を作るために、多くの血が流れるような戦をするというのでは、本末転倒だと……某は考えてしまいまする。」
 素直に本音が出たことに、半兵衛は動揺した。上げかけていた杯を下ろす。
 唐突に、秀吉がふっと鼻を鳴らした。訝しんで見ると、秀吉は悪戯っ子のように笑っている。
「それがお主の仕事であろう。」
「某の?」
「儂もお主の考えは、その通りだと思う。姉川の時のことで懲りたはずだったが、またも多くの兵を亡くしてしもうた。されど何もしなければ、戦無き世は作れぬであろう? ならば、戦わねばよい。ほれ、お主がよく読んでおる、何と言ったか、中国の……。」
「孫子ですかな。『戦わずして敵の兵を屈するは、善の善なるものなり』。」
 半兵衛はそう口にしながら、幼い頃から暗唱してきて聞き慣れているはずの言葉によって、今まで見えていなかった、新しい世界が見えたように感じた。
「よく分かっておるではないか。半兵衛、儂と共にそれを目指さぬか? 血を流さずに、泰平の世を作るのを。」
 秀吉は身を乗り出すようにして言う。その笑顔は半兵衛を、それが本当にできるのではないかという気にさせるのだった。
(全く、秀吉様には敵わぬ……。織田方に付くよう誘われた時も、結局はこの秀吉様のお顔を見て、その気になったような気がするが。同じ手に乗ってしまうとは、儂らしくもない……しかしたまには悪くない。)
「『必ず全きを以って天下に争う』ですな。これも孫子ですが。」
「ん? お主はまた難しいことを言うな。まあお主が言うならそうであろう。……さ、もっと飲まぬか。」
 半兵衛も笑顔でこれに応じた。先刻までの懊悩は、跡形も無く消えている。少し言葉を交わしただけなのに、不思議なお方だ、と思った。そして同時に、こうも思う。このお方の元で最善の策を立て、天下泰平を目指すことは、もしかすると自分が求めていた、自分の全てを懸ける価値のある大義であるのかもしれないと。

「広いのう、半兵衛! ほら、早く来い。」
「そうしておられますと、童のようですな、殿は。」
 それからおよそ一月の後、秀吉と半兵衛は琵琶湖の湖畔を歩いていた。湖から吹く湿り気を帯びた風が、肌に心地良い。一歩踏み出すごとに、さらさらとした砂が草履の隙間から入ってきてくすぐったかった。
 二人がここ今浜へ来たのは、この地に新しい城を作ろうと考えているからである。
 この一月の間に、秀吉の立場は激変していた。浅井攻めでの功績が信長に認められ、浅井家の領地であった近江の三群、十二万三千石を与えられたのである。これで秀吉は、夢にまで見た城持ち大名となった。これに伴って半兵衛も、秀吉が新たに召し抱えた三百人余の家臣たちと共に、正式に軍師として秀吉に仕えることを決めた。
 通常であれば、秀吉が小谷城に入るのが習わしであったが、半兵衛はこれに異を唱えた。これからは城を中心とした街を作り、領地経営に力を入れるべきだと考えたのである。城下に人が集まり、豊かになれば、石高以上の力を得ることができる。それで琵琶湖の北側に位置する今浜に城を建て、城下町を作るという提案をしたのだった。
「城はこの辺りかのう、半兵衛?」
「はい、湖の中の浮島のようになりましょう。周りを水に囲まれておれば、小谷城のような山城でなくとも守備は充分。水上の交通の便も良くなります。」
「それは素晴らしい! 誰も見たことのない城になりそうじゃのう。」
 秀吉はそこでふと立ち止まり、琵琶湖を見渡した。
「……ところで半兵衛。城ができたら、この地の名を改めたいのじゃが。」
「今浜、では駄目なのでしょうか?」
「いやせっかくだから、新しい名を付けたいではないか。信長様も稲葉山城を攻略された時、あの地を岐阜と改められたであろう?」
「上様の真似事にございますか。」
「いいではないか!」
「しかし殿、もう何か考えがおありで?」
 半兵衛が尋ねると、秀吉はよくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに胸を張る。
「おう、考えておるぞ。」
 秀吉は勿体つけたように一度そこで言葉を切り、
「ながはま、というのじゃ。」
と得意げに言い切った。
「ながはま……。」
「左様、信長様の長に、今浜の浜と書いてな。いいであろう! 長く栄えるように、という意味で!」
 長浜、と半兵衛はもう一度口にした。新鮮な響きに、少しく心が躍る。名前が付けられたというだけで、琵琶湖に浮かんだ城を中心にこの地が栄える未来が見えたような気がした。
「良いのではないでしょうか。」
「半兵衛もそう思ってくれるか! 楽しみじゃのう、長浜城ができるのが。よし、次は向こうを見るぞ。」
 再び歩き出した二人を、まだまっさらな長浜の地を見守る秋の太陽が見下ろしていた。

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