第二部

「半兵衛様にお会いしたい、と仰っている方がおられるのですが。」
 天正三年七月。唐突に長浜城の半兵衛の部屋を訪れてこう告げたのは、秀吉が気に入って召し抱えたばかりの石田佐吉だった。
「播州御着城の家老、小寺官兵衛殿にございます。」
「ほう?」
 確か織田方につくというので岐阜の信長に拝謁した帰りに、数日前からこの長浜に滞在している男だった。信長の覚えもよく、かなりの切れ者らしいというが、どんな男なのだろうか。そして、自分に何の用があるというのか。
「会おう。こちらに来てもらえ。」

(これは。)
 しばらくの後、佐吉に連れられて入ってきた官兵衛を見て、半兵衛は少し目を細めた。
 官兵衛は、半兵衛より少し年下らしい男だった。背は取り立てて高くはなく、顔立ちも特に目立つ所はない。それなのに半兵衛が一目でこの男に興味を持った理由は、彼の醸し出す雰囲気にあった。
 一言で言えば、才気に溢れている。挑戦的に半兵衛を見つめる、黒目がちの瞳。わずかに上がった口角。隠そうとしても隠しきれない鋭さと自信を、その体に宿していた。
「御着城家老、小寺官兵衛にございます。」
 官兵衛は張りのある声で言い、頭を下げた。次いで半兵衛が名乗ると、官兵衛は物怖じせずに再び半兵衛を正面から見て、
「半兵衛殿のお噂、かねがね耳にしておりました。お目にかかれて嬉しゅうございます。」
と笑みを浮かべたが、目の奥は笑っていない。
(成る程。どうやらこの男、儂を試しに来たらしい。いや己を、ということか。)
 半兵衛は直感的にそう思った。秀吉か佐吉あたりから、半兵衛が長浜にいると聞いたのかもしれない。それで軍師半兵衛とはどれほどの男なのかを見極め、また自分の才を見せつけるつもりになったのだろう。
「官兵衛殿は、岐阜城で信長様にお会いしたとか?」
「はい、播州のことなどを申し上げ、信長様の愛刀をいただきました。……岐阜城と言えば、かつて半兵衛殿が占拠なされた城ですな。」
「はは、もう過ぎたことにござる。」
 官兵衛が挑戦的に口元を歪めると、半兵衛は笑って受け流した。しかし官兵衛は顔色も変えず、すぐにまた口を開く。
「ところで、某はこの長浜へ来るのも初めてのことにございましたが、ここに城を建てるというのも半兵衛殿のお考えで?」
「如何にも。」
「やはりそうでござったか。湖の上に城を作るなどということは、誰にでも思いつくことではございますまい。……されど某、この城を攻める術を心得ましたぞ。」
「ほう、長浜城を。それは是非、お聞かせいただきたいものにござる。」
 来たな。そう思いつつ半兵衛は頬杖をつく。官兵衛は自信有り気に顎を高く上げた。
「兵糧攻めにございます。この地には沢山の品物が水運を用いて運ばれているようですが、それらの品物をまずは攻め手が高く買い取る。商人はこの話に飛びつきましょう。すると城内に運ばれてくる品物は激減致します。その上で次に、……」
「官兵衛殿、」
 滔々と話し続けようとする官兵衛を、半兵衛は遮った。
「成る程、確かに興味深い策には違いありませぬ。されど優れた軍師は、初対面の人間に容易く己の策を打ち明けぬものにございまするぞ。」
 官兵衛の表情がそこで初めて崩れ、わずかながらも目を見張った。そしてやや怒ったように、
「貴重なご助言、しかと胸に刻みまする。……では今日はこれにて失礼させていただきます。信長様の中国攻めが始まれば、またお会いすることもございましょう。いずれその時に。」
と言って頭を下げ、再度半兵衛を真っ直ぐ見つめてから立ち上がり、部屋を後にした。
 官兵衛の姿が見えなくなると、半兵衛は一人、忍び笑いを漏らした。
(久し振りに、面白い男に会ったな。)
 官兵衛の住む播磨は信長のみならず、西国の名門毛利家が狙っている地だ。大名たちは、織田に付くか毛利に付くかで揺れている。にも関わらず官兵衛は御着城内の者を織田に付くという方向で一致させたというから、それなりに弁舌の使える男なのだろうとは思っていたが、成る程まだ若い官兵衛があのような雰囲気を纏っていれば、大抵の者は怖気付くに違いない。その才が圧倒的である上それを隠そうともしない故に、敵も多そうではあるが。
 秀吉はすでに、中国統一の総大将に任命されている。統一に乗り出すことになれば官兵衛の言う通り、秀吉も半兵衛も播磨の地に赴くことになろう。官兵衛が挑戦的であったから、自分もあのような態度を取ってはみたが、今日官兵衛が示した長浜城を落とす策は戦をせずに勝つという半兵衛の思想にも合い、興味深いものだった。中国攻めの時にも官兵衛は、あの自信に裏付けられた独自の策を立ててみせてくれるのだろうか。それとも、口だけの男に過ぎないのか。
(その時に、お手並み拝見といこうじゃないか。)
 半兵衛は内心でこう呟き、ふっと息を吐き出した。

 年が明けて天正四年になっても、信長が毛利攻めを開始する気配はなかった。石山本願寺を始め信長に刃向かう勢力は多く、なかなか実現には至らなかったのである。
 しかし半兵衛が官兵衛の実力を知る機会は、意外にも早く訪れた。
 年が明けてからというもの、半兵衛は長浜と、同じく近江の安土とを行き来していた。信長が一向一揆や上杉謙信の動きを警戒してこの地に城を建てることに決め、秀吉もその奉行の一員となったからである。
「今日も賑やかにやっておるな!」
 四月のある晴れた日、半兵衛は同じ秀吉の側近・蜂須賀小六と共に築城の現場を歩いて回っていた。
「城の設計図を見たであろう、半兵衛? これだけの人を動員してあのような城を建てるなど、上様の他には誰も出来ぬわ。」
「左様にございますな。尤も、某の趣味には合いませぬが。」
「若いくせに、まことにお主は絢爛なものが嫌いだな。」
 軽口を叩きながらも、小六は作業をする者たちに声をかけている。織田の家中に加わるよう説得を受けた頃からの付き合いであるこの小六のさっぱりとした性格を、半兵衛は好ましく思っていた。
 小六は半兵衛が持っている地図を覗き込んでくる。
「この辺りは、順調に進んでいるようだな。」
「ええ。では次は反対側の、この辺りを、……」
 言いかけた時、不意に乾いた風が砂を巻き上げて勢い良く吹き、半兵衛は思わず咳き込んだ。
「大事ないか?」
「近頃のこの砂埃で、喉かどこかを痛めたのでしょう。大事ありませぬ。」
「気を付けろよ。お主が寝込んだりしたら築城が滞るぞ。」
 半兵衛は苦笑して、分かっておりまする、と頷く。
 二人が歩き始めた時、背後から誰かが走ってくる音がした。
「竹中様!」
 唐突に名前を呼ばれ、半兵衛は足を止めて振り返った。
「如何した?」
「長浜の秀吉様より、遣いの者が参っております。可能ならば長浜に戻っていただきたいと。」
 緊迫したその男の声に、半兵衛は小六と顔を見合わせる。
「何かあったのか?」
「播磨の小寺様から知らせがあったようで、……毛利が御着を攻め取ろうと、水軍を送ってきたとのことにございます。その数、およそ五千!」

 安土での仕事を早急に片付けると、半兵衛と小六は秀吉に指示された通り、馬に乗って長浜へと急いだ。播磨では有力な家であるとはいえ、御着城主の小寺家に五千もの水軍と対等に戦えるような戦力はない。御着が攻め落とされるようなことがあれば、播磨に於ける毛利の勢力が更に力をつけてしまう。万一のことも考え、対応を話し合わなければならない。
 しかし長浜へと向かう途中半兵衛の頭にあったのは、小寺官兵衛がこの事態にどう対処するのかということ、そして自分ならばどうするのかということだった。
(まともに戦えば、万に一つも勝ち目はない。和議も望めぬ。となれば、やはり奇襲か。それにしても兵力差が多すぎる。結局、味方の損害は甚だしいものになろう。では、どうするか。)
 馬を走らせながら考えているうちに、やがて半兵衛は一つのことに思い至った。
(毛利に弱点があるとすれば、誰から見ても圧倒的に有利だということだ。そこには慢心と油断が生まれる。それを利用すれば勝つ見込みはあるやもしれぬ。)
 こういう考えから、半兵衛が考え出したのは、地元の百姓たちを利用して奇襲を仕掛けるという手だった。と言っても、百姓に戦をさせるようなことはしない。奇襲の際に、百姓たちに後方で旗などを持って騒いでもらい、大軍であると相手に思い込ませて戦意を喪失させるのである。軍を追い払うだけなら十分だろう。
(さて、貴殿はどうなさる……)
 長浜に着くと、半兵衛と小六はすぐに秀吉の部屋に向かった。中には秀吉と佐吉がいて、何やら話し込んでいる。
「おお。戻ったか!」
 二人の顔を見ると、秀吉は例のごとく花が咲いたような笑みを見せて手招きをした。火急の用で呼び出しておきながら、その声や表情に緊迫した所が何もないのを訝しく思いつつ、半兵衛は腰を下ろす。
 そこで秀吉が口にしたのは、思いも寄らない言葉であった。
「すまぬ、せっかく戻って来てもらったが、どうやらその必要はなかったようじゃ。」
「必要はない? 播磨の毛利軍はどうなったのです?」
「官兵衛じゃ。奴が追い払ったらしい。」
「官兵衛?」
 話が読めず半兵衛と小六が唖然としていると、秀吉の傍に控えていた佐吉が二人に一通の書状を差し出した。
「今朝、官兵衛様より届いた書状にございます。毛利軍に奇襲をかけ、追い払うことに成功したと。」
 半兵衛は書状に目を通し、そこに書かれていることに瞠目した。百姓たちに幟を持たせて大軍がいるように見せかけ、毛利軍を退却させたと、半兵衛の頭の中にあったのとほぼ同じ策が説明されていたのである。
「どうした、半兵衛? お主が斯様に驚くとは、珍しい。」
 小六に声をかけられて始めて、自分が口を半開きにしたまま固まっていたことに気づいた。
「いえ、大したことではございませぬ。ただ、この策は某も、……」
 自分が考えていたことを説明すると、小六と佐吉は目を見開き、秀吉は愉快そうに笑った。
「何と、全く同じではないか! 半兵衛、お主と官兵衛には、神通力か何かがあるのやもしれぬぞ。」
「お止めください、殿……。偶然にございましょう。」
「しかし斯様なことがあるのでございまするな……。お二人とも、流石と言うより他にありませぬ。」
「佐吉、」
 半兵衛は佐吉を止めようとしたところで、不意に顔色を変えて俯き、
「ともかく、話し合う必要がないようでございます故、某はこれにて……」
とやや強引に言ってその場を後にした。
 廊下に出た半兵衛は、さては照れておるな? いや、悔しいのでございましょう……などと三人が話すのを聞きながら、足を速める。角を曲がり、周囲に誰も人がいなくなったところで、がくりと膝をついた。
「……っ」
 半兵衛は咳き込んだ。咳は次第に突き上げるように激しくなり、息を吸おうとする度に鋭い痛みが胸に走る。半兵衛は何が起きているのかまるでついていけない自分に気づきながら、体を縮こめるようにしてひたすらに耐え続けた。
 ようやく少し治まると、半兵衛は思わずぐったりと背を廊下の壁に預ける。息が静まらず、しばらくは立ち上がれそうになかった。夢でも見ていたのではないかというような気持ちのままゆっくりと右手で口元を拭うと、手に生温かい液体が触れる。はっとして見ると、先程まで口を押さえていた掌には、鮮やかな血がついていた。
(何の冗談だ?)
 半兵衛は場違いにも、この状況を笑い飛ばそうとした。冷静になって考えると、このことが何を意味するのかということが分かってしまいそうで怖かった。しかしどれほど捻り出そうとしても、自分を落ち着かせられるような気の利いた冗談は出てこなかった。
(儂は、……死ぬ。)
 誰かに指摘されずとも分かる。自分は知らぬ間に、労咳に冒されていたに相違ない。例えそうでなかったとしても、あれほど咳き込んで血を吐いた人間に長い未来が約束されているとは思えなかった。
「儂と共にそれを目指さぬか? 血を流さずに、泰平の世を作るのを。」
 かつて秀吉に言われた言葉が蘇る。この長浜の地で半兵衛は、それを心に決めたはずだった。それなのに、世はまだ治まる気配を見せていないのに、自分は。
(どうすればよい……)
 半兵衛は一人、途方に暮れていた。

 病を自覚した半兵衛はしかし、そのことを誰にも言わず働き続けた。周囲に打ち明ければ病人扱いされ、療養せよと言われるのが目に見えていたからである。
「やはり、気に食わぬ!」
 年は改まり、天正五年。加賀の陣中にある自室で、秀吉は怒鳴っていた。一目で相当酔っているのが分かる。
「儂を何だと思っているのだ、奴は! あのような無茶な策に賛同できる訳がなかろう!」
「聞こえまするぞ、殿……。」
「構わぬ!」
 そう言って秀吉は更にもう一杯酒を飲み干す。傍の佐吉が困ったように目配せをしてきたので、半兵衛は黙って首を振った。秀吉が自棄酒でこれ程酔っ払うのは、滅多にないことだった。
 無理もないことでは、ある。
 この年の夏頃から、秀吉軍は加賀に赴いていた。上杉謙信に攻められた七尾城主・長続連が信長に援軍要請をしたため、それに応える形で結成された四万の軍勢に加わったのである。この軍勢は信長配下の実力派揃いだが、秀吉にとって問題なのは、総大将が柴田勝家であるということだった。
 勝家は織田家中でも有数の豪傑である。実直かつ剛胆で悪い男ではないが、その分武士というものに対する理想も高く、農民出身でありながら成り上がってきた秀吉とは折り合いが良くない。どうやらお互いの言動がいちいち気にさわるらしく、連日の軍議はこの二人の言い争いに終始していた。
「ああ、長浜に帰りたいのう。そしていい加減、播磨へも行かねばならん。斯様な場所で奴とおるより、よっぽどいいではないか……。」
 秀吉はそう言いながらごろりと横になる。その後も何やら呟いていたが、やがてその声は聞き取れなくなり、寝息に変わった。「眠ってしまわれましたな。」
 佐吉がまだあどけなさの残る顔で、心配そうに秀吉を見遣った。
「殿と柴田様とは、相性が悪いとしか言い様がないからな。犬猿の仲、という奴だろう。」
「柴田様が犬ですか。」
 滅多に冗談を言わない佐吉が真面目な口調で言ったので、半兵衛はふっと笑った。
「しかし、参ったな、このままろくに戦が進まぬようでは。毛利のことも気がかりだ。儂としても、早くそちらに向かいたいことに変わりはないが……。」
 半兵衛の脳裏を、播磨へ行ったとしたら自分は再び長浜に帰ることができるのだろうかという思いが、ちらとよぎった。それを打ち消すために目の前の問題を考える。この場を上手く収めるには、どうすれば良いか。
 不意に、長浜へ帰りたい、という秀吉の言葉が胸に引っかかった。
「佐吉、殿を起こして差し上げろ。」
 半兵衛が言うと、佐吉は唐突なその言葉に怪訝な顔をしつつ、黙って秀吉の肩を揺す振った。秀吉が薄っすら目を開けたのを見て、半兵衛は再び口を開く。
「殿……長浜に帰りたい、と仰いましたな。」
「ん? ああ、言ったぞ。」
「そのお気持ち、嘘はございませんな?」
「……急に何を言うのじゃ。」
 秀吉が起き上がる。佐吉も隣で、真意を探るように半兵衛を見ていた。
「長浜に帰り、播磨へ行くための策を思いついたのです。」
「何、まことか。素晴らしいではないか。」
 秀吉がぐっと身を乗り出し、半兵衛の肩を掴む。
「少々手荒な真似を致しますが、宜しゅうございますか?」
 半兵衛はそう前置きしてから、秀吉にその策を耳打ちした。秀吉の顔が、みるみる険しくなっていく。
「そのようなことをしたら、上様のお怒りを買うのではないか?」
「ご心配には及びませぬ。どうか某にお任せください。」

「だから、言うておるではないか秀吉。今なすべきなのは、一刻も早く七尾城へ向かうこと。それ以外に何がある?」
「某とて、それに反対するつもりはありませぬ。ただ情報も不確かなまま行軍を進めるのは危ないにも程があると申しておるのです!」
 翌日の軍議でも、やはり秀吉と勝家は互いに噛み付くような勢いで口論を始めていた。
 秀吉が懸念しているのは、近頃七尾城側から入ってくる情報が極端に少ないということだった。この辺りは一向一揆の勢力も強く、情報が彼らの手によって遮断されているとも考えられる。とすると七尾城周辺の実情は分からないため、行軍は慎重に進めるべきであろうと秀吉は唱えていた。これに対し勝家は、無理をしてでも七尾城へ向かい、救援を急ぐべきだと主張している。
「無茶な行軍をしては、兵の疲弊を招きます。何故柴田様ほどのお方が、斯様なことにお気づきになられぬのか!」
「状況が分からぬから進まぬとは、腰抜けか、お主は! 武士としてはいかがなものか。いや、そもそもお主は武士の何たるかなど知らぬか。」
 勝家が嘲笑うように言うと、秀吉が両手を机に叩きつけて立ち上がった。
「何を仰せか!」
「百姓風情が、武士の戦に口を出すな!」
「柴田様、」
 勝家が怒鳴った刹那、半兵衛は口を挟んだ。
「我が殿のお言葉に耳を傾けて下さらないのなら、最早我らがここにいる意味はございませぬ。後はお好きなようになされば良い。……殿、参りましょうぞ。」
 周りの武将たちがざわめく中、半兵衛は立ち上がって勝家に一礼し、秀吉と視線を絡ませた。秀吉が小さく頷いて席を離れると、半兵衛もその後についていく。
 待て、という勝家の声が聞こえたが、振り返ることはなかった。

「上様は激怒しておられますぞ。」
 数日の後、長浜城。半兵衛の部屋を、佐吉が訪れていた。平静を装っているようだが、顔には不安が透けて見える。
「我らに謀反の疑いまでかけておられるとか……。」
「酒の用意は済んでおろう? 予定通りだ。」
 半兵衛がそう言って微笑んでも、佐吉の表情は晴れない。
「それに、官兵衛様からも、此度のことを心配する文が届いておりますが。」
「何?」
 その名を、随分久しぶりに聞いた気がした。佐吉が頷いて、書状を半兵衛に差し出す。中身にさっと目を通した。
「すぐに返事を書く故、少しそこで待っておれ。」
 半兵衛は文机に向かう。文面は不思議なほどすらすらと思いついた。
 ——心配には及ばぬが、貴殿の不安は尤もだ。可能であれば、長浜に来られるといい。

 果たして官兵衛はやって来た。
 秀吉を始め家臣たちが大宴会を開いている広間に。
「これは、」
 広間の入り口で、あの不敵な笑みを作ることも忘れ立ち尽くしている官兵衛の姿を認めると、半兵衛は可笑しくなった。酔いつぶれている家臣たちを踏まぬように気をつけながら近づいていく。
「やあ、官兵衛殿。貴殿も一杯如何か?」
「半兵衛殿、これはどういうことにござるか。秀吉様に謀反の疑いありと聞いて来てみれば、この騒ぎだ。」
 半兵衛はその問いには答えずに黙って微笑み、
「こちらへ。」
と、官兵衛を自室へと誘ったのだった。
 席に着くと、半兵衛は何か言いたげな官兵衛を尻目に、努めてゆっくりと口を開いた。
「わざわざお出でになるとは。ご心配、忝い。」
「半兵衛殿、説明を願いまする。一体何のつもりで、」
「お判りにならぬというのか、貴殿ほどのお方が?」
 半兵衛が言うと、官兵衛は顔を顰めて押し黙った。考え込んでいるような表情になる。
「加賀の陣から無断で帰営したのは、柴田様の方針に従うことができかねたからにござる。されど上様のご意向に逆らうことになるのは疑いない。お怒りを買うのは目に見えておりましょう。貴殿ならどうなさる?」
「沈黙を続けていれば、寝返るための支度をしていると思われまするな。ならば、……」
 官兵衛はそこまで呟くように言ったところで、はっと目を見開いた。
「宴会を開いたのは、謀反をするつもりなどないと示すため……? そこまで考えて、加賀から帰営されたのですか?」
 半兵衛は笑みをもってこれに答えた。官兵衛が悔しそうに俯く。
「全てが貴方の策であったとは……思いもよりませんでした。此度は某の負けにござる。」
「何を競うておるのです。」
 とんでもない負けず嫌いだな、と思った。それでいて、自分の至らぬところは素直に認めるらしい。
「官兵衛殿、少し違う話をしてもようござるか?」
 官兵衛が顔を上げる。
「貴殿が毛利の水軍を追い払った時、儂は驚いた……貴殿が採った策は、儂が考えたものと全く同じだったのだ。貴殿は味方の損害を少なくするために、あの策を講じたのではないか?」
 官兵衛は突然の打ち明け話に戸惑った様子だが、それでもはっきりと頷いた。
「敵の戦意を挫けば、まともにぶつかり合わずとも追い払うことができると思いました。」
 予想通りの答えだった。
「儂と殿はそうやって、血を流さずに泰平の世を作ろうとしておる……。官兵衛殿。儂よりも先を読み、儂よりも優れた策を立てたいのなら、広い目を持つことだ。この世を変える、それ位の気概がなければならぬ。」
 かつて官兵衛がそうであったように挑戦的な表情を作って言いながら、半兵衛はさりげなく本音を込めていた。自分の余命が決して長くないことは、認めざるを得ない。しかし戦わずに天下泰平をという決意が自分と共に潰えてしまうと思うと遣り切れなかった。そして今こうして官兵衛と話しているうちに、その決意を受け継いでくれる者がいるとしたらそれは、自分と同じ策を思い付いた男の他にないのではないか、と思い始めたのである。
 官兵衛は大きく息を吐き、唇を噛み締める。そして目の奥に鋭い光を宿らせ、半兵衛を見た。
「心得申した。某必ずや、半兵衛殿も思い付かぬ策を講じ、天下泰平のための力になりまする。」
「それは楽しみだ。」
 二人の視線が絡み合う。今はまだ、気づいていなくても良い。しかしいつか半兵衛の真意を知った官兵衛が、この日のことを思い出してくれればと、半兵衛は密かに願った。
 秀吉軍が信長の許しを得、播磨へ向かうことになったのは、それから間も無くのことである。

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